クリスマスの翌日(英国ではボクシング・デイという)一日中青空で暖かい日だった。町とは反対方向へ散歩に行き、形のよい松林を通って海岸へ出た。砂浜が長く続いて、辺りには犬を連れて散歩している人たちや、魚釣りをしている人たち、すべてが穏やかで平和そのもの。テレビでは年末とて今年の最大ニュースを上げ連ねているが、よかったニュースといえばチリの炭鉱夫救助成功くらいで、世界中の争いとテロ、そして自然災害の頻発を報道している。
ここのキャンプサイトが気に入った理由のひとつに、衛星放送で今まで見られなかったNHKや韓国、中国、マレーシア、アメリカ、フランス、BBCの番組が見られることで、ニュースが主だけれども、それぞれ自国の宣伝もしっかりしているところが面白い。
砂浜で打ち上げられた貝殻を拾いながら、クェイテイラの町まで行く。町の東端から西端までこの立派なプロムナードが伸びていて、真夏の宵などはどれほどの人出だろうか。イタリアの夏は夕方プロムナードを着飾った人たちが散歩しながら、知人とおしゃべりなどして、宵の社交場になるので有名だが、ここポルトガルもスペインも夏は暑いから、夕方の涼を求めて歩く人たちのためなのだろうと思われる。
私は手洗いが嫌いで、イギリスに住んでいる時にはセーターなど手洗いしなければならないときは、最後までおいて仕方なく洗うのだけれど、ここポルトガルでは毎日下着など小物を洗うのが楽しみ、シーツやタオルだけは洗濯機を使うが、固形石鹸まで買ってきて、デコボコせんたく板でごしごし洗っているときはなんとなく楽しくなってくる。隣で洗っていたドイツ人の女性はこれは精神衛生によいのだと話してくれた。
真冬のこの時期、野原には野草の花が咲き乱れ散歩の帰りに手折った花をもって帰ると、”それは僕にくれる花束かい”と次々おじいさんやおじさん達から声がかかり、大笑いしてしまった。ポルトガル人の若い人に花の名前を聞いたら、子供のときからいつも見ているけど名前は知らないと言う。
水曜日、野菜市場が開かれる日、前日魚市場の在り処を見つけたから行ってみた。生きのよい魚が一面、はじめに写真を取り捲り、今まで見たこともないような巨大なモンコイカを写していたら”撮影1ユーロ”とおじさんが笑って言った。市場の魚は新鮮で刺身も大丈夫だけれど、市場の魚は非常に高い。刺身にと買ったヤリイカ一匹が8ユーロ、マッスル1kgが5ユーロ、などと安くないけどやっぱり買わずにいられない。夕食は刺身にパエリヤといろいろ買ってしまった。
”
クリスマスの一月ぐらい前からヨーロッパの町のいたるところで、クリスマスデコレーションが取り付けられ、これらは新年の7日辺り(はっきり覚えていないが)まで飾られる。
ここのキャンプサイトでもキャンパーやキャラバンの周囲に電飾飾りをきらきらさせて祝っている。中でも3軒のバンガローは聞いてみれば、各自買い取ったもので自宅だからであろうか、デコレーションの派手なこと。毎晩遅くまで辺りが明るく見えるほど光輝いている。
クェテイラの町も繁華街から海岸のプロムナードまでクリスマスデコレーションがとってもきれいだ。私たちは夜出かけることがないので、ここのデコレーションを初めて見たのが大晦日の夜11時過ぎだった。キャンプサイトで知り合ったイギリス人が大晦日の夕方、亭主に教えてくれ、嫌がる亭主を引っ立ててプロムナードへ繰り出した。
日中は暖かいこの町も夜は冷えるからとしっかり着込んで出発。プロムナードの辺りからは人出が多くなり明るく飾り立てたお店からは心浮き立つ音楽がきこえてくる。
海岸の砂地にしつらえた花火の数々を見つけ境界線から5メートルほど離れた海岸に陣取った。あたり一面の人たちはワインボトルを持ったり、パイントグラスを持ったりして笑いさざめいている。それを見て私たちも2000年祭の夕方ワインボトルを持って、3時間も早くからロンドンブリッジの川淵に陣取って新年を迎えたことを思い出した。
12時と同時に花火が上がりだし、15分間絶え間無く大空に色とりどりの花を描き、激しい音をとどろかせた。私たちは花火の発信地からあまりに近くにいたため、頭の上に炸裂した燃えカスが絶え間なく落ちてくる。特にしだれ柳のような無数の火の線が落ちて来たときは,髪が燃えるのではないかととっさにスカーフをかぶったほどだった。
真上で炸裂する花火をデジタルカメラで写すというのは並大抵でない。デジカメはシャッターがすぐには落ちないからその間に花火が消えてしまう。最後は際限なくシャッターを押し続けた。
観客の大歓声に包まれて花火が終わったときには肩と腰が痛くて、15分も上を向いて真上の写真を撮るのも大変な労力だと苦しんで帰ってきた。でもなんとすばらしいイベントだったろう。嫌がってやっと来た亭主が一番喜んでいた。世界中で新年と同時に花火が上がって、テレビで映し出されるが、自分がそこにいなかったら思い出すことは無い。今年もよい年になりますよう。
キャンプサイトとは反対の町の西海岸に広大な空き地があり、そこに自由にキャンプしているキャンパーが集結している。これらはヨーロッパから集まった高級キャンパーが多く、長さ10メートルの巨大なものから、高さが恐ろしいくらいに高くて、どうやって出入りするのかと考えてしまうような4輪駆動のジープタイプ(これは見るからに集塵車を想像してしまう)まで一台として同じ車が無い。
特に目新しいものは太陽熱利用の電気を起こしているのや、風力発電を行っているもので、どれほどの電力を補給できるものか聞きに行ったが、キャンパーのドアを開けっ放しで、持ち主はいなかった。太陽熱のほうは後ほどほかの持ち主から聞いた限りでは、一日中電気をバッテリーに補充しても、3時間テレビを見るとなくなってしまうそうだ。
昔から太陽熱を使ってキャンパーが走るようになったらすごいだろうなどと夢見ていたが、後何年かでそれも可能かも知れない。
ポルトガルの町を歩き回って一番気にいるのが、それぞれの家の屋根に備えられている煙突で、数多くのタイプの飾り煙突は、お土産にまでなっている。
郊外に出ると高級なお屋敷が高い塀に囲まれて並んでいる。きっとこれらはお金持ちの夏の別荘に違いない。それにしてもこの石塀の見事さ、まるでモダンアートを見ているようだ。
明るい太陽の輝く砂浜はどこまでも長く伸びて、これが1月はじめの海辺だと信じられようか?
1月3日、20日間も滞在したクェイテイラのキャンプサイトを後にフェーロの東のキャンプサイトへやってきた。ここオルニャオのキャンプサイトは奥行き1Kmくらいの巨大なサイトにキャンパーやキャラバンがびっしり停まっている。トイレやシャワーのブロックが10箇所も在るが(これほど大人数の群れの割には)一度も込み入っていたことなど無かった。私たちのキャンパーの隣に停車していたイギリス人夫妻は ”昨年の今頃はこのサイトは満杯で入れなかった” といっていたから滞在できただけでもラッキーだった。
その代わり最奥の松林の中で、正面玄関へ出るまで1km近くも歩かなければならない。電車サービスでもしてくれれば・・・などと二人で文句を言っていた。
正面玄関の花畑が見事で、このアロエ?の花は今ポルトガル中で咲いているが、出入りの度に写真を写した。ここでもクリスマスデコレーションは皆工夫して、キャンパーやキャラバンを飾り立てているが、テレビの受信機にまでデコレーションとは・・・と笑ってしまった。
キャンプサイトから歩いて2kmほどにオルニャオの旧市街地が在りきれいに磨かれた石畳と狭い路地は歴史を感じさせる。その奥は海岸に面し、椰子の並木が伸びている明るいプロムナードだった。海岸線に魚市場が在り入ってみたが、もう1時過ぎで、閉まりかけていた。
この魚市場の近くのレストランで昼食、店先のテーブルで食べている土地の人たちの魚が美味しそうだったので、”あれと同じもの”と頼んだところ、中サイズの鯵が9匹、薄い衣で揚げたのがサラダと味付けご飯と一緒に出てきた。亭主は子牛のステーキでご機嫌。ステーキ11ユーロ、鯵は7ユーロとあって満足、満腹だった。
新市街にはコウノトリが4箇所も巣をつくり、仲のよい夫婦鳥たちはゆっくり青空を旋回している。あれだけ大きな鳥が翼を広げて飛ぶと見ごたえありで、街角から離れられない。
オルニャオのメイン道路からキャンプサイトへ向かう時の第一印象が、なんとグラフィーティの多い所だ。と思ったが行く先々、あまりの多さに唖然とする。芸術的なグラフィティも多いがあらゆる壁や橋桁や、廃屋がグラフィティで埋まっているとやっぱり廃頽を感じてしまう。
キャンプサイトの近くの自然公園の入り口近く、網で覆われた広い一角を見つけ、聞けば魚を養殖しているという。さすがコウノトリや白鷺の多い街,鳥害から守るためなのかも知れないが、今度はどうやって魚を捕まえるのだろう。網が邪魔ではないか?
オルニャオからファーロまでバスで30分。晴天の1月5日メイン道路まで歩いてバスを待った。ファーロのバス停は港のすぐ前で、そこから旧市街はすぐ目の前、港の前の広場にはどこの観光地にでもあるようなおもちゃみたいな電車が止まっていた。この町は観光バスでめぐるには小さすぎるからだ。旧市街の入り口のの門はアルコ・ダ・ヴィラと呼ばれる。これは市の門という意味で18世紀に作られた。この門を見た途端、以前にここへ来たことがあると思い出した。6年前はフゼタ(Fuzeta)の町から電車でここへやってきた。ところがこの門と屋根に巣を作っているコウノトリ以外は全然記憶に無い。
門をくぐって石畳の坂道を上ったところに、急に明るく広大な広場に出た。真ん中にあまりきれいとは言いがたい大聖堂がデンとひかえているが、何よりも目につくのが広場の周囲を埋め尽くすオレンジの木々で、大豊作らしく鈴なりになっている。残念ながら手が届かない。
大聖堂といってもつつましいこの聖堂は、わずかなステンドグラスが彩を供えるだけで、特に立派とも思えなかった。ここファーロはローマ時代に栄えていた港町で、大聖堂の後ろにある考古学博物館にはローマの遺跡が多く展示されている。この床モザイクもその一つでこの辺りでは有名発掘物らしい。
この博物館は16世紀の修道院を改造したもので展示内容よりも建築物のほうがとても興味深かった。でもローマ時代の頭を入れる場所が作られた石棺は初めて。
椰子の木が茂る町並みはどこも白く、メインショッピングストリートはクリスマスのデコレーションでごたごたしている。これが夜になれば華やかな光のデコレーションになるのだろうが、昼の明るい太陽の下ではなんともさえない。
ここは本当に小さな町で、大して見るものも無かったから、入場料1ユーロづつ払って郷土博物館を覗いてみた。ポルトガルの昔からの産業や生活様式などが展示され、中でも目を引いたのがコルクで出来た鉢と昔はコルクの皮をロバの背に乗せて運んだ白黒の写真だった。コルクに俄然興味がわいたその日、町のお土産屋さんでコルクで出来たハンドバックを50ユーロも出して買ってしまった。コルクの皮というがきっとこれはコルクの写真を貼り付けたプラスチックに違いない。でも軽くてカメラが入る手ごろなサイズだったからとっても気に入った。
港の岸壁に沿って電車の線路が走り、海ははるか遠くに長く伸びている砂の防波堤で全体は穏やかなラグーンになっていて、あらゆる海鳥の生息地として有名。ボートトリップのお誘いのお姉さんがしつこくて二人で逃げ回っていた。
辺りの屋根や、塔の先端など4箇所もこうの鳥が巣を作り、夫婦仲むつまじい様子だった。
1月7日スペインとの国境目指して、キャンパーを進める。途中、6年前にとっても気に行って1週間も滞在したフゼタのキャンプサイトを訪ねてみた。あの時 ”もう3年もここにいるのよ”と誇らしげに話していたイギリス人のおばさんや、オリーヴの大壷を農家から買ってオランダへ持ち帰って売っているオランダ人のおじさんは、まだいるかしらと思ってサイトの中を探してみたが、知人は一人もいないしサイトの中も相当様変わりしていた。このサイトでこの変わった木製のキャンパーを見つけた。オランダ人の持ち車でこのサイトに長期滞在しているらしい。インターネットも無くて一泊の値段も高いから、ヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオへ向かった。
一月はアルガーヴの春の始まりで、辺り一面アーモンドの花が満開になる。道端のあちこちに、アーモンドの花や、アゼダスと呼ばれる黄色の野草の花(ポルトガルの若い女性は名前もしらなかった。)がオレンジ畑やオリーヴ畑の間を彩っている。
目的のキャンプサイトはS・アントニオから4Km離れたモンテ・ゴード(Monte Gordo)の町にあり、海岸の砂山に築かれた松林の中で、斜面が多くておまけに砂地がゆるくてキャンパーが沈むと出てこれなくなる。それでもここは大きなサイトで長期滞在者は安くなるから、のんびり一冬過ごす人たちが多い。なんとなく難民キャンプを思わせるほど生活用品やテントであふれている。
モンテ・ゴードの町は海に面し長い砂浜が続いて高層の純白建築はホリディーアパートメントらしい。大きなホテルも今の時期は開店休業状態。通りのベンチは日向ぼっこをする人たちでいっぱい、きっとこの人たちはキャンプサイトから来たに違いない。
