雑感日記

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カワサキの二輪事業と私 その40 昭和44年 (1969) 

2017-02-15 06:55:12 | 自分史

★昭和44年(1969)、1960年代の最後の年なのだが、世の中もカワサキも大きな変動の時期だったと言えるのだろう。

もう忘れられた遠い昔の出来事になっているが、『東大紛争』があったのが68年から69年で、急進派学生が安田講堂を占拠し、警視庁機動隊の学内導入は、大学自治放棄であるとして紛争を全学に拡大させる結果となり、1969年(昭和44年度)の東大入試は中止となったりしたのである。

 

 

 

7月20日にはアポロ11号が、月面「静かの海」に軟着陸、アームストロングとオルドリンが、人類として初めて月面に降り立ったりして世界中がびっくりした年でもあった。

 

 

★そんなことに比べると大したことでもないのだが、カワサキにとっては大変化の 川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社合併 が4月1日を期して行われたのである。

 

    

 

 真ん中が砂野仁川重社長、左が四本潔川崎航空機社長である。

私が川崎航空機に入社した昭和32年当時は、砂野仁さんは川崎航空機の副社長で、四本潔さんは神戸製作所長で当時の明石工場の最高責任者だったのである。

この3社合併の際、カワサキの二輪事業、特に国内市場での累積赤字が合併の負担になったのは間違いないのだが、当時のアメリカ市場の好調がこの事業に希望を持たせることになったのである。そんなこともあって経営の負担になるであろう50cc分野からの撤退を決定し『中大型スポーツ車を中心とする』事業への転換が決められたのである。

そんな基本方針に基づいて、国内体制についても、従来の50~125ccの実用車を中心に数を売る展開からの転換が求められたのである。従来の九州や東北地方など地方を主力に展開していた実用車主体から、ようやく東京地区など、250A1・W1などを主体にしたスポーツ車販売を目指して、茂木所長が二輪専門店60店を集めた、日本で最初の『二輪専門店の販売網』を展開することになったりしたのである。

 

   

 

 

一方、アメリカ市場では、250A1サムライが好評で、当時のリーダー浜脇洋二さんが、二輪車に詳しいアメリカ人達を集めた『現地主義』を徹底して『カワサキ独特の体制』を敷いたことがアメリカ市場での『カワサキの成功』の原動力になったのである。

先発3社では、営業分野でも二輪のプロがいっぱいいたのだが、カワサキの場合はエンジンの専門家はいたのだが、二輪車の専門家も二輪事業の専門家もいなかくて、みんな手探り状態であったのである。

私自身の経験から言っても、国内の第1線で活動した人たちは、メイハツ・メグロの方たちだったし、アメリカ市場でも二輪に詳しいアメリカ人たちの力があって初めて『カワサキの二輪事業』は成功の道を歩んだのだと思っている。

当時はまだ、三菱重工業・富士重工業・ブリジストンなどの大企業が二輪業界にいたのだが、これら大企業はホンダ・スズキ・ヤマハの浜松勢の独特の営業展開に『ツイていけなくて』この業界から撤退していったとも言えるのである。

そんな中で、川崎航空機だけが二輪事業に残れたのは、誤解を恐れずに言うと『カワサキの場合は第1線営業』を『川崎航空機の人』ではなくて『メイハツ・メグロ、海外市場では現地の人たち』が第1線を担当してくれたからだと、私は思っているのである。

川崎航空機や川崎独自のメンバーが幾らかの経験を積んで、『第一線』で動き出したのは1970年代に入ってからなのである。

商品開発に関しても、優秀なアメリカ人が集まったカワサキは、アメリカ人の知恵が生かされたし、それが明石のエンジンのプロ集団の技術陣と相まって、独特の『カワサキ・ブランド』を創り上げたのである。

当時のアメリカ市場対策は、浜脇洋二さんが単に販売だけでなく、技術開発部門のR&D、ジェットスキーの生産のためにリンカーン工場の建設など、開発・生産・販売の他社に先駆けた大きな展開を試みたのである。

そんな展開がスムースに動いたのは3社合併後、川崎重工業社長になられた四本潔さんがアメリカ市場担当の濱脇洋二さんに対して、格別の信頼を寄せられていたからだということは間違いないのである。戦後の長い中断があって後、再出発した川崎航空機の社風には、白紙から新しいものを立ち上げていくという一種独特の『自由な気風』があって、それが現実にこのアメリカ市場での展開に生かされたのである。

 

★昭和44年(1969)は、カワサキの二輪事業にとっては大転換の年であった。

 

  

 

  そんなカワサキを象徴するマシンが マッハⅢで、この車が世に出たのがこの年なのである。

  カワサキブランドを強烈に印象付けたものはマッハⅢ  と Z1  900/750 の2機種がその代表格であろう

これらの機種の開発者たち、エンジン開発者は、2サイクルの松本博之、4サイクルの稲村暁一さん、そしてその開発責任者が、大槻幸雄さんなのである。

大槻さんとはレースでご一緒していたのだが、昭和42年(1967)から初めて市販車開発の担当をされて、その最初に出た車がこのマッハⅢであリ、その次に開発されたのがZ1なのである。

 

