★前の年も忙しかったが、この年も資料作りなどで追い回された。
発動機事業部営業部営業企画課管理掛というところで掛長心得みたいな立場で、さらに加えて当時はまだ労働組合活動が活発で、職場の労働組合j常任幹事というあまり好きにもなれない役割も押しつけられていた。
初出の日に事業部長ら会社幹部と組合幹部との懇親会があったりして、その席にも出なければならなかった。
私は、発動機事業部の常任監事だったのだが、JETの部門代表をしていたのが田崎さんである。労働組合の会合での話など、解らないことが多くて殆ど発言せずに聞いているだけだったのだが、どんな話題にも上手に入ってきて上手く話すのが田崎さんだった。間違いなく事務屋だと思っていたのに技術屋だと聞いてびっくりしたのをよく覚えている。
まだ、春闘も華やかであったし、ストもあったりして、労働組合対策は会社の重要対策だったのだと思う。同期の山辺さんなども管理部門の常任幹事だったのだがそのうち会社側として組合専従になったりしたのである。
★会社がどんな状況だったのかあまりよく解らぬが3月に貰った給料が25000円、6月に残業料10500円を入れて、34700円もあったと喜んだりしている時代であった。
夏のボーナスが62300円、こんな状態の新婚生活だったのだが、この年にはまだ社宅に入れて貰えなくて14000円ほどの家賃の所謂『文化住宅』と言われた2階建ての長屋の部屋に入っていたから、家計は相当に苦しかったに違いない。
それも戦後の農地改革とやらで、小作の人たちの手に渡った昔の自分の土地に建っていた文化住宅で、あの『農地改革』とは一体何だったのだろうかと思ったりする。
それは兎も角、白黒のテレビはあったようだが、冷蔵庫はこのボーナスで買ったりしている。そんな生活水準であった時代である。
9月末に長男が生まれて、父になった。
妻の実家から電話があって、行ってみたらもう生まれていた。あっけなく父になった感じである。12月31日の日記に、こんな風に記述している。
『家庭を持つと言うことの良さも悪さもある程度、輪郭だけは解ったような気がする。赤ん坊を育てると言うことが如何に手のかかる大変なこととか、女房というものが、ある時は非常に温かく愛らしいものではあるが、ある時は、この回数はうんと少ないが、こわくて、やっかいで、扱いにくいものであると言うことも理解できた。
自分でも驚くほどの変化があったのは家の手伝いをするようになったこと、買い物はしてくるし、洗いものはする。風呂には入れるし寝床も敷く、上げる。今までは全く関係のなかったことで、もっとも嫌いなことばかりだが、不思議とあまり抵抗を感じることもなく実行できた。いろんなことがあったが、家庭的には昭和38年は及第点をつけれるであろう』 などと書いている。
★会社の方は、発動機事業部、いわばエンジンに関係のある部門で小型の発動機、ポンプ、船外機、産業車輛など勿論その中に単車もあって、とにかく品種が多かった。事業の中心はまだ単車ではなくて発動機の方であった。
3月に悪評だったたB7の生産が終り、B8に切り替わったのだが、これが結構好評で、5月14日の青野ケ原のモトクロスでは、雨のお陰で1位~6位独占という快挙もあって、大いに意気上がったのである。
折しも、日本能率協会の単車事業についての調査の真っ最中で、この快挙も影響して、その答申では『単車事業に条件付きでGO』が出たのである。
11月ごろからは、単車事業独立のうわさが公にでて、その人事までがいろいろと言われていたのである。
★前年からの小野田滋郎さん(フィリッピンの小野田中尉の弟さん)との関係はずっと色濃く続いていた。
日本能率協会がつけた条件の一つに、広告宣伝部門の設置があったのだが、当時のカワサキ自販の宣伝課長であった小野田さんからは、熱烈にラブコールを貰ったのである。
結果的には、専門の広告宣伝など誰も経験のない職務で、入社以来新しいことばかり物おじせずにやってきたので『あいつにやらせろ』という事になったのだと思う。
単車事業部の独立は、実質的にはこの年の年末に、JET部門の長であった神武さんが決まって、翌年1月、2月に実質スタートになるのだが、
その時にJET部門から、ホントに大勢のメンバーが単車にやってきた。本社部門からもその後の単車を支えた優秀なメンバーが集まってきたのである。
昨日のブログでレースの事を書いたが、この時期は故川合寿一さんが直接担当で年末あたりからライダー連中が出入りしていたのである。
昭和38年はこんな1年であった。
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