少年H の本を読まれましたか?それとも映画化されたそうですから映画を見られましたか?
少年H の本は面白くまた悲しい戦時中の日本の少年のストーリー。子供らしい少年期を過ごせなかった妹尾河童さんや当時の学童期の少年達の物語です。
我が亭主ポールは1931年の生まれで、少年H の作者妹尾河童さんとは1歳違い、したがって少年Hが神戸と須磨の辺りで悪学童ブリを発揮している頃には,少年ポールもブライトン・ホーヴの辺りで大変な悪がきぶりでした。
ポールの母は1920年代からロンドンのランバース地区のお屋敷でメイドをしていて、今では誰も驚かないシングルマザーの先端をいっていた。それで過労から早産して1kg未満の未熟児を産み落とした。今でも未熟児は死亡率が高いが当時では生まれ落ちた時からお葬式の準備をしていたという。
当時も今も英国が誇るセント・トーマス病院の未熟児室のインキュベーターでポールは育った。セント・トーマス病院はテームズ川のほとり、対岸にビックベンと国会議事堂があるロンドンの中心地にあり、この病院で19世紀ナイチンゲールが働いていた。
ポールのお母さんの話では未熟児室へ入るときは消毒マスクにガウンと完璧で80年後の今と一切変わらない。戦前の日本では家庭分娩が主で産院での出産が一般化したのは戦後1960年代過ぎだと思う。
1年後お母さんはポールを連れて結婚した相手は職業軍人でロンドンから南60マイルの海岸の街ホーヴ(Hove)に居を構えた。職業軍人ではほとんど家にいることがなく、ポール8-9歳ごろから父親不在をいいことにわるがきぶりを発揮した。。
一人で駅へ行って改札ではあれがお父さんとか言って汽車に乗り込み、ロンドンやスコットランドまで無賃乗車で遊びに行った。その度にお母さんはどんなに大変な思いをしただろう。
鉄道の線路へ行って針金を投げたところ線路に通っている高圧電流に触れ、爆発を起こし髪を焦がし顔にやけどをして病院へ連れて行かれた。これもまかり間違えば危ないところだった。
ある時ホーヴで一番高い煙突の上に登って下界を見下ろしていたら、大騒ぎになり消防車が出動したという。この時もこっぴどく叱られたがお仕置きは何だったか全然覚えていないという。
小さい頃から海が好きで、海岸へゆくとどこにでも服を脱ぎっぱなしで海岸を歩きまわり、服が流れてしまったりどこへ脱いだか忘れてしまって、いつもお母さんを嘆かせていた。当時は第2次世界大戦が始まっていたから、ドイツ軍の英国上陸を防ぐため、海岸には地雷が埋められていた。そんな地雷原にさまよい込み、大騒ぎ、遠くからスピーカーでそこから動いてはいけないと警告され助かったこともあった。
学校では友達と道具小屋でタバコを吸っているところへ巡回の先生が近づいてきて、匂いを消すために慌てて近くに有った生の玉ねぎをかじったところ、あまりのからさに吐きに吐いてそれ以来玉ねぎが嫌いになった。
ブライトン・ホーヴの対岸は英国海峡を挟んでフランスだが、当時ドイツはフランスも占領して、英国へはドイツの戦闘機が連日飛来して爆弾を落としていた。まだ10-13歳頃の悪ガキざかり、飛行機が去ると同時に家を飛び出し爆弾のかけらを拾ってきて友達と見せ合い自慢するのが当時の男の子の楽しみだったという。
少年H で見られるような軍事教練や軍需工場での仕事などは一切なくて、子供たちは戦時中も子供らしい生活を送っていたらしい。
ロンドンのテームズ川の南に戦争博物館がある。戦時中の人々の生活や、巨大な戦争の画も見られる。今もあるかは知らないが、以前戦時中の配給制度の食料品目を展示していた。統制されたのは肉やチーズ・バターなどで、主食に当たるじゃがいもは国内で供給されるから入っていない。妊産婦は特別手当で牛乳の配給も多かった。日本では主食の米が配給制度の第一品目だった。もちろん食事内容が違うせいもあるが、日本の食品等とはなんという違い。贅沢食品のようだ。
お母さんの言うにはどこかの街の八百屋でオレンジを売ってたなどと聞くと、長い行列を作って買いに行ったものだという。英国は世界中に植民地を持っていたから、オレンジやバナナなどが時々入荷された。それでも英国の配給制度が終わったのは戦後10年経ってからだった。
英国では戦後も徴兵制度が存続してポールも18歳で徴兵された。2年間エジプトの砂漠で軍事教練を終え退役した年に徴兵制度が撤廃された。兵役は向こう見ずのワルガキだったポールが初めて規則に縛られる生活を学んでまともな大人になれて良かったと言っている。