サン・アントニオの町は北からの大きなグアディアナ川が海に流れ込む河口の町で対岸はスペインのアヤモンテの町。川岸にはスペインへ渡るフェリー乗り場もあるが川の北方に立派な橋がかかっている。スペインはポルトガルよりも物価が高く、この町へショッピングにやってくるスペイン人でにぎわっている。
長い間ポルトガルで楽しんでいたけれど、帰国まで後2ヶ月ぐらいしかない。スペインもアンダルシア地方はグラナダとセビリア、コルドバなど有名な場所しか行ってなくて、今回は海岸線をメインに周ることにした。クエテイラにいるときに隣に泊まっていたスペイン在住のイギリス人夫妻から、ロシオが面白いところと聞き、スペイン最初のキャンプサイトはロシオに決めた。
フエルヴァから海岸線の道路を取り、砂山と緑輝く松林の間を縫ってMatalascanas(この辺りはドンヤーナ自然公園)から北へ12km、突然松林からフラミンゴの遊ぶ湖が開けた。その向こうに純白の町が伸びている。
キャンプサイトは町の傍を走る国道の外れにあり、値段がポルトガルの2倍はする。3泊すれば51ユーロというから、一体何があるかと疑問に思いながらも3泊分の料金を払った。サイトはきれいで衛星放送もよく見ることが出来る。インターネットが高く一時間で2ユーロだという。このブログを書くのに2-3時間はかかるからあっさり諦めた。サイトに落ち着いた午後、町の探索に出かけた。
私たちが来る前に大雨が降ったらしい。町の通りは砂地で舗装道路も舗装された広場も一切無い。車の走る通りは穴ぼこで、一面の水溜り。歩道がどこにも見当たらなくて、乳母車など子供連れの親は大変困るだろうと思ったが、人どおりもあまり無く、なんとなく西部劇に出てくる荒野の町を思わせる。
この町は5月から8月まで宗教祭典がにぎやかで、その頃には全国から集まってくる徒歩や馬上の巡礼が100万人にものぼり、彼らの宿泊施設としてブラザーフッドと呼ばれる宿場がどこの通りにも建てられていて、冬場は閑散としているのだ。散歩に出かけたのが日曜日の午後だったから、大聖堂のある辺りはまあまあの人出、聖堂内にはお祈りをする若い人たちの姿も多く、なんと宗教がかった町だろうとあっけにとられた。
上の写真は各家の前庭。
砂浜みたいな広場。
大聖堂の広場からたこの足のように伸びる横道に、お土産屋が開店しており、一体誰が買うのかと思うほどのフラメンコのドレスを売っていた。ほかには皮の乗馬靴や皮のベルトなどが多く、食料品店が一軒も見当たらない。翌日見つけた小さなスーパーで、銀行のありかを聞いたら、この大きな町に一軒だけあるという。
日曜日の夜は地域の人たちが大聖堂の周囲の広場に集まり、家族や友人達と長い夕食を楽しむのだろう。広場にズラッと並んだ車の汚れのひどさ、今は泥水だけど夏は砂埃がどんなにひどいだろう。
すごい青空の翌日、町の横に広がる湖へフラミンゴを見に出かけた。本来ならばフラミンゴも冬の間はアフリカへ渡るはずだが、この辺りは冬もそれほど寒くないせいか,食べる物が豊富なせいか、それとも怠け者の一団のせいか、でここでのんびりくつろいでいるようだ。それでも人見知りするようで、私たちのいるほうには決して近寄ってこない。
湖も町に面したところは立派な遊歩道が作られて、夏の宵など夕涼みの家族ずれで賑わうだろう。しかし蚊がいるのじゃないかと心配ではあるが。
3日目の朝は小雨が降って、黒雲が広がっていたので、コート・セータを着込んで傘まで持って、国道と平行に走る作りかけのバイパスへ行ってみた。クリスマス前にセビリア地方は大洪水だったニュースを見たが、被害がこの辺りまで波及しているらしい。作りかけのまま放置されてしまったバイパスは人気も無く、あちこちコンクリの道端が崩れ落ちまるで砂の上に築いたもろい道路のようだ。
バイパスを横切る高圧電線の電柱にはコウノトリが巣をかけ、見渡す限りあちこちに巣が見える。
この町は夏に馬市が立つだけあって、バイパスの両側に牧場が広がり、又町外れもほとんどが牧場で、馬を調教している人や、乗馬している人たちを多く見かけた。
さてバイパスの行き止まりは町を外れた国道と出会うところだが、それまでに寸断された道路ではいつ再開されるのか判らない。この合流点に図らずも野鳥観察の自然公園が在った。松林の中の遊歩道は4.5kmも続き、水辺の淵にハイド(観察小屋)が設置されている。
遊歩道の両脇には野草の花が咲き、ねこやなぎは銀色の芽をふきわらびは30センチにも伸びている。トンボや蝶が飛び回ってこれが1月とは絶対に思えない。あまりの暑さにコートもセーターも脱ぎ日陰の涼しさを楽しみながら、自然公園を歩き回った。
