★60年以上も前の話、その頃、韓国は日本であった。
ソウルは京城と呼ばれていた。そんな京畿道京城府で5歳から13歳までの8年間を過ごした。。
私にとって、今のソウルは故郷のような懐かしい地なのである。
川重で二輪の仕事をしていたので、世界各国どこにでも日本の二輪車が生産される国には、いろいろと行く機会もあったのだが、私が一番行ってみたい国、韓国は、日本製バイクとは関係が薄くて、どうしても行く機会がなかったのである。
それが思わぬことで、韓国それもソウルに招待されることになったのである。
1988年9月、ソウルオリンピック委員会から、開会式の当日ハンガン(漢江)でのジェットスキーのデモンストレーションを依頼され、世界各国からトップライダーを集めたグルーpの団長として40年ぶりにソウルを訪れたのである。
戦後40数年たって、京城のまちは一変していたが、私が通った小学校も、そこから辿って見つけた私が住んでいた家も残っていた。
このときの話は、ちょっとジェットスキー話で触れているが、、
また別の機会にゆずることにしよう。
★中学校の1年までいたので、昔のソウルのことは、ほぼ正確に覚えている。
小学校は当時は国民学校と呼ばれていて、小学生といえども、あまり子供扱いせずに厳しい教育がなされていた。
当時の人口がどれくらいであったのか?
いわゆる日本人がどのくらいいたのか、その辺はよくわからぬが、各地区にちゃんと日本人だけの国民学校があって、韓国の人たちは別に小学校があったのだが、多分日本語での教育であったのかどうか?
とにかく、私たちは朝鮮語を使う機会は皆無であったし、その必要もなかったのである。
だから、韓国語は全然話せないし片言の単語もあまり知らない。
1から10までが言えるぐらいである。
★京城のまちは、ハンガン(漢江)から北側だけで、面積で言えば現在よりはずっと小さいのだが、街のつくりは当時の内地、例えば神戸に比べても見劣りするどころか、むしろ立派であった。
当時の神戸の市電は日本一という評価であったが、京城の市電のほうが立派だなと、思っていた。
市電はともかく、住宅は数段立派であった。
私は、記憶が正しければ、
京城府城東区新堂町桜ケ丘340番地に住み、桜ケ丘国民学校の通っていたのだが、
そのあたりの住宅は、みんな何百坪単位で、内地のように隣の人床几に座って話をするなどの風景、絶対になかったのである。
戦後何年かして日本各地に始まった住宅のための造成工事が、多分そのころからすでに行われたのだと思う。ちゃんと四角に区画整理がされていた。
ただ、すべてがそうではなしに、より古いまちはもう少し雑然とはしていたが、全般にいわゆる日本人の住む町は立派な作りだったと思う。
対照的に昔からの人たちの街は、小さく雑然としていてこのあたりのことが、日本の植民地政策として非難される原因の一つかも知れない。
★今のソウルでも一番の繁華街だとは思うが、ソウルの駅の南の龍山と言われた地域から南大門や南山の麓あたりさらに東へ伸びたあたりに日本人は多く住んでいて、
昔鐘路と言われていた地域は、朝鮮の人たちの街だったと思う。
そんなことで、自然に住み分けていたし、今のような韓国の焼き肉などあまり口にしたことはなかった。子供のころからよく食べた韓国特有の食材としては『キムチ』と『めんたい』今のたらこぐらいだろう。
とくに『キムチ』は、専門の人がいて、冬幾つもの甕に漬けて貰ったものである。
冬は、やはり寒かった。札幌と比べてどうだろう。温度はひょっとするとソウルのほうが、低いのかも知れない。
戦時中ではあったが、戦争をしているという実感はなかった。
空襲も何度もあったが、爆弾や焼夷弾など落とすことはなく、空襲警報が出ると帰宅できたので、なんとなく歓迎ムードであった。
★機会があれば、もう一度訪れてみたいと思っている。
戦後、桜ケ丘小学校の同窓会が各学年ごとに、組織されていて、年に1回ぐらいの会合をあちこちでやっていたのだが、最近はだんだん生存者が減るものだから、小学校で一つの同窓会に変わっている。
最近は、出席したことはないが、案内だけは毎回頂いている。
学校がなくなってしまっているので、いつかは消滅する運命にある同窓会である。
海兵や、陸士の同窓会があるとすれば、同じ運命なのだろう。
いろいろと、個人的な思い出も多い京城だが、その環境はこんな時代背景がベースであった。
ソウルは京城と呼ばれていた。そんな京畿道京城府で5歳から13歳までの8年間を過ごした。。
私にとって、今のソウルは故郷のような懐かしい地なのである。
川重で二輪の仕事をしていたので、世界各国どこにでも日本の二輪車が生産される国には、いろいろと行く機会もあったのだが、私が一番行ってみたい国、韓国は、日本製バイクとは関係が薄くて、どうしても行く機会がなかったのである。
それが思わぬことで、韓国それもソウルに招待されることになったのである。
1988年9月、ソウルオリンピック委員会から、開会式の当日ハンガン(漢江)でのジェットスキーのデモンストレーションを依頼され、世界各国からトップライダーを集めたグルーpの団長として40年ぶりにソウルを訪れたのである。
戦後40数年たって、京城のまちは一変していたが、私が通った小学校も、そこから辿って見つけた私が住んでいた家も残っていた。
このときの話は、ちょっとジェットスキー話で触れているが、、
また別の機会にゆずることにしよう。
★中学校の1年までいたので、昔のソウルのことは、ほぼ正確に覚えている。
小学校は当時は国民学校と呼ばれていて、小学生といえども、あまり子供扱いせずに厳しい教育がなされていた。
当時の人口がどれくらいであったのか?
