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KAZE193号が送られてきた。
「ありがとうお陰様で20年」と題して1988年から1995年まで各年次の出来事を振り返ったいる。
丁度私のカワサキでの最後の7年間の時期である。
一つ一つの事柄が懐かしい。私のために纏めて頂いたのではと思ったりするような内容である。
こんな記事です。
こんな時代こんなことをしてきました。
無茶苦茶楽しい時期でした。いい仲間がいっぱいいましたし、ほとんどを社内、社外のそんな仲間たちがやってくれました。
旗を振っていただけです。
1988年
『カワサキのユーザークラブとして発足!今日まで唯一続いているメンバーズクラブです。』
「KAZEネットワークニュース発刊、VOL1はパンフレットの集合体のようなスタイルでスタート。』とあります。
雑誌を編集する時間も能力もありませんでした。パンフレット何枚かを封筒に入れて発送しました。
ソフト会社KSSもまだ設立されていなかったと思います。
「KAZE海外ツーリングがスタート」KAZE発足と同時にスタートしました。
「第1回はニュージーランド10日間の旅。語学が出来なくても、バイクを持ってゆかなくても手軽に海外ツーリングが楽しめるとあって大好評でした。」
1989年
『当時はバイクマーケットも大きく拡大。その中で遊びの渦も大きく拡大しました』
「KAZEの提携施設がじっくりと成熟ー。」
「KAZEカードがJCBとジョイント」
「KAZEギャル1期生が誕生!」
琵琶湖と本栖湖でサンバカー二バル、鈴鹿8耐にもブースを。そうでしたね。
ルマンに宗和、多田で参戦日本人ライダーとして初入賞した年です。
1990年
『KAZEのシンボル「風太」クン登場!耳の大きな奇妙な生き物ーーその姿に当時の若い人たちの「気分」を象徴しました。』
KAZEのイベントカーが出来レース場やイベント会場で活躍しました。
中に入っていたのは、社員だったと思います。
異様な形が人気で8耐のテレビ中継にも登場したりしました。
KAZEグリーンカップレースが始まったのもこの頃です。
そんな中心に「風太」クンがいました。
4月にはSPA直入オープン。2000人の町に4000人のライダーが集まりました。
1991年
『とっても凄いことをやりました!でっかいゲームイベントや何と四輪自動車までーー?』
ゼファーが売れて絶好調の頃です。
ソフト会社「ケイスポーツシステム」も本格的に動き出しました。
サーキットを走る本格的な四輪を単車の軽量高回転高馬力エンジンを積んでTIサーキットなどで走りました。「X-11」です。
話題が尽きないビッグ企画が目白おしの時代でした。
バリオスが発売されたのもこの年です。
6月には当時の目標『7万台を達成』しています。
1992年
『KAZEギャルもとっても充実!ギャルならやっぱりカワサキだねって言われました』
KAZEのイメージギャル「KAZEシンデレラ」を一般公募して鮎川ひかるさんが当選。KAZEネットワークでの通販を開始しています。
全日本ロードレース選手権でカワサキが1,2位を制覇、塚本、北川の時代でした。
7月には東京のど真ん中新宿にショールーム開設。
1993年
『忙しい方でも効率よく楽しめる北海道モニターツーリングがスタート』
九州のモニターツーリングもスタートしています。
鈴鹿8耐には伊藤ハムレーシングカワサキが優勝。カワサキが鈴鹿8耐にかったのはまだこの一勝だけです。
レース関係では岩城洸一が月木と組んでいろいろ手伝ってくれていた時期でした。
1994年
機関紙には記述がありませんが、新宿のショウルームに続いて、博多のIMSでもショウルームを展開。
自動車学校の設立準備。実現しませんでしたが関東のサーキット松井田の開設に努力した時期でした。
5月8日の筑波サーキットでのサンクスフェアには12000人のカワサキファンで埋まりました。
1995年
『カード時代に突入JCBに加えてオリコカードも』
JCBカードに加えてJCB、オリコカードが出来た年です。
KAZEに対する注目度はカード業界からも非常に高いものがありました。
既にセグメントされた若いスポーツ好きのメンバーばかりが集約されているカードで、何万人もいるのはそんなにないのです。
その価値は特別評価に値するものでした。
私はこの年の10月までカワサキモータースジャパンに専任し、1996年以降は自動車学校の設立や、業界でのNMCAの設立などホンダさんなどと取り組んだりしていました。
KAZEの機関紙がこんな風に纏めてくれたので、ご紹介をしました。
いろんなことを思い出しました。
明日でも、この頃の仲間たちとの話を思い出してみたいと思っています。