3000年の歴史を秘めたカデスを訪れるために、停まったキャンプサイトは、対岸のエル・プエトロ・デ・サンタ・マリアの海岸線にあり、そこの港からカトマランのフェリーが行き来している。このS.Mariaの町はカデスのベッドタウンのようで、町の中心に大きな闘牛場が在った。
フェリーは30分でカデスの港に着く。この日も暑いくらいの晴天で、雲ひとつ見えない。
港から歩いても町の中心地はすぐで、人通りの多い方面をめがけて歩くとサン・ホアン・ディオス広場に着いた。そこから大聖堂は狭い通りをぬけてすぐだった。この大聖堂はフェリーの上から見える一番大きな建物で、とっても期待していったが、中に入ってがっかりした。全体が薄暗く、色彩らしいものが全然無い。馬鹿でかい柱が入り口近くに数本建っていて幕で覆い、ここから先は有料ですよと坊さんが一人料金徴収所でがんばっていた。大人5ユーロ、老人は3ユーロというが入っていった人は誰もいなかった。
大聖堂の隣のサンタ・クルズ教会は無料で、この建物がコルドバのメスキータの造りに似通っているのに気がついた。デコレーションさえ同じならサイズの差こそあれ似ていると思う。ここカデスはタヌテッソス文明からフェニキア、ギリシャ、カルタゴ、ローマ、アラブに征服され、最後にキリスト教徒によって奪回された歴史の宝庫であるが、実際見て回るものはあまり無い。この教会の向かいに博物館のサインが在り宗教関係の博物館でなければよいがと思いつつ3ユーロづつ払って入ってみた。期待に反してここは聖堂の博物館で、宗教画と教会の金銀宝石などばかり、中に古い手書きの本・・・羊皮紙の巨大な本が並んでいてこんな本を書いた人たちの苦労がしのばれる。(ちょうど遣唐使と共に唐に渡った僧たちの写経のストーリーを読み終わったところだったから。)
狭い中世の通りを歩いていて面白い巨木と面白いオブジェの立っている中庭に着いた。ここはアートスクールの玄関で庭はアートの展示場のようだった。
カデスは野球のグローヴのように海に突き出た岬の町で、狭い通りが縦横に走っている。西の海岸に向かって歩いていたら一軒のアパートの壁にデューク・オフ・ウエリントンがここに住んでいたという看板が張ってあった。イギリスもこの国と戦って、ジブロルタルを取り上げたのだから。
海辺はどこもしっかりとした石垣が組まれて、波浪に拠る侵食を防ぐようになっていて、石垣に沿って散歩道と公園が続いている。この庭にマレーシアやボルネオで見た熱帯の巨木が根を張っていて、驚き見上げたものだ。ここは気候が熱帯に近いのかも知れない。
このモニュメントは1812年ヨーロッパ諸国に範とされる国民議会召集にこぎつけた記念碑として建てられたもの。
エル・プエルト・デ・サンタ・マリアから南下する。途中までカデス方面へ行く道で周囲は湿地帯、フラミンゴやかもめが一面にえさをついばんでいた。
今夜の目的地は約40マイル南のコニル・デラ・フロンティラ(Conil de la Frontera)だがキャンプサイトはそこから6Km 田舎のロッシェで、なかなか立派なサイトだった。ここで南スペインでは初めてのフリーインターネットが在り、日本や、イギリスの友達とスカイプでおしゃべりすることが出来た。それにパンの買い置きが無くなって土曜日に6km先の町へショピングへ行かなければならないかと悩んでいたら、パン屋がバンに焼きたてのパンをいっぱい積んで売りに来た。
このアンダルシアにはフロンティラの名前を冠する町が多い。これらはムーア人がこの辺りを治めていた頃のフロントラインでたいていは古い城砦を戴く町だという。そう思って調べてみれば確かに海岸に沿って点状に街が存在することが判った。
サイトのレセプションでこの土地の略地図をもらい、歩けども歩けども海岸に着かない。道端に咲く野の花はポルトガルのと変わらないが、時々八重の珍種を見つけた。
半ば諦めて探した海への道は地図に距離が書いてなかったから、近いと思ったのが間違いだった。ほんの軽い気持ちで出かけたけれど、やっとたどり着いた海は高い崖の上。はるか眼下に2人の釣り人が遠浅の波間で釣りをしているのが見える。秋撒きの麦が芽を出し、辺りが薄緑に染まりつつある。今日のNHKの衛星放送で沖縄では田植えが始まったとのこと、3毛作の沖縄では5月に稲刈りが始まるという。この麦も4月か5月に収穫するのであろう。
