★昭和45年(1970) 70年代に入った1年目は、第3次佐藤内閣がスタートし、大阪万博が幕開けして、新しい70年代となったのだが、3月末には赤軍派の日航機乗っ取りという大事件があったりして、なかなか大変だったのである。
前年には東大紛争があったりして、若い人たちの思想が何故か『先鋭化』していた時代だったのである。
カワサキの二輪事業も、私自身もそんなことには一切関係なく、『新しい時代へ』と踏み出していっていた時代である。
KMCがスