金曜日の夜は早く寝た割には夜中に暑さで目覚めて全くの睡眠不足。この大きなお屋敷中に暖房ががんがん入っていてラジエーターをしめても室内の熱気はなくならない。
貧乏性の私などこのお屋敷の光熱費がどれほど大きいだろうと心配になったくらいだった。
土曜日の朝は6時前に目覚め、まだ誰も起きてこない朝食用食堂でお茶を沸かし朝食セアリオを食べて7時に来ると言う美容師を待った。宿泊しているたくさんの招待客は午後一時の教会挙式まで自由だから皆朝寝坊をして好きな時間に起きて食堂で好きなものを食べてよいことにしてある。だから我娘はあらゆる朝食用セアリオを買い揃えてあり、お茶もコーヒーも多種あった。
7時に予約してあった美容師さんが私たちの部屋で私とブライドメードのかわいい女の子の髪を結い上げ、終わると3階の大きな屋根裏部屋で娘と大学時代からの友達のブライドメードの髪結いや化粧、着付けなどを行った。
その間私は持って行った紫色留袖を一人で着付けた。着物は英国へ来て40年の間に5-6回くらいしか着たことがない。それで今回はほとんど毎週着付けの練習をして帯も切ってお太鼓の格好にして簡易帯を作っておいた。だからほとんど一日中だった着物も着崩れすることなく楽に着ることができた。
パトリックのお母さんは息子たちの結婚式ごとにドレスを新調するが、日本の着物には及ばないよとパトリックに言われた。
11時に図書室で女性の登録書記官による正式の結婚式が執り行われた。この結婚は宗教には一切関係なく2人以上の証人立会いの下、法的に認められるもので、両家の親族だけが全部集まり見守る中、二人の宣誓と指輪交換,結婚証明書へのサインで終わる簡単なものだった。私たちも40年前、レジスター・オフィスでこんな簡単な結婚式をした。
これが終わると私の友達が用意していたブーケや襟飾りのお花を渡してくれ、すぐに滞在客や花婿、ベストマン、パトリックの親族は三々五々車でダルバートンの教会目指して出かけていった。
娘は急いで裾の長い結婚衣装に着替えてブライドメードと二人で出発、私たちも友達に便乗して田舎の狭い道を教会へ向かった。
一時には小さなカソリックの教会で牧師による結婚式が執り行われた。パトリックの両親とブライドメードが聖書の朗読をし聖歌を歌い神に誓う結婚の儀が執り行われた。ここでも再度指輪交換をして満面の笑みを浮かべた二人は招待客皆から祝福された。
ブライドメード3人とベストマンに囲まれた二人
お屋敷に帰ってくるとシャンペンとスナックが用意されており、次々到着したお客は玄関の大広間で暫らくリラックス、披露宴の始まるまでお屋敷の外で記念写真撮りがおこなわれた。披露宴の準備には数人のお手伝いを雇っており、彼らがテーブルへの食器や食べ物の運搬を受け持ってくれ、早朝打ち合わせた後は娘は一度もキッチンへ入らなくても良かった。
残念ながら食べ物の写真が一枚もない。何しろ披露宴が予定より遅れたためお腹を空かせた私たちはシャンペンで乾杯した後花婿とベストマンのスピーチを聞きながら夢中で食べ物を食べていた。スターターも娘の手作りのハムとフルーツ・チャツネ、昨日準備した肉や野菜、フィシュパイなどが出され、珍しい料理にお客さんもとっても喜んでくれた。
食事が終わって座が開けた後白いチョコレートのウエディングケーキを二人で切って皆が一切れづついただいた。
その後は飲みたい人踊りたい人、夜中の2時過ぎまで音楽が鳴り響き皆大いに楽しんだらしい。私は疲れきって早々に寝てしまった。この夜は大きな窓を2箇所全開にしていたから暑さに悩まされることも無かった。
日曜日の朝も寝静まっている6時前にはおきて荷物を片付け、キッチンを片付けにかかった。このお屋敷は11時には明け渡さねばならない。
