Reiko's Travel 記事と現在の英国事情

在英51年、2020年7月未亡人になって以来、現在英国事情と過去の旅行の思い出を記載。

少年H と 少年ポール

2014-11-23 18:18:47 | 思い出

少年H の本を読まれましたか?それとも映画化されたそうですから映画を見られましたか?

少年H の本は面白くまた悲しい戦時中の日本の少年のストーリー。子供らしい少年期を過ごせなかった妹尾河童さんや当時の学童期の少年達の物語です。

我が亭主ポールは1931年の生まれで、少年H の作者妹尾河童さんとは1歳違い、したがって少年Hが神戸と須磨の辺りで悪学童ブリを発揮している頃には,少年ポールもブライトン・ホーヴの辺りで大変な悪がきぶりでした。

ポールの母は1920年代からロンドンのランバース地区のお屋敷でメイドをしていて、今では誰も驚かないシングルマザーの先端をいっていた。それで過労から早産して1kg未満の未熟児を産み落とした。今でも未熟児は死亡率が高いが当時では生まれ落ちた時からお葬式の準備をしていたという。

当時も今も英国が誇るセント・トーマス病院の未熟児室のインキュベーターでポールは育った。セント・トーマス病院はテームズ川のほとり、対岸にビックベンと国会議事堂があるロンドンの中心地にあり、この病院で19世紀ナイチンゲールが働いていた。

ポールのお母さんの話では未熟児室へ入るときは消毒マスクにガウンと完璧で80年後の今と一切変わらない。戦前の日本では家庭分娩が主で産院での出産が一般化したのは戦後1960年代過ぎだと思う。

1年後お母さんはポールを連れて結婚した相手は職業軍人でロンドンから南60マイルの海岸の街ホーヴ(Hove)に居を構えた。職業軍人ではほとんど家にいることがなく、ポール8-9歳ごろから父親不在をいいことにわるがきぶりを発揮した。。

一人で駅へ行って改札ではあれがお父さんとか言って汽車に乗り込み、ロンドンやスコットランドまで無賃乗車で遊びに行った。その度にお母さんはどんなに大変な思いをしただろう。

鉄道の線路へ行って針金を投げたところ線路に通っている高圧電流に触れ、爆発を起こし髪を焦がし顔にやけどをして病院へ連れて行かれた。これもまかり間違えば危ないところだった。

ある時ホーヴで一番高い煙突の上に登って下界を見下ろしていたら、大騒ぎになり消防車が出動したという。この時もこっぴどく叱られたがお仕置きは何だったか全然覚えていないという。

小さい頃から海が好きで、海岸へゆくとどこにでも服を脱ぎっぱなしで海岸を歩きまわり、服が流れてしまったりどこへ脱いだか忘れてしまって、いつもお母さんを嘆かせていた。当時は第2次世界大戦が始まっていたから、ドイツ軍の英国上陸を防ぐため、海岸には地雷が埋められていた。そんな地雷原にさまよい込み、大騒ぎ、遠くからスピーカーでそこから動いてはいけないと警告され助かったこともあった。

学校では友達と道具小屋でタバコを吸っているところへ巡回の先生が近づいてきて、匂いを消すために慌てて近くに有った生の玉ねぎをかじったところ、あまりのからさに吐きに吐いてそれ以来玉ねぎが嫌いになった。

ブライトン・ホーヴの対岸は英国海峡を挟んでフランスだが、当時ドイツはフランスも占領して、英国へはドイツの戦闘機が連日飛来して爆弾を落としていた。まだ10-13歳頃の悪ガキざかり、飛行機が去ると同時に家を飛び出し爆弾のかけらを拾ってきて友達と見せ合い自慢するのが当時の男の子の楽しみだったという。

少年H で見られるような軍事教練や軍需工場での仕事などは一切なくて、子供たちは戦時中も子供らしい生活を送っていたらしい。

ロンドンのテームズ川の南に戦争博物館がある。戦時中の人々の生活や、巨大な戦争の画も見られる。今もあるかは知らないが、以前戦時中の配給制度の食料品目を展示していた。統制されたのは肉やチーズ・バターなどで、主食に当たるじゃがいもは国内で供給されるから入っていない。妊産婦は特別手当で牛乳の配給も多かった。日本では主食の米が配給制度の第一品目だった。もちろん食事内容が違うせいもあるが、日本の食品等とはなんという違い。贅沢食品のようだ。

