雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキの二輪事業と私 その38 昭和42年(1967)

2017-02-02 07:52:17 | 自分史

★昭和42年1月(1967)から約4年間、私は東北仙台に異動した。広告宣伝やレース活動から一転、当時の代理店営業という初めての営業分野への転向であった。

体験するすべてのことが『初めて』のことばかりで、引き継ぎなど全くない新しい分野だったのである。当時の川崎航空機の二輪事業展開は、事業そのものがカワサキにとって初めてのものだったので、私に限らずアメリカ市場なども、当時の若手の人たちは『初めての経験』を苦労しながら、それぞれ自らのやり方で乗り切っていったのだと思っている。

 

    

 

前年度あたりから具体的な開拓が始まったアメリカ市場も、新しく投入された250A1 などのカワサキ独特のスポーツ車を武器に拡大発展した『新しいカワサキ』の時期が始まるのである。

一方、国内市場はまだまだ『実用車中心』の時代で、125B1などを中心に、最大の市場が東北6県や九州というそんな時代で、従来の自己資本の代理店が中心でその傘下の販売店の主力は自転車屋さん、販売形態は日本独特の『委託形式』で、『50ccモペット』を売るに相応しい販売ネットワークが敷かれていて、カワサキなどもその形態を追随していたのである。

 

    

 

    

 これは担当していた広告宣伝課で創っていたカタログで、ネットで『画像検索』すると現れたのである。

 

 

★私に与えられた任務は、東北6県の代理店のために『新しい機能の事務所』を仙台に創ることで、それは岩城本部長が東北に出張された時、代理店の社長たちに要望されて、即座にその場で『創る』と約束されたようなのである。その時岩城さんに随行していた販売推進課の八木健さんからその話を聞いた時、仙台に行くのは『八木さんだ』と思っていたのに、いつの間にか私にお鉢が回ってきたのである。

その指示は『仙台に事務所を創れ』というだけで、具体的な指示は一切なかったので、どこにその事務所を置くのか、誰をメンバーにするのか、どんな業務をするのかなどすべて、白紙からのスタートだったのである。

社内の異動は何回か経験したが明石以外への転勤は初めてだったので『転勤とはそんなものか』ぐらいにしか考えなかったのだが、それまでも『新しいこと』ばかりをやってきたので、『あいつにやらしておけば、何とかするだろう』ということではないかと思っている。

餞別に、コロナのトラックを頂いて、それに書類など積んで、明石から仙台まで1000キロを陸送するのが初仕事だったのである。名神高速は文字通り名古屋まで、そこから先はすべて地道だから、1日目は東京までこんな行程で大変だったのである。

翌日1月6日に、東京事務所に初出して、さらに仙台へと向かってこの年は始まっているのである。

 

   

 

仙台には、川崎航空機の他部門が集まっている事務所もあったのだが、業務の中味が全く異なると思ったので、当時の宮城県の代理店宮城カワサキに机を一つ置かしてもらうことでスタートし、まず社宅を見つけてすぐ移ると言ったら、上司の苧野さんから『春になって暖かくなってからにしたら・・』などと言って頂いたのだが、1月早々に家族を連れて仙台の住人となったのである。

ただ、関西に比べ家賃などは安かったので、結婚以来初めて一戸建ての庭付きの社宅に入れたのである。

 

★『仙台事務所の機能』とはどんなことなのか? 代理店はこの事務所に何を期待しているのか?

当時の地方の代理店は、その経営判断がムツカシイ時期だったのである。各メーカーとも、業容の拡大が最大の目標で『拡販一筋』だったのである。

技術力も、資金力もない自転車屋に車を『委託』して拡販する日本独特の方式は、メーカーのそんな方針に忠実な代理店ほど資金的には苦しくなって、その資金援助など受けているうちに、『メーカー資本が入って系列化の方向になりつつある』そんな時代だったのである。

私はまだ35歳の若さだったが、お相手をする代理店の社長さんは、ずっと年上の経験豊富な方たちばかりだし、そんな方たちの依頼で地元の取引銀行の支店長などとも面談する機会も多かったのである。齢は若くても、川崎航空機というメーカーの社員で「仙台事務所長」という肩書が役に立ったりするのである。

今までもムツカシイこともあったが、若いライダー諸君といろいろやってた交渉とは、全く次元の異なる『経営次元』の問題で、各代理店の社長の立場は、メーカーの方針に従えば系列化の方向に進むのは解っていても、なかなかNOとは言えない微妙な立場なのである。そんな微妙な状況下でいろんなご相談に乗ったのだが、いま思ってもなかなかムツカシイ問題だったのである。

私は確かに商大の卒業なのだが、野球ばかりしていて全く経営関連など勉強していないし、簿記も取っていないし貸借対照表など全く解らなかったのだが、そんなこと言ってはおれないのである。それに私の上司の宮川弘部長はカワサキ自販の経理部長をされてた方で、めちゃ怖くて、私がそんな基本的なことは当然解っているという前提でいろんな話をされるので、その対応はホントに大変だったのである。