100人分もクッキングするのを厭わない我娘ながら見積もりができなくていつも大量にクッキングしたり、高価な材料を余らせてしまう。今回も大量の野菜やチーズ、バター、パン、朝食セアリオ、飲み物等が山済みになっている。
9時過ぎから二日酔いの父親や、つかれきった女性たちが起きだして朝食を食べ出かける準備をして挨拶しに来る。皆が出てゆく11時までそれぞれに余った食べ物や飲み物を持って帰ってもらった。
私たちのキャンパーも持って行ったより多くの荷物を持って帰る破目になった。大量のケース入りワインも大幅にあまりパトリックに拠れば130本も余ったそうな。
11時お屋敷を出るときにマネジャーが”今まで多くのパーティ客を見ているけれどこんなにきれいに片付けていったグループは貴方たちが初めて。”と言った。そして花嫁がクッキングしたのも今までで初めてだと大いに感心していた。
忙しい3日間だったけど、ありきたりの結婚式でなくて何時までも思い出に残るだろう。
日曜日の夕方疲れ切って帰宅した。
今回 英国の結婚式の様子を書こうと思ったが、4月に行われた我娘の結婚式は英国の平均的な結婚式ではなかったから、タイトルも娘の結婚式と題した。
長年同棲し、大きな家まで共同で購入していた娘が昨年秋、ホリデーに行っていたカナダで婚約したと報告して来た。こちらにすれば何をいまさらと言う思いだったから、レジスター・オフィス(結婚登録オフィス)で簡単にすればと思っていた。ところが彼女のアイルランド人のボーイフレンド・パトリックの両親が厳格なカソリックときている。
カソリックの教会で結婚式を挙げないと認められないという。
ニューヨークに住んでいるパトリックの弟は数年前に今の奥さんと二人だけで結婚式をあげたそうだが、両親の逆鱗に触れて、昨年正式にカソリックの教会で挙式させられた。
無宗教の私たち夫婦からみるとそれほど宗教が大切なものかと思ってしまう。カナダから帰ってきた娘は結婚式をデボンのヴィクトリア時代のお屋敷で行うと宣言。ロンドン周辺の公民館かホテルでいいじゃないのとの私たちの言葉には耳も貸さず、デボンに決めたと言う。
そのお屋敷はロンドンから高速で早くて4時間、道路渋滞にあって6-7時間もかかったお客も居たから半端じゃない。そんなところを週末2回も下見に行って娘は4月に挙式を決めてきた。
英国では教会で結婚式を挙げるにはその教会のある地域に1週間以上滞在していなければ結婚証明書の発行ができない。また教会の牧師さんと宗教問答をしなければならない。ケントの中学・高校(11歳から18歳)で宗教学の教師をしている娘にはそれはお手の物。ところで結婚証明書を発行できるデボンのレジスターオフィスともアレンジして、教会挙式の前に登録書記官がお屋敷に来て挙式してくれることになった。
結婚式はデボンでも、式の1週間前から娘の住んでいる地域の市役所に結婚の表示がされる。その間に文句のある人は連絡してくださいとのことで、重婚を防ぐためだと言われる。
さてこのお屋敷はベッド数30、総勢72人の人達が宿泊できる。ホテルのようだが違うのは丸々一軒を借り受けるので招待客以外の人達は入館できず、まだ大きなキッチンで自分たちでクッキングができる。
料理が趣味で今まで何度も100人分くらいの料理を頼まれていた娘は、自分で披露宴の料理を全部作ると言う。
何時までも冬から抜け切れなかった3月半ば、結婚式前の諸事に私たちも手伝いしなければならないかもしれないと、暖かいポルトガルから帰ってきて震え上がった。おまけに私たち親の出る幕などほとんど無く4月半ばまで帰ってこなくても良かったのにと二人で嘆いたものだ。