カワサキのゼファーが最高に売れた最高の時代であったかも知れません。
KAZE193号が送られてきた。
「ありがとうお陰様で20年」と題して1988年から1995年まで各年次の出来事を振り返ったいる。
丁度私のカワサキでの最後の7年間の時期である。
一つ一つの事柄が懐かしい。私のために纏めて頂いたのではと思ったりするような内容である。
こんな記事です。
こんな時代こんなことをしてきました。
無茶苦茶楽しい時期でした。いい仲間がいっぱいいましたし、ほとんどを社内、社外のそんな仲間たちがやってくれました。
旗を振っていただけです。
1988年
『カワサキのユーザークラブとして発足!今日まで唯一続いているメンバーズクラブです。』
「KAZEネットワークニュース発刊、VOL1はパンフレットの集合体のようなスタイルでスタート。』とあります。
雑誌を編集する時間も能力もありませんでした。パンフレット何枚かを封筒に入れて発送しました。
ソフト会社KSSもまだ設立されていなかったと思います。
「KAZE海外ツーリングがスタート」KAZE発足と同時にスタートしました。
「第1回はニュージーランド10日間の旅。語学が出来なくても、バイクを持ってゆかなくても手軽に海外ツーリングが楽しめるとあって大好評でした。」
1989年
『当時はバイクマーケットも大きく拡大。その中で遊びの渦も大きく拡大しました』
「KAZEの提携施設がじっくりと成熟ー。」
「KAZEカードがJCBとジョイント」
「KAZEギャル1期生が誕生!」
琵琶湖と本栖湖でサンバカー二バル、鈴鹿8耐にもブースを。そうでしたね。
ルマンに宗和、多田で参戦日本人ライダーとして初入賞した年です。
1990年
『KAZEのシンボル「風太」クン登場!耳の大きな奇妙な生き物ーーその姿に当時の若い人たちの「気分」を象徴しました。』
KAZEのイベントカーが出来レース場やイベント会場で活躍しました。
中に入っていたのは、社員だったと思います。
異様な形が人気で8耐のテレビ中継にも登場したりしました。
KAZEグリーンカップレースが始まったのもこの頃です。
そんな中心に「風太」クンがいました。
4月にはSPA直入オープン。2000人の町に4000人のライダーが集まりました。
1991年
『とっても凄いことをやりました!でっかいゲームイベントや何と四輪自動車までーー?』
ゼファーが売れて絶好調の頃です。
ソフト会社「ケイスポーツシステム」も本格的に動き出しました。
サーキットを走る本格的な四輪を単車の軽量高回転高馬力エンジンを積んでTIサーキットなどで走りました。「X-11」です。
話題が尽きないビッグ企画が目白おしの時代でした。
バリオスが発売されたのもこの年です。
6月には当時の目標『7万台を達成』しています。
1992年
『KAZEギャルもとっても充実!ギャルならやっぱりカワサキだねって言われました』
KAZEのイメージギャル「KAZEシンデレラ」を一般公募して鮎川ひかるさんが当選。KAZEネットワークでの通販を開始しています。
全日本ロードレース選手権でカワサキが1,2位を制覇、塚本、北川の時代でした。
7月には東京のど真ん中新宿にショールーム開設。
1993年
『忙しい方でも効率よく楽しめる北海道モニターツーリングがスタート』
九州のモニターツーリングもスタートしています。
鈴鹿8耐には伊藤ハムレーシングカワサキが優勝。カワサキが鈴鹿8耐にかったのはまだこの一勝だけです。
レース関係では岩城洸一が月木と組んでいろいろ手伝ってくれていた時期でした。
1994年
機関紙には記述がありませんが、新宿のショウルームに続いて、博多のIMSでもショウルームを展開。
自動車学校の設立準備。実現しませんでしたが関東のサーキット松井田の開設に努力した時期でした。
5月8日の筑波サーキットでのサンクスフェアには12000人のカワサキファンで埋まりました。
1995年
『カード時代に突入JCBに加えてオリコカードも』
JCBカードに加えてJCB、オリコカードが出来た年です。
KAZEに対する注目度はカード業界からも非常に高いものがありました。
既にセグメントされた若いスポーツ好きのメンバーばかりが集約されているカードで、何万人もいるのはそんなにないのです。
その価値は特別評価に値するものでした。
私はこの年の10月までカワサキモータースジャパンに専任し、1996年以降は自動車学校の設立や、業界でのNMCAの設立などホンダさんなどと取り組んだりしていました。
KAZEの機関紙がこんな風に纏めてくれたので、ご紹介をしました。
いろんなことを思い出しました。
明日でも、この頃の仲間たちとの話を思い出してみたいと思っています。
カワサキのゼファーが最高に売れた最高の時代であったかも知れません。