★国内の販売会社カワサキオートバイ販売も、4月の川重3社合併を前に3月1日付で、川崎航空機の取締役であった田中誠社長髙橋鐵郎直営部長の体制となるのである。

この新体制で、国内販社『カワ販』の基本方針も従来とは全く変わった方向への展開となるのである。

私自身は主力市場東北6県を担当する仙台事務所長ではあったが、前年までの『台数販売』主力から、一転『代理店経営の黒字化』最重点という方向展開がなされるのである。東北6県の各代理店は、台数販売では全国の最先端を走っていたのだが、当時の委託販売方式に加えて回収が長期手形という形態は、その資金繰りに悪影響を及ぼして、営業内では黒字なのに営業外損益で最終損益が赤字になるという傾向が一般的だったのである。

この年次からの田中社長の『損益重視』への方針転換から、私自身は初めてデーラー経営そのものについて、その経営改善が最重点の職務となり、各地代理店の経営再建の具体化に取り組んだことが、『経営とはいかなるものか』その中で『資金繰り』がどのような意味を持つのかを身をもって経験もしたし勉強もしたのである。

幾ら赤字でも資金手当が続けば倒産などにはならないのである。前年までに各代理店の経営が問題にならなかったのは、その程度の赤字から来る『資金不足』は川崎航空機が支援する限り表面化しないのである。当時の国鉄が幾ら赤字を垂れ流しても国が資金支援を続ける限りは『倒産しなかった』のと同じ理由からである。

3社合併でお荷物だった国内販売全体の経営立て直しを田中社長は目指されたのだと思うのである。田中社長は川崎航空機の資金・経理担当役員で大学の先輩でもあったことから、私には直接の厳しい指示の連続だったのだが、目の前に具体的に対策する幾つもの例題があって、学生時代勉強しなかった簿記やバランスシートもこの1年で何とか解るようになったりしたのである。

 

 

★そんな『代理店経営』の問題もあったのだが、台数処理能力は結構有していて、この年の1月には明石工場に在庫で残っていたC2SSの在庫処分を当時の業務部長中村治道さんに頼まれて、その対策からこの年はスタートしているのである。

 

   

 

 C2 SS とはこんな車で、モトクロスの盛んな東北では結構売れたのだが、明石工場には在庫が残っていて『これを東北で何とか売れないか』と仰るので、このような『セリアーニタイプのフロントフォークに改造してくれたら200台は引き受けましょう』ということにしたのである。

 

    

 

 このC2SSのレースマシン化も実はレース職場の松尾勇さんが仙台に来て、特別にやってくれたので、それが装着できることは解っていたので、1月末に明石工場に行って、中村さんと当時は生産工場におられた高橋さんに交渉したら『OK』が取れたのである。

そんなことで特別仕様の東北タイプのC2SSが200台造られたのだが、まずフロントフォークを外す作業からスタートしたので、明石工場では前代未聞のラインを逆に回すことになったらしいのである。

それはともかく、ご依頼の『200台』は特別仕様であったこともあってすぐ売れたのだが、中村さんが『もう200台』と仰るものだから、さらに200台もお受けして何とかしたのである。そうすると『あと200台ほどで、工場在庫は無くなるから』と言われて、とうとう計600台を引き受けたのだが、最後の200台は東北では捌ききれずに、各代理店の在庫になって大変だったのである。

ホントにごく最近の話だが、関東の方が『セリアーニタイプのC2SS』の話をされていたのだが、これは当時の東北でしか販売しなかったので、その在庫が関東に流れたのかも知れないのである。当時の東北6県は販売能力としては、これくらいの台数は何とかなるそれくらいの力は持っていたのである。

 

★この当時は、東北ではホントにモトクロスが盛んで各地でレースが行われたし、代理店の販売促進活動としてもレースが行われて明石の『ファクトリーチーム』のメンバーはしょっちゅう東北に来ていたのである。

山本隆、星野一義の全盛時で彼らもよく顔を出してくれたのだが、後レース界では超有名人になる人たちもやってきたのだが、当時は彼らも未だ無名の新人でしかなかったのである。

 

      

一番数多く来てくれていたのが、『従野孝司くん』まだモトクロスのノービスの頃である。

従野がモトクロスなどやっていたこともご存じないと思うのだが、彼は何度も来てくれて、地方のノービス相手に走るものだから、走るレースは、殆ど優勝して、3種目優勝など珍しくなかったのである。

 

 

               

 

加藤文博くんも、モトクロスから、トライアルさらに今はパラグライダーで有名だが、当時、安良岡健さんに頼まれて、彼のデビューは郡山のレースだったのである。 未だカワサキとは契約のない頃の話である。

右の写真は最近のものだが、師匠の山本隆くんがパラグライダーを乗りに行ったときのモノ、真ん中は『青木隆』さんではないかな???

 

        

 

 星野インパルズ の金子豊君、当時はまだ秋田にいて仙台事務所にはしょっちゅう遊びに来ていたのである。彼のパブリカスポーツで仙台から秋田まで走ったりした。彼はそれ以前、カワサキコンバットにいてライダーとしては芽が出なかったが、この時代の後関東に出て星野の妹さんと結婚して、インパルズをここまで大きくしたのである

右の写真は、東京で『二輪文化を伝える会』の第1回の会合にこんなメンバーで出席した後、星野にご馳走になった時、私がシャッターを切った写真である。

みんな仙台事務所時代、よく顔を合わせたメンバーである。金子のヨコは岡部能夫、カワサキコンバットの星野の先輩である。岡部と金子はこの日が最後になってしまった

もう50年も前の話なのだが、こんな人たちといまも昔と同じようにお付き合いできているのがいいなと思っている。

 

仙台時代いろいろあったのだが、昭和44年は東北3年目、私にとっても、カワサキにとっても結構大きく変わった転換期の年だったのである。

 

 

★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています

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