★自分史を書き始めて思うのは、意外に若い時のことはその年度ごとにもよく覚えているのだが、だんだんと年をとって現在と近くなるのに、時系列にあまりよく覚えていないのである。
結果を調べてみると、56歳から約8年間国内の二輪部門を担当して、64歳から66歳のまで、北海道川重建機と言う全然経験のない分野の経営を担当した10年間が、サラリーマンの最後の10年だったのである。
10年もあったかなとも思うし、10年しかなかったのかなどとも思うのである。多分それまでは長くても4年で職務が変わっていたのだが、
この10年間は、『二輪の国内マーケット』と 『他人資本の建機販売会社経営』というテーマで言えば二つだけだったので、短いようにも、長いようにも感じるのだと思う。
★平成5年、今から18年前の60歳、還暦の年、ある意味激務であった。全国を飛び回っていた。
バイクを売るという単純なことではなしに、『マーケットの構造や販売のシステム構造の改革』が一貫したテーマであった。
そう言う意味では、平成5年は新しい門出の年と言えるのかも知れない。
川崎明発、メグロ製作所の販売網を引き継いで、『カワサキ自動車販売』-『カワサキオートバイ販売』 とその社名を受け継いできたが、
ここ数年ジェットスキーの販売も増えたり、グループの中には、販売には関与しない『ケイ、スポーツ、システム』などと言うソフト会社が出来て、
末端のユーザーたちとのダイレクトコミユニケーションをいろんな形で展開し、そのトータルシステムで、自然に売れる仕組みの構築がテーマだったのである。
そんなことでこの年の1月1日に、『カワサキモータースジャパン』と社名変更し、国内グループの資本関係も抜本的にやり直した新グループが発足したのである。
この年から、平成8年まで、一貫してそのトータルシステム構築に邁進して、そこそこのところまでは出来あがっていたのだが・・・
『自然に売れる仕組み』などと言うのは、意外に理解されないことが多い。
日本人は特に額に汗して努力で積み上げるのが好きである。どちらかと言うと、『生産管理型』が似合っているのである。
★この年の12月31日の日記、順不同で私の10大ニュースとしてこんなことを書いている。
● 不況で終わった
● 円が一時100円に近づいた
● KMJ がスタートした
● KSP 、機能別ARK 、首都圏対策スタート
● 損益、台数とも楽ではなかった
● 鈴鹿8耐カワサキ初優勝
● ARKと東欧圏旅行
● 細川内閣スタート
● Jリーグ、サッカーブーム
● 息子に長男生まれる、娘、妊娠
と書いている。
個々にはちゃんと覚えているが、この年であったと言うことは殆ど記憶にない。こんな自分史を書いてみて、そうかそんな年だったのだと思うのである。
東欧の旅行は今でもよく覚えている。西欧とは全然違った、ブタペスト、ウイーンなど歴史を感じた旅だったし、汽車に乗れたのはよかった。
★この年の11月、KAZEの特集号を出している。
高橋鉄郎さんと、私のインタビューが載っている。こんなカワサキの時代だったのである。
★若いころから、何度も一緒にいろんなことに取り組んだ、上司の高橋鉄郎さん。
こんなインタビューをやる時も、デ―ラ―ミーテングの時も、いつも一切事前の打ち合わせなどなしだった。フリーで話して頂いて、100%大丈夫だったのである。
日本の経営者は常に数値目標などばかりを話したがるが、理念を語れる人は意外に少ないのである。
この高橋さんの話、今のカワサキの現役の人たちもよく読み返してみて欲しい。
20年も前、、カワサキは『好感企業』を目指して、そのブランドを大事にして、1975年からの『Good Times コンセプト』をベースの展開をしていたのである。
単なる販売会社から、常にコンシューマーを見つめて、その満足を第一義に全ての行動を展開していた時代であった。
今そのままのコンセプトで、
当時の仲間たちと一緒に、NPO The Good Times というトータルシステムで『新しい公共』を目指している。
このNPO法人の立ち上がりの時点から、高橋鉄郎さんには相談役をお願いしている。
設立以来2年経って
このカード試案、今朝出来たばかりだが、
これは、孫中山記念会の理事長を引き受けられた田崎雅元さんと、具体的に動き出そうとしているのだが、
そんな原点が、この年、平成5年(1993)にあったのかも知れない。
『カワサキモ―タスジャパン』という社名、幾つもの案もあったのだが、当時田崎さんが推した案であったことは間違いない。
20年経った今も一緒にいろんなことがやれるのは、幸せである。
今年の春、3月4日、『カワサキの想い出、そして未来』
高橋さんも、田崎さんも、こんな挨拶をされている。 Ustream で全世界に同時中継されたのである。