いわゆる日本人がどのくらいいたのか、その辺はよくわからぬが、各地区にちゃんと日本人だけの国民学校があって、韓国の人たちは別に小学校があったのだが、多分日本語での教育であったのかどうか?
とにかく、私たちは朝鮮語を使う機会は皆無であったし、その必要もなかったのである。
だから、韓国語は全然話せないし片言の単語もあまり知らない。
1から10までが言えるぐらいである。
★京城のまちは、ハンガン(漢江)から北側だけで、面積で言えば現在よりはずっと小さいのだが、街のつくりは当時の内地、例えば神戸に比べても見劣りするどころか、むしろ立派であった。
当時の神戸の市電は日本一という評価であったが、京城の市電のほうが立派だなと、思っていた。
市電はともかく、住宅は数段立派であった。
私は、記憶が正しければ、
京城府城東区新堂町桜ケ丘340番地に住み、桜ケ丘国民学校の通っていたのだが、
そのあたりの住宅は、みんな何百坪単位で、内地のように隣の人床几に座って話をするなどの風景、絶対になかったのである。
戦後何年かして日本各地に始まった住宅のための造成工事が、多分そのころからすでに行われたのだと思う。ちゃんと四角に区画整理がされていた。
ただ、すべてがそうではなしに、より古いまちはもう少し雑然とはしていたが、全般にいわゆる日本人の住む町は立派な作りだったと思う。
対照的に昔からの人たちの街は、小さく雑然としていてこのあたりのことが、日本の植民地政策として非難される原因の一つかも知れない。
★今のソウルでも一番の繁華街だとは思うが、ソウルの駅の南の龍山と言われた地域から南大門や南山の麓あたりさらに東へ伸びたあたりに日本人は多く住んでいて、
昔鐘路と言われていた地域は、朝鮮の人たちの街だったと思う。
そんなことで、自然に住み分けていたし、今のような韓国の焼き肉などあまり口にしたことはなかった。子供のころからよく食べた韓国特有の食材としては『キムチ』と『めんたい』今のたらこぐらいだろう。
とくに『キムチ』は、専門の人がいて、冬幾つもの甕に漬けて貰ったものである。
冬は、やはり寒かった。札幌と比べてどうだろう。温度はひょっとするとソウルのほうが、低いのかも知れない。
戦時中ではあったが、戦争をしているという実感はなかった。
空襲も何度もあったが、爆弾や焼夷弾など落とすことはなく、空襲警報が出ると帰宅できたので、なんとなく歓迎ムードであった。
★機会があれば、もう一度訪れてみたいと思っている。
戦後、桜ケ丘小学校の同窓会が各学年ごとに、組織されていて、年に1回ぐらいの会合をあちこちでやっていたのだが、最近はだんだん生存者が減るものだから、小学校で一つの同窓会に変わっている。
最近は、出席したことはないが、案内だけは毎回頂いている。
学校がなくなってしまっているので、いつかは消滅する運命にある同窓会である。
海兵や、陸士の同窓会があるとすれば、同じ運命なのだろう。
いろいろと、個人的な思い出も多い京城だが、その環境はこんな時代背景がベースであった。