お母さんの言うにはどこかの街の八百屋でオレンジを売ってたなどと聞くと、長い行列を作って買いに行ったものだという。英国は世界中に植民地を持っていたから、オレンジやバナナなどが時々入荷された。それでも英国の配給制度が終わったのは戦後10年経ってからだった。

英国では戦後も徴兵制度が存続してポールも18歳で徴兵された。2年間エジプトの砂漠で軍事教練を終え退役した年に徴兵制度が撤廃された。兵役は向こう見ずのワルガキだったポールが初めて規則に縛られる生活を学んでまともな大人になれて良かったと言っている。

 

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再びケシの花

2014-11-08 15:22:55 | ロンドン周辺

 

11月9日ロンドンホワイトホール前の戦没者記念塔の前で皇室並びに政府要人を一堂に集めた第一次、第二次世界大戦、フォークランド、アフガニスタンなどでの戦没者追悼記念式典が行われる。

 

10月ごろから一般人並びにテレビ出演の人たちは、この日のために小さなケシの花を胸につけている。私の住む町の共同トイレの前の花壇に植えられた大木にも直径30㎝ほどあるプラスチック製のケシの花が取り付けられた。

  

ロンドン塔のケシの花ももうほとんど植えこまれお堀に草地が見えないほどになった。ロンドン塔は第一次世界大戦戦没者の人数分だけポピーを植えこむので88万本以上というのは目に見えてものすごい数だと改めて思う。この1週間ほど前からテレビニュースでは連日あまりに多い訪問者で近くの地下鉄駅を閉鎖したとのこと。11月11日に最後の1本が植えられるとの話だが、その前にもう一度見なければと7日金曜日8時前のバスでドックランド軽レールライン駅へ行き、9時過ぎロンドン塔へたどり着いた。

 

人出はまだ報道ほどではなくロンドン塔を一回りして写真を写すのに問題はなかった。テームス河に面した堀はコンクリの上に花だけが置かれてあり元は水を張ってある堀だから訪問者がコインを投げたがる。花の間に沢山のコインが落ちている。

ロンドン市長のボリス・ジョンソンがおつきの人たち数人とケシの脇を歩き回っていた。ロンドン塔4面の一角だけまだ完成していないところがあって、数十人が植える作業をしていた。

塔の周囲を一周りして地下鉄駅へ行く一辺は鉄柵にべったり人々が張り付いて身動きできないほど。一時間早く来て良かったと喜びつつトラファルガースクエアへ急ぐ。

ここではガラスケースに入った巨大な兵士像にケシの花びらが舞っていた。今回の式典では皆いろいろ知恵を絞って見せてくれる。

 

 

ナショナルギャラリーのすぐ横にこの小さなパディングトン・ベアーの像が置かれ観光客が次々写真を撮っていた。この熊さん、11月4日から12月末までロンドンの有名地に50個も飾られ最後は売りに出るそうだが、有名アーティストがいろいろデザインしているらしい。動物愛護協会のチャリティの一環とか。

 

レスタースクエアーとチャリングクロスロードへ行く道路わきに飾られていたロンドンバスをかたどった置物、これまたロンドンの観光名所を描いて通り過ぎる人たちが次々写真を撮ってゆく。これもいったいどれだけロンドン中に飾られてあるものか?

これだからロンドンは面白い。

 

 

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父母のアルバム

2014-11-04 15:05:33 | 思い出

 10年前母が亡くなった後、家財整理した中に出てきた3冊の父母のアルバムをもらってきた。最近たくさんの写真集から娘の写真を取り出し彼女の今までの人生を一冊のアルバムにまとめた。そして最後に私たちの写真を1ページ、父母の写真を1ページ、亭主の父母の写真を1ページに入れて彼女にプレゼントしとっても喜ばれた。

 昔からカメラに興味のあった私は日本に居る時からたくさんの写真アルバムを持っていた。結婚して子供たちが大きくなって、夫婦二人で旅するようになり、デジタルカメラになるまでのアルバムが我が家の本棚で2.5メートルにぎっしり詰まっている。