松林の下ばえの雑草の中にこの珍しい花が咲いていて、はじめてみたときの喜びは大きかった。きょろきょろ探しながら歩くと道端や,木陰にまだつぼみの長い茎を何度か見つけた。辺り一面のピンクの花は直径5ミリほどの花で、これだけ固まって咲いていると雑草といえども見ごたえが在る。
海べの帰りに海岸から1kmのところに違うキャンプサイトを見つけた。実はこのサイトこそ私たちのガイドブックに載っていてここをめがけてきたのだが、途中からキャンプサイトの表示板があちこち出ていて、てっきりここが目的のサイトと思い込んでしまったのだ。翌日、片道1時間半もかかって港へ行ってみた。港の近くにさびて貝殻の付着した碇が整然と並べてあった。一体これほど多くの碇を何に使ったものだろうか、海の男だった亭主にもわからなかった。
港から急な坂道を登ったところに灯台がそびえ、周囲は切り立った崖と雑草や潅木に囲まれた遊歩道が在った。雑草の中に白い小花の水仙が生え、これらもこの地方が原産地なのかと思った。
帰りに通った牧場では牛を追いかけている白鷺を見つけた。牛もうるさいらしく逃げ回ったりしているが鷺は牛の足についた虫をつついているらしい。ポルトガルで羊の群れに白鷺が群がっているのを見て ”あれはホントのパートナー・シープだね” と亭主がのたもうた。
今日も晴天、もう1週間も晴天が続いている。10時過ぎにはロシェのキャンプサイトを出て、アンダルシアの最南端タリファを目指すが、その前に行きたいところが在った。
ロシェからコニル・テ・ラ・・フロンティラの町を通り過ぎて後ろを振り返ってみると純白の町が横に長く伸びていた。
ロシェから20kmほど南の海岸にカーボ・トラファルガーというところが在り、ここは1805年10月に英国とスペイン・フランスの連合艦隊の大海戦の在った所。トラファルガーの海戦といえば英国では知らない人は無いほどで、この戦でネルソン提督が戦死し遺体はウイスキーかブランデーに漬けて英国へ運ばれたという。
ロンドンのトラファルガー・スクエアーはこの海での勝利を記念して命名され、ネルソン提督の像が高いコラムの上からワサワサ行き来する観光客を睥睨している。
海岸線の道路を走りながらトラファルガーの道路標識を探したがどこにも無く、海岸へ行く細道を見つけて右折した。この辺りはサーファーのたまり場らしく、短い道の片側はサーファーの車がズラッと停まっていた。車は通行止めになっていたが1kmほど伸びた道の行き止まりには灯台が丘の上に建っている。キャンパーを駐車し、灯台の丘まで歩いた。ふもとにはトラファルガー岬の標識があるが、海戦には一言も触れていない。灯台の周りを行くと海側に海戦の標識と連合艦隊の死者数が英国海軍の倍であったことが記されていた。
誰だって負け戦の記念碑など立てたくないだろうし、見たくも無いだろう。
今日は海が穏やかで、サーファーが何人も海へ走って行ったが、どれほど楽しめることか?
トラファルガー岬から海岸線はブレニャ自然公園で松の樹海が広がっている。松林が終わった所から道は内陸に向かい、あたり一面の風力発電のターバインが建っていた。でも只一台も回っていない。これほどの数のターバインを見たのは初めてだけれど、これほど全部が停まっていては、どこかで電力不足になっているのじゃないかと心配になった。
昨夜アンダルシアの観光案内でボロニアにローマの遺跡が在ることを知ったが、ボロニアの地名は地図に載っていない。ところがメイン道路に入り、タリファまで後10kmぐらいの道路わきにボロニヤの道路標識を見つけた。辺りはなだらかな緑鮮やかな牧場が広がり、牛や、黒豚の放牧がされていた。一つの丘を越えて海辺へ向かう。どこにもローマの遺跡など標識が無く、半ば諦めて海辺の駐車場で昼食にすることにした。そして駐車場の向こうに遺跡を見つけたが、ここはスペイン、毎月曜は観光地が閉まることを忘れていた。
鉄条網の垣根の向こうに広がる遺跡は今まさに掘り起こしている最中と見え、工事人が昼休みで日陰でタバコを吸っていた。こんなときには望遠レンズが大活躍、見えるところはほとんど写したから明日もう一度来ることは無いだろう。
国道脇のキャンプサイトは2つ星で値段を聞かずに入ってしまい、一泊26ユーロでびっくりした。ポルトガルの3倍はする。この町の港からモロッコまでフェリーで30分、日帰りが出来るというがキャンプサイトが高いから、一晩だけで次へ行くことにした。
