雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昔々の明石のこと

2010-07-03 05:03:25 | 自分史
★小学校に入る以前、6,7歳の頃だと思うが、既に大田から京城に移っていたのだが、
小学校に入る前に印象に残っているのは、京城のことよりはむしろ、その頃の内地(日本)に帰省していた明石や岡山のことである。

岡山には同じ年頃の従兄弟がいたし、
明石では子供のいなかった伯父、伯母が孫を扱うように可愛がってくれたのである。

★その頃の、本籍は明石市細工町20番地であった。
番地までは確かではないが、細工町までは間違いない。
電話番号は70番だったような気がする。

その頃あった、家、屋敷を、その後どのようにしたのかは、よく解らないが、とにかく空襲でみんな焼けてしまった。
小学校3年の頃には、私が生まれた上の丸に伯父夫婦も居宅を移していて、
細工町に家があったのは、小学校2年生の頃までである。

(細工町の家は部屋数も多く料亭などには格好なつくりであった。
戦後しばらく経って、明石市長公舎になったり、川重の接待寮になったりした、二松荘は、
戦時中、その持ち主であったSさんが、料亭がやりたくて細工町の家との交換を打診されたようだが、二松荘は坂があって子供に危ないと父が断ったとか。
交換しておけば戦災にもあわずに残ったのに。
戦後まだSさんがおられたころ何度もお邪魔してそんな話を伺った。)

細工町とは、今明石では有名になった『魚の棚』の直ぐヨコである。
明石は所謂、城下町で道も入り組んでいたのだが、戦災と戦後の二度の大火事でこのあたりは区画整理がされて今の明石大通りなどが出来たのである。

★地図で調べてみたが、当時はなかったような道が今は出来ている。
間違いなく、覚えているのは、家の南隣は朝日新聞を扱っておられたKさん宅であった。
もう少し南にはパン屋さんがあって、朝食パンを焼くときの匂いが好きで、よく伯母に連れて行ってもらったものである。

こんな自分史など書くことになるのなら、伯父や伯母が存命の頃、もう少しちゃんと聞いておけばよかった。

★当時伯父は、大田電気は南鮮電気に既に合併したあとで、副社長はしていたが、京城に常駐していたわけではない。年に何回か京城を訪れていた。
そんなことで明石の中崎海岸に『錦江ホテル』というホテルを経営していた。
家計を支えると言うことでもなくて、半ば趣味みたいなホテルであった。
伯父や父の妹のご主人の叔父が支配人をして、実際の経営に当たっていたようである。

ロビーも調度品も立派だったし大きな庭園も池もある、当時でも外人さんが泊ったりする、結構いいホテルであった。
当時の明石海岸が、須磨、明石と並び称されて、舞子の背の低い松ではなくて、須磨公園にある背の高い松並木があって、中崎公園は素晴らしい景観だったのである。
夏の海水浴などホテルから公園を一跨ぎすると白砂青松の海岸だったのである。

多分、今の明石勤労福祉会館になっているところである。
若し、お稲荷さんが今でも残っていたら、その南側であれば間違いない。
お稲荷さんは、叔父夫婦の居宅の一隅にあった。

当時はホテルから南には家もなかったし、道もなかった。
今の中崎公園から南は海だったのである。

★このホテルのことはいろんな思い出もあるのだが、戦争が激しくなって、
明石の川崎航空機に10万人の人たちが働いていた昭和18年ごろ、川崎航空機に明石に訪れる軍の関係者の宿舎として売り渡されたのである。(接収みたいなものであったと思う。)

当時の川崎航空機の総務部長が砂野仁さん(元川崎重工社長)で、伯父との間で、調度品一切を含んで100万円で売買契約書が結ばれている。
私が神戸一中に進学したのも、砂野さんの薦めだし、川崎にお世話になったのもこんな関係からである。

川崎航空機に入社して、財産課に配属されたので、地下の書類倉庫で、たまたまそのときの契約書を見たので、その金額などは知っているのである。

★そんな私の人生の進路を決定したようなホテルなのだが、
子供の頃はそこで食事をしたりもしたが、一番印象に残っているのは、ホテルにいたお姉さん方にいろいろと可愛がってもらったことである。
私は伯父のお気に入りだったから、お姉さん方もそれを見越して優しくしてくれたのかも知れない。不思議なことに今でも優しくしてもらった人の名前まで覚えている。

★細工町にいた頃までは、クルマがあった。
家までクルマが迎えに来てくれていた。
当時神戸に買い物に行くときも、クルマだったし、小学校3年生ぐらいまでは、当時なぜか『省線』と呼んでいた電車に乗ったことがなくて、それに乗ってみたいと思っていた。
アメリカと戦争が始まった3年生ぐらいから、クルマはなくなった。
多分アメリカ製の乗用車など、その頃の時勢に合わなかったのではないかと思う。

この自分史を書き出してから、ある人に小さい頃は『坊ちゃん』だったのですね。
と言われたが、
確かに内地に来て伯父と一緒にいるときは『坊ちゃん然』とした生活であったが、
当時でも朝鮮の家にいるときは、そんなことはなかった。

父は、特に怒ったりはしなかったが,決して甘やかすような素振りは皆無だったし、私も小さいときから甘えるようなことは一切しなかった。
やんちゃ坊主でいつも暗くなるまでトモダチと外で遊んでいた。

岡山や明石での生活は、一瞬の『お坊ちゃん』だったのである。


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コメント (2)
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