★昨日の朝のFacebook
甥っ子が、父のこんな絵のことをアップした。
橋本関雪の生誕130年を記念した 『橋本関雪展』 に行ってきたようである。
関雪さんの絵に多分よく似た牛の絵でもあったのだろうと思う。
父は生前趣味で日本画を描いたりしていた。
家には関雪さんの絵などもあって、よくその摸写などしていたのである。
これは間違いなく、橋本関雪の描いた牛なのである。
橋本関雪の父橋本海関は書家で、明石の出身である。
明石松平家に代々仕えた家で、親戚筋にあたるようで、
そんなことで、生前父は、書は海関に習い、絵は関雪に習ったとそれが自慢だったのである。
我が家にも、明石の本家にも橋本関雪さんの絵は何枚もあったのだが、我が家はみんな朝鮮に置いてきたし、本家の絵は空襲でみんな焼けてしまって1枚も残ってはいない。
ただ父の絵が何枚か残っているのは、親戚に上げていたものなのだと思う。
妹の家にはそんな1枚の掛け軸が残っていて、その絵が上の牛の絵なのだと思う。
★FBでそんな甥っ子の記事をシェアなどしていたのだが、昼前に一番下の妹が嫁いでいる義弟から郵便が届いた。
彼も橋本関雪展に行ってきたようで、立派な冊子を送ってきてくれたのである。
お礼の電話をしたら義弟はいなかったが妹は出てきて、妹は展示会には行かなかったようでる。
甥っ子の父の絵の話をしたら、Facebook はやっていないので、観れないのでブログにアップしてくれと言うのである。
そんなことで、義弟へのお礼も兼ねてこのブログをアップしている。
これが送って頂いた冊子の表紙である。
上の牛はその冊子の中にあったもので、父の描いた牛と同系統のものなのだろう。
★先日、母は103歳で亡くなったが、
その遺品の中に、父のこんな絵があった。
これも戦前に父が描いたもので、どこから戻ってきたのだと思う。
これなども橋本関雪の影響を受けたものなのだろう。
昨日頂いた冊子の中には沢山の絵が載っているが
こちらも
この絵なども、同じ系統に属するものなのだろう。
父の号は、『素雪』と言う。
橋本関雪さんから頂いたものか、勝手に自分が付けたのか、それは定かではない。
素は 当時母の名を 冨子から素子に通称を換えていたので、その素から取ったのではないかと思ったりする。
『自顕院仁覚素雪居士』 と父の戒名の中にも『素雪』は使えわれている。
★父は、52歳で、1952年の1月2日に亡くなった。
私は、高校3年生であった。
2年間もの闘病生活だったが、もう1ヶ月長生きしていたら、多分私は大学などには行っていなかったと思う。
その前の日元旦、なぜか元気で、書を書いたりしたのに、翌日死んでしまった。
生前の父との思い出もそんなにはないのだが、私は父が好きだった。
『男は口にしたことには、責任を持て』
これくらいしか覚えてはいないのだが、それはちゃんと守っている。
そんな父の絵が残っている。それに関心のある甥っ子のところにあるのがいいと想っている。