タリファの町からアフリカは直線で結んで15Km、昨日は晴天にもかかわらず海はかすんでいてアフリカの大陸は見えなかった。それにはじめから見えるなどとも思っていなかった。それが本音。朝11時過ぎ、タリファのキャンプサイトを出発して町を過ぎると国道は上りになる。見渡す限りの山脈に沿って風力発電のターバインが並んでいてそれが全部高速で周っていた。ここは高さも在るだろうが、もともといつも風が強い地方で有名だそうだ。
山頂付近に駐車場とお土産店兼展望台が在り、アフリカが望めるようになっている。ふもとは青空だったが、山を登るにつれて雲が出てきて、海もアフリカ大陸も雲で覆われたまに山陰らしいのが見えるだけだった。そこでタリファからアフリカをバックにしたパノラマ絵葉書を1枚買って記念にした。
ラ・リニアーとジブラルターの標識を見つけラ・リニアーへ向かう。この町の最突端に英国領ジブラルタルがくっついている。ここは1800年代英国とスペインの戦争で戦勝国の英国がスペインから取り上げたもの、当時は地中海を統御するのに重要な軍事地区だったに違いなく、今も英国領として通貨はポンド。英語圏で狭い領地に林立しているフラットには英国人が住んでいる。
国境の金網の手前に広大な空き地があり、キャンパーが10台ほど停まっていた。ちょうど12時過ぎで、ここに駐車して2-3時間ジブラルタルへ行ってくるのも悪くないと話し合い、なるべくキャンパーの込み合っているほうが安全だろうと、大きなドイツ車の横に駐車した。
もう200年近くも英国領だがスペインは返還要求をしていて、”ラ・リニアもスペイン領だ” と書いた大きな看板がかかっていた。も を強調して皮肉っているのだと亭主が教えてくれた。私など簡単に返してあげたらいいのにと思ってしまうが、ここに住む何万、何十万のイギリス人は土地を追われることになるのかも知れない。対岸のモロッコの一部が今もスペイン領でそれを返すなら、ジブラルタルも返したらよいのにと、知り合ったイギリス人が言っていた。
1950年代亭主がここジブラルタルへ来たときはまだ空港が出来てなくてジブラルタルは島だった。その後島とラ・リニアーの間を埋め立てて、そこを飛行場の滑走路にしてしまった。だからジブラルタルへ入国するときは、入国管理所を通ってこの滑走路を横断しなければならない。飛行機が飛ぶときは両側に遮断機が下り飛行機の通過を待つ。インフォメーションの上空写真で細長い滑走路が見える。島の西側の狭い平地が住宅やビジネス、ショップなどになっている。
ジブラルタルはTax Freeでショッピングによいと聞いたので期待していったが、確かにガソリンやディーゼルは安い。我がキャンパーはディーゼル車だからいつも値段を見比べているが、ここモリソンのスーパーマーケットのガレージではディーゼルが1リットル83ペンス。英国では1ポンド30ペンスくらいはするから1リットルにつき50ペンス近く税金を払っているわけだ。これは頭にきそう。
モリソンのスーパーマーケットのレストランで昼食をと亭主は楽しみにして、一番食べたかったもの・・・ステーキ・アンド・キドニーパイ(牛肉と腎臓が入ったパイ)を注文して満足していた。スーパーの食料は全然安くない。なぜなら英国でも食料には税金がかかってないからで、英国から運んだ運賃分だけ高くなっている。
山の中腹に古い城砦が見えその上にユニオンジャックがひらめいていて亭主が大喜びしていた。外国へ出ると急に愛国者になる人。オーイギリスのポリスマンも居るぞー。
ジブロルタルにはキャンプサイトが無く、ラ・リニアーの小さなサイト(私たちしか居なかった)で一泊した後、海岸線をマラガ方面へ向かった。ラ・リニアーの町を過ぎるころから道路はだんだん上りになり、途中の展望台標識を見つけて停まって見れば、ジブロルタルの大岩がはるか後方に見える。昨日から曇り空ですべてがぼんやりしているが、年に数回アフリカ大陸もはっきり見えるそうだ。
出てまもなくカサレス15Kmの道路標識を見つけて左折した。道はますます坂になり曲がりくねって山へ向かう。辺りは牧場の緑に真っ白の建物、そしてアーモンドの薄いピンクの花盛り。
一月はじめポルトガルで知り合ったスペイン在住のイギリス人から彼らの庭で採れたオレンジ、レモン、アーモンド、胡桃を袋いっぱいもらった。彼らは5-6年前にグラナダ近くの農家を買ったそうで、広大な農地に果実やオリーヴの木が在り、一月に帰ってオリーヴの収穫をするのだそうだ。大体100リッターくらいのオリーヴ油が採れるそうで、半分を村の加工所で買ってもらうのだと言っていた。イギリスにも家を持ち、ヨットとキャンパーであらゆるところへ行っている恵まれたイギリス人夫妻だった。