二輪事業経営で一番大事な経営対策の方向は営業内よりは『営業外対策』、『頑張って売ろう』と実力以上に数を追っかけたら、間違いなくダメになる。『頑張ったらダメ』なのである。頑張らなくても、遊んでいたら自然に売れる『仕組み』さえ創ればいいのである。これは代理店でも、カワサキの事業部でも同じことで、如何に多くの人たちが、実力以上に頑張って失敗したことか

こんな私の発想は、この4年間の東北の経験から身についてしまっているのである。そういう意味で、この東北の仙台事務所長時代の4年間の経験は、その後一生、いろんな時期に大いに役立ったのである。

ずっとのち、アメリカのKMCや二輪事業部の経営再建に当たった時もこの経験が生きたし、国内の販社グループを率いたときも、結構数は売ったが、銀行借入金などは0円だったし、いま、NPO The Good Times というNPO法人を70歳半ばに立ち上げているのだが、この法人は世界でただ一つ『資金繰り不要な法人』に仕上げているのも、この東北時代の経験からである。通常経費を0円にしておけば、資金繰りなど不要なのである。ネットをベースに『仕組めば』ネットはどのように上手に使っても『無料』なので、そんなウソみたいな法人が現存するのである。

そんな『仕組みの創造』の原点は、この仙台事務所長時代に得たノウハウなのである。

 

★『仙台事務所』のスタートはたった一人でスタートし、1ヶ月後に女子の菊地さんを採用、その後宇田川・海老沢・田中さんに、東京から経理の石塚・中茎さんなどが加わって、当時のカワサキの国内販売では岩手カワサキは常に金賞を頂く日本一の実績だったし、東北6県だけで1万台に近い国内最右翼の実績を上げていて、今では考えられない状況だったのである。

いつまでも宮城カワサキのお世話になっているわけにもいかず、バイパス筋に土地を購入して1年後にはそちらに事務所を移して東北6県を統括していたのである。

現在の『仙台プラザ』の場所である。

営業の素人だったが大いに頼りにされたのは、東北各地で開催されていた『モトクロスレース』の支援である。当時は地方レースとしては東北が日本で一番活発だったので、そんなレースに関しては、ファクトリーにも、レース界にも顔が効いたので大いに貢献できたのである。

この年のMFJ 日本グランプリモトクロスは郡山の自衛隊の演習場で開催されるのだが、このレースの場所は当時のMFJの山田事務局長に頼まれて、福島オートの中西社長が元軍人さんだったので、自衛隊に頼んで貰ってその場所が決まったりしたのである。

このレースで、スズキのRH,カワサキのF21Mに続いて、ヤマハのDT1がデビューし鈴木忠男が250㏄で優勝したりしている。ちなみに90ccは星野一義、125ccは山本隆がチャンピオンとなったのである。

東北各地で開催される地方レースには、山本・歳森・梅津・岡部・星野たちがセニアで、清原明彦・従野孝司がまだノービスでモトクロス選手としていろいろと来てくれたのである。

さらに、当時の白バイは殆どがメグロだったのでそんな関係もあって、各県の警察学校で白バイ隊員ㇸのライデイング理論講習実技指導山本隆や岡部能夫が来てくれたて、非常に好評だったのである。

 

★この初年度はあっという間に過ぎてしまうのだが、10月になって仙台の77銀行の支店長の紹介で、ホンダの代理店山形ホンダがカワサキをやりたいという話の紹介があって、11月、12月とこの大きな話に掛り切りになるのである。そして『山形カワサキ』としてスタートとなるのである。

然しながら、各地の代理店はその後結果的にはこの『山形カワサキ』も含めて地元の資本はすべて消えてしまって『カワサキの直営会社』になっていくのである。自己資本のままデーラー権を返上して一販売店として生き残った兵庫メグロのようなところもある。

これはカワサキだけではなくて各メーカー同じようなことなのだが、ホントにその方向がよかったのかどうか?と思ったりもするが、そんな世の中の流れの中に、各地の自前の代理店は埋没していってしまったのである。そんな最後の期間の東北担当だったのである。

 

★この年10月15日、FISCOで開催された日本GPは、仙台から観に行ったが、金谷秀夫はこの年はGP125で見事3位入賞を果たしている。カワサキのGP初入賞である。

6月13日に その金谷から、こんな手紙を頂いているのである。

 

   

 

 素直に、気持ちがよく現れている手紙である。

 金谷秀夫はこのあと見事に立ち直って『世界の金谷』と言われるまでに成長するのである。

 

   

 

この写真、いま Facebook で使っていて、毎日一緒にいる方たちだが、それぞれ立派に成長されたものである。

なぜ、金谷だけ先に逝ってしまったのか・・・・

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

https://www.facebook.com/%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-662464933798991/

 

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