 これらのアルバムも私たちの死後は捨てられる運命にあるのが見えている。せめて父母の写真だけでもこのブログに載せてみたいものだと思いアルバムからはがしている。

  

父のアルバムは1冊がA3サイズのビロードの表紙で立派なもの。第1ページに昭和天皇と満州国皇帝の写真が載っていて次ページからは知らない軍人姿の大小の写真が連なる。

 父は1935年(昭和10年)または1936年(昭和11年)満州に出征した。アルバムはその時の軍事政権下からの贈呈物であるのが明らか。そして父は当時の事情は一切話さないままに亡くなったから私は写真を見ながら推測するしかない。

  

1937年(昭和12年)父22歳、機関銃の弾が肩に当たって負傷し、11月10日に傷病兵の一団が帰国・金沢駅に到着した。

  

翌年5月11日まで金沢の病院と山中療養所にて治療していた。当時まだ第2次世界大戦は始まっていなかったが、満州帝国を作り上げた日本軍は中国制覇を目的に軍事活動が激しく国を挙げて戦争に突入して行った時代だった。

母は新潟。長岡の農家の2女で弟妹6人もいたから子供のころから子守や家事で、小学校をやっと出たくらい、今でいう中学生の年齢には名古屋の老舗のお菓子屋に奉公に行かされ、女中として働いていた。その後何歳かは明らかでないが名古屋の製糸工場で20代を過ごしていた。

製糸工場には若い女性が多く、外地や内地の兵士への慰問袋に手紙を入れるのが推奨されていたらしい。母の手紙を父が受け取り、手紙や写真のやり取りがあった。

 

父が療養中に母には縁談が持ち上がり、新潟へ帰った母の手紙に驚いた父は、療養中では身動きがきかず、父の兄に打ち明けた。((この事実は父の兄(金沢の叔父さん)の奥さん(金沢の叔母さん)から私が高校生の頃に聞かされて大感激したもの。))で金沢の叔父さんは当時汽車で8時間以上もかかった新潟・長岡の母の実家へ訪ねて行き、母を自分の弟の嫁にと頼んだそう。新潟の母の実家では、犬の子を上げるのではないから一応結婚式のまねごとをと新郎なしの結婚式を行い、金沢へ送り出した。

 

この写真は母が父の母親(私には祖母に当たる)と一緒に療養所を訪ねて行った記念写真。

 

後に結婚式は父の弟の結婚式に同時に写真を撮ったから母は角隠しをしていない。

1938年(昭和13年)5月11日退院し同年9月10日に入隊教練するまで、父は金沢近辺の駐在所の警察官をしていた。そしてその短い期間が彼らの新婚生活だった。

 

翌年4月21日父母には第1子の節子が生まれた。当時は家庭分娩が主流で産婆が出産に立ち会う。はじめの出産は非常に難産でいまどきならすぐ帝王切開になっていただろうに、家庭分娩では鉗子で引っ張り出すしかなかった。そのおかげで節子は脳障害をこうむり全身まひで話すこともできなかった。

 1938年(昭和13年)11月20日後備大隊として金沢駅を発った父は、1939年(昭和14年)2月14日の兵士姿の写真はあるが、どこで兵役を務めていたかは明らかでない。

 1942年(昭和17年)12月9日に長男功が生まれた。この前後は帰省・警察官として羽咋で働いていた。

 1944年(昭和19年)3月 父29歳 3度めの出征で南方へ送られた。当時は見送る人たちは涙を見せようものなら非国民とののしられたから、後1か月で月満つる母は帰宅して泣きに泣いたという。

 1か月後4月21日(奇しくも節子と同じ月日)私が生まれた。当時長女節子は4歳で全身まひ、長男功は1歳5か月、母は乳腺炎で手術してい片方の乳房しか母乳が出なかった。

まだ赤ん坊の功はおっぱいを欲しがり、私は栄養失調、痩せて体中に腫物ができた。今でもそのあとは消えない。

 

このままでは新生児が危ないと決心した母は新潟の実家に連絡して妹2人に来てもらい、3人の子供を連れて帰省した。金沢駅に見送りに来た私の祖母は外地で戦っている息子に申し訳ないと泣いたという。