カサレスの村は純白の建物が重なり合うように崖に沿って建っていて、まるでキュービズムの近代絵画を見ているようだ。
村までは山の中腹を削って作られた曲がりくねった道路を延々と行き、村の入り口にたどり着いたが、道路が狭くて村には入れない。入り口から引き返し村の反対側から海へ向かう道路で下山。
山頂を花輪のように取り囲む真っ白な家々を見ると、ここスペインもイタリアによく似ているなーと感無量だった。
この上り下りの激しい道を4台のサイクリストが走っており、曲がりくねった道ではスピードが出せず、サイクリストに追い越されてしまい、亭主の恥ずかしがること。後で上り坂で追い越したが、途中の道で止まって写真を写して居たら、皆手を振って ”オラー”といって通り過ぎた。
道端に緑濃く茂る大きな木々がコルクの木だと気がついて、車を止めてもらった。コルク樫と呼ぶのだそうな。確かに葉が樫の木に似ていて、どんぐりでも落ちてきそうな気がする。太い木の幹は皮をはがれ,赤肌をさらしている。なんだか哀れな気持ちになった。
ロンダは海岸から50km内陸の海抜770メータの台地にある歴史華やかな街で、今まで暖かかった海岸線から急転して空気は冷い。キャンプサイトが旧市街の城門から1.5Kmのところにあり、辺りはオリーヴ畑とアーモンドの花に囲まれる静かな清潔な環境。すっかり気に行ってしばらく滞在することにした。
ロンダとその周辺は2万5千年の歴史を持ち、旧石器時代の洞窟壁画から、古代ローマの遺跡、イスラムの制覇、キリスト教徒に拠る奪回と文化の混合や豪農、貴族の台頭などいつの時代にも華やかな歴史に彩られている。
旧市街は深さ100メーターのタホ峡谷で分断されていたが、18世紀に40年以上を費やして建設された新橋が完成するまではもっと低い地域の旧橋でつながっていた。旧市街の周囲は頑強な城砦で固められ、丸い城門が開いている。
城門から入ったすぐ最初の大きな教会に入ってみた。塔に登るのに1ユーロづつ払い入って見ると、教会内部は暗く人が入っていないときは明かりを消して在るらしい。入ると柔らかなクラッシックミュージックが流れ、すばらしい雰囲気だった。塔は狭く上がってもそれほど見るものが無かったけれど、眼下の家々の屋根瓦の見事さには心引かれた。
郊外はオリーヴ畑の連なる農業地帯で、遠くに山脈がロンダをぐるっと取り囲んでいる。新市街はなだらかな起伏にとんだ純白の町で旧市街から南方に広がっている。見渡す限りの農地のあちこちに、アーモンドの花が今を盛りと咲き誇っていた。
旧モスクをカソリック化するために、ミナレットだけを残して教会として改造されたサンタ・マリア・ラ・マヨール教会はやはりミナレットが一番初めに目に付いた。内部はゴシック様式とルネッサンス様式の融合である。
教会内の巨大な壁画で不思議な絵、何かストーリーが有りそうだがわからない。
教会宝物展示室に巨大な音楽の楽譜の本があって、これ一冊で一曲だろうかと話し合った。地下展示室には歴史的なバイブルから絵本までが展示されこの本は5世紀に発行されたものだとの事。5世紀には日本には文字が有っただろうか?
旧市街は狭い路地のような通りが迷路のように続いて新市街の碁盤の目のような通りと好対象、犯罪が増え続けている昨今のスペインでは玄関や前庭も安全対策にこのような粋な檻が設置されている。これはスペインの住宅地では普通に見られる。
旧市街の北側は高さ10メータの岩盤がそそり立ち、ここから見る周辺の景色は見飽きることが無い。
タホ峡谷に40年の歳月を費やして深さ100メーターの谷間に石を積み上げ、作られたヌエボ橋(新橋)は18世紀の傑作といわれる。橋桁の内部には部屋が作られていて重要犯の刑務所として使われていた。現在3ユーロを払って険しい階段を降りてそれを見学に行くことが出来る。
この日は風は冷たいけれども快晴で、遠くの山脈まではっきり見渡すことが出来た。
闘牛はスペインの有形文化財といわれているが、1784年この地にスペイン初の闘牛場が建設された。直系66メータの円形闘牛場はトスカーナ様式の二階建てアーケードからなり一人7ユーロで内部と闘牛博物館を見学することが出来る。16世紀に設立された王立マエストランサ騎士団を擁するロンダでは人間が馬上から降りて戦う闘牛の形を作り上げた。
窓枠の飾りだけでなくバルコニーの下までデコレーションしてある心憎いまでの気配り。
桃の花によく似たアーモンドの花には白から濃いピンクまでの何色もの色が在り、桜の花を見るように春爛漫のスペインを大いに楽しんだ一日だった。