式の一週間前には娘が買い込んだいろいろな道具や結婚衣装などが我が家に運び込まれ、これら全部をキャンパーで運ぶことになった。実際の結婚式は4月27日土曜日なのだが、私たちがキャンパーで我が家を出たのは木曜日の昼。夕方にはお屋敷から100kmほどロンドンよりのブリスタル近郊のホテルで一泊。娘とパトリック、それにブライドメイド(花嫁介添え役)の大学時代の友達とベストマン(花婿介添え役)のパトリックの友達もこのホテルで一泊した。この友達二人は木曜日の仕事が終わってからロンドンを出発したから、10時過ぎと夜中の1時に着いたという。
さて翌朝、娘とパトリックはウエディング・ケーキを引き取りにどこかの町へ行き、私たちはそれぞれ出発して教会のある小さな田舎町・村?ダルヴァートンで落ち合うことになった。このあたりは岡や林や牧場に谷川が多い全くの田舎でやっとたどり着いたダルヴァートンのセンターで何かのカンファランスがあったらしい。道路はどこも車でいっぱい、大きなキャンパーの駐車できる場所などどこにも無く、あれよあれよと言う間に町を通り過ぎてしまった。そのまま樹木の多い狭い山道になり折り返すのに数マイル行かなければならなかった。
やっとの思いで引き返してきて、こうなったら川渕で見かけたキャンプサイトに行ってみようと決めて一時間だけと頼んだところ、快く無料で駐車させてくれた。お昼12時半からこの町の小さなカソリックの教会で、結婚式の予行演習があった。
退屈な予行演習を終わるとすぐ各自の車で数マイル離れたお屋敷・ハンツシャム・コートへ向かった。何しろ狭い田舎道、キャンパー一台がやっと通れる幅しかなく対向車が無かったのは幸い、警笛を鳴らし続けてゆっくり走り30分以上もかかってやっと広大な敷地の奥に建つお屋敷にたどり着いた。
ハンツシャム・コートはヴィクトリア時代の壮大な建築物で、元はこの地の地主か貴族のお屋敷だったものらしい。一階は玄関を入ったすぐの大広間(ダンスホール)と蔵書で壁が埋め尽くされている図書室、120人の客を収容できる食堂広間、その横にソファーが並ぶ居間、廊下の向かいには酒倉とバーが付けられ、大きなキッチンの横に朝食の間があった。
2階の私たちの寝室が主賓室で4本の柱つきのベッド、ここで眠れるなんて一生に一度のことだろう。大きな寝室にこれまた風呂桶が2つも並んでいる大きなバスルーム・もしかして昔のご主人は風呂桶2つに一人づつはいって二人でシャンペンを飲んでいたに違いない。重いキャンペンボトル・クーラーが風呂の間に置かれていた。
2階には4本の柱のベッドの寝室が5-6室あり奥に行くと部屋も小さく普通のベッドで
家族の部屋だったらしい。3階は召使達の部屋だったのだろう。小部屋がたくさん並んでいて全部がトイレバスつきとは限らない。
さて金曜日の午後は夕方遅くまでクッキングとケーキデコレーションに追われた。
娘の大学時代の友達がその夫君たちと手伝いに来てくれ大きな台所いっぱいの食料の下ごしらえや煮炊きに追いまくられた。
ダイニングルームも料理が一段落したところで、皆で準備し飾り立て、結婚祝いにと日本の私の従姉妹から送られた和風ナプキンと祝い箸を各テーブルに置いたので華やかになった。
夕方やっとたどり着いた私のただ一人の日本人の友人が、お花全部を担当してくれた。巨大な生け花だけでなく、花嫁のブーケや親族の襟飾り、ブライドメードのブーケなど、大変な労力を使わせてしまった。
お屋敷を去るときにマネージャからダイニングルームのデコレーションが余りに素敵だったからこの写真をお屋敷の広告に使いたいと頼まれた。
金曜日の夕方には招待客が次々到着し、娘が前日クックした大なべ2杯分のカレーに20カップのご飯が炊かれた。この夕は結婚式前夜祭とて元気な男女は夜中遅くまで飲んで騒いでいたが、私などグラス3杯のワインで完全によっぱらって10時には寝てしまった。