8時間以上の汽車の旅で、食料もままならず、どこかの小さな駅に立っていた若い警察官に自分も警察官の妻であることを話して粉ミルクを溶かすお湯をもらったことが忘れられないと後日母が語ってくれた。

 

新潟の実家は農家であったから食料にはあまり不自由せず、私はお米をたいた重湯で育った。そしてその年の冬2歳の功が囲炉裏の中に転げ落ち顔半分に火傷を負いほとんど同時期に節子が死んだ。功は当時の家庭療法ですりおろしたきゅうりを患部につけていたため跡も残さず完治した。

節子は具合が悪そうでずっと抱いていたが囲炉裏端へ寝かせて少しの間に静かに死んでいたという。もう少し抱いてあげればよかったと母が話してくれたがどんな思いだっただろう。

 1945年(昭和20年)8月15日の終戦でその年か翌年早くに帰国した父は金沢へ帰っても愛妻は居ず、マラリヤにかかって苦しい体で新潟の母の実家へたどり着いた、

高熱と悪寒を繰り返しながらも農家での豊富な食料と手厚い看護で回復した父は金沢へ妻子を伴って帰り松任町の警察署で刑事として働いていた。

 1947年(昭和22年)1月1日次男博が生まれたが、戦地から戻って以来一切戦争については語らなかった父は酒におぼれておむつを買う金もなかったという。

 博を取り上げてくれた産婆の家族と親しくなったが、同僚の刑事からねたまれてその家族が赤(共産党)だと告げ口され、奥能登へ飛ばされたのは私が小学校1年生の秋だった。

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着物のリフォーム

2014-11-01 14:41:23 | ロンドン周辺

私は42年前英国へ来る前は京都で7年間働いていた。当時女性の晴れ着といえば着物と決まっていたから、京都に居る間毎年1-2枚の着物の生地を買って母に縫ってもらっていた。だから父母にも何枚かの着物生地を買ってプレゼントしたりもしていた。

英国へきて今までに着物を着た回数といえば10指に入るくらい着る機会がない。それに10年前に亡くなった母の着物をかたみに全部もらってきたからその数も相当なもの。

数年前からこれで私が死んだ後でこれらの着物はどうなる?と思うと何とかしなければと切実に思うようになった。日本でも若い女性では着物離れが多いと聞く。

絹の着物はミシンでは縫いにくくまた洗濯も大変。これらは避けて普段着のウール地の着物をほどいていろいろ作ってみた。

日本文化にあまり興味を示さない亭主も私がリフォームした洋服を見る度、亡くなった母さんが喜んでくれているよと言ってくれる。

 

数年前に初めて手掛けた母のウールの着物で作ったベストとスラックス。ベストは裏付、スラックスは幅広で最近の細身のファッションには合わないけれどこの年ではファッションの流行を追う気持ちもない。

2枚目も地味なウールの着物と厚地綿の矢絣の大判風呂敷で作った上着、季節の変わり目に重宝している。

この着物地は私が母にプレゼントしたもので、当時50代の母にとっては地味だったかもしれない。生地を見てあまり喜ばずじっと見つめていた姿を忘れられない。そして気を取り直してよく見るとこのがらは大柄なのだと分かったと言ってくれた。

英国では見られない面白い柄の生地でそれに赤矢絣の綿風呂敷で襟や袖、ポケットなどをアクセントにしたから大変気に入っている。裏地にはタイでスカートを作るつもりで買ったタイシルクを使っているから暖かく冬のポルトガルでちょうどよい具合だろう。

 

この着物は今年のトラファルガースクエアで行われた日本祭りで中古品を売っていた。柄が気に入ったから15ポンド(2500円)で買って切る前に一度だけ着物として着てコンサートに行った。友達が切るのは惜しいと言ったのだけど全部ほどいてみたらあちこち虫食いの穴があってほどいて洗い熱いアイロンをかけ、もし卵がついていたらと冷凍庫にも一晩入れてみた。

でも人間の精子や卵子でさえ冷凍保存できるくらいだから虫の卵が家庭冷蔵庫で死ぬのだろうか?と友達同士で不思議がったり。

とにかく今回はエプロンドレスに直して重宝している。

また来年ポルトガルから帰ってきたら着物箱を整理してリフォームしなければならない。

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