★前回は、小学校時代の贅沢、かつ悠長な京城から、明石までの帰省旅行のことなどにも触れた。
昭和20年12月8日、8月の終戦の日から約半年後、ソウルから明石へ、それは引き上げの旅であった。
8月15日の終戦から、目ざとい人はヤミ船で家財道具も資産も積んで日本に戻ったという話も聞いたが、10月ごろにはそれも禁止になったとか。
私は9月ごろ近くの公園で遊んでいて、足を折ったのか、骨にヒビが入ったのか、とにかく歩けなくなってしまった。
医者もおらず、診察も受けずに家でただ寝ていただけだから本当はどうなっていたのかは、解らない。
母は、11月の末に出産を予定していてこれも動けず、妹の上の二人は確か11月初めに母の兄の伯父たち一家と一緒に先に日本に引き揚げたのである。
12月8日に、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて、『病院船』で引き揚げたのである。
そういえば、ちゃんとした待遇のように思うだろうが、それは名ばかりでソウルから釜山までは、夜行の貨物列車トイレもなく、何度も止まってやっと朝釜山に着いた。
12月の韓国はもう寒さも厳しくて、そんな中での貨物列車は寒かったのだろうが、そんなことに気づくこともなく、ただほんとに帰れるのかと思っていた。
釜山から、日本の名前だけの『病院船』に乗って、やっと安心したのである。
気が張っていて、玄界灘の船の揺れにも、船酔いなどする間もなく博多についた。
この日が昭和20年8月8日だったのである。
★引き上げの際は、ひとりお金は1000円、あとは持てる荷物なのだが、現品検査があって貴重品などはダメという通達だった。
いわゆる『着の身着のまま』でみんな戻ってきたのである。
今でも、みんなどうしたのだろうか?
と思うのは、現地に残した家や家財道具、お金などである。
私の住んでいた家は、アメリカの空軍の将校が入ることになって、ちゃんと売れることは売れたのだが、お金にしても持って帰ることは出来ないのである。
『ウソみたいなほんとの話』だが、空軍の通訳の人がこんな風に言ったようである。
『お金にしても持って帰れないから、金の延べ棒に換えて、貴重品も行李二つぐらいにまとめたら、空軍将校が特別に伊丹空港まで、送ってあげる』
その通りにしたのである。
金塊というか、金の延べ棒が一貫200匁。 こんなのを見たのはこの時が最初で、最後である。
貴重品もみんな行李の中に詰めて残してきた。
当たり前の話だが、待てど暮らせど伊丹空港に荷物などは届かなかったのである。
我が家はそんな状態であったが、ほかのお宅はみんなどうしたのであろうか?
韓国の誰が、どのように処理したのか?
朝鮮も満州もみんな同じだったのだろうが、38度線以南のソウルだったことは、まだ幸いであった。
★博多からは、みんなばらばらでそれぞれの目的地に向かった。
当然、明石に戻ったのだが、明石の駅にたって、駅前を見て呆然とした。
焼け野原とはこういうことを言うのだろう。
戦前の明石を知っていただけに、ほんとに呆然とした。
それから、どうしたのかはよく覚えていない。
電話などあろうはずもなく、伯父宅を目指したのだろうが、連絡など取りようもなかったので、多分駅から上の丸まで歩いたのだろう。
その上の丸も何もなかった。
3000坪ほどの家や敷地後には、1トン爆弾が二つ、500キロ爆弾の跡が一つ、逆円錐形の池になっていて水がたまっていた。
焼夷弾は数えきれないくらい地面に刺さったままだった。
疎開先の伊川谷に伯父一家が借りていた家に、どうして辿りついたのか、よく覚えていないが、
そこから、『戦後』が始まったのである。
昭和20年12月8日、8月の終戦の日から約半年後、ソウルから明石へ、それは引き上げの旅であった。
8月15日の終戦から、目ざとい人はヤミ船で家財道具も資産も積んで日本に戻ったという話も聞いたが、10月ごろにはそれも禁止になったとか。
私は9月ごろ近くの公園で遊んでいて、足を折ったのか、骨にヒビが入ったのか、とにかく歩けなくなってしまった。
医者もおらず、診察も受けずに家でただ寝ていただけだから本当はどうなっていたのかは、解らない。
母は、11月の末に出産を予定していてこれも動けず、妹の上の二人は確か11月初めに母の兄の伯父たち一家と一緒に先に日本に引き揚げたのである。
12月8日に、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて、『病院船』で引き揚げたのである。
そういえば、ちゃんとした待遇のように思うだろうが、それは名ばかりでソウルから釜山までは、夜行の貨物列車トイレもなく、何度も止まってやっと朝釜山に着いた。
12月の韓国はもう寒さも厳しくて、そんな中での貨物列車は寒かったのだろうが、そんなことに気づくこともなく、ただほんとに帰れるのかと思っていた。
釜山から、日本の名前だけの『病院船』に乗って、やっと安心したのである。
気が張っていて、玄界灘の船の揺れにも、船酔いなどする間もなく博多についた。
この日が昭和20年8月8日だったのである。
★引き上げの際は、ひとりお金は1000円、あとは持てる荷物なのだが、現品検査があって貴重品などはダメという通達だった。
いわゆる『着の身着のまま』でみんな戻ってきたのである。
今でも、みんなどうしたのだろうか?
と思うのは、現地に残した家や家財道具、お金などである。
私の住んでいた家は、アメリカの空軍の将校が入ることになって、ちゃんと売れることは売れたのだが、お金にしても持って帰ることは出来ないのである。
『ウソみたいなほんとの話』だが、空軍の通訳の人がこんな風に言ったようである。
『お金にしても持って帰れないから、金の延べ棒に換えて、貴重品も行李二つぐらいにまとめたら、空軍将校が特別に伊丹空港まで、送ってあげる』
その通りにしたのである。
金塊というか、金の延べ棒が一貫200匁。 こんなのを見たのはこの時が最初で、最後である。
貴重品もみんな行李の中に詰めて残してきた。
当たり前の話だが、待てど暮らせど伊丹空港に荷物などは届かなかったのである。
我が家はそんな状態であったが、ほかのお宅はみんなどうしたのであろうか?
韓国の誰が、どのように処理したのか?
朝鮮も満州もみんな同じだったのだろうが、38度線以南のソウルだったことは、まだ幸いであった。
★博多からは、みんなばらばらでそれぞれの目的地に向かった。
当然、明石に戻ったのだが、明石の駅にたって、駅前を見て呆然とした。
焼け野原とはこういうことを言うのだろう。
戦前の明石を知っていただけに、ほんとに呆然とした。
それから、どうしたのかはよく覚えていない。
電話などあろうはずもなく、伯父宅を目指したのだろうが、連絡など取りようもなかったので、多分駅から上の丸まで歩いたのだろう。
その上の丸も何もなかった。
3000坪ほどの家や敷地後には、1トン爆弾が二つ、500キロ爆弾の跡が一つ、逆円錐形の池になっていて水がたまっていた。
焼夷弾は数えきれないくらい地面に刺さったままだった。
疎開先の伊川谷に伯父一家が借りていた家に、どうして辿りついたのか、よく覚えていないが、
そこから、『戦後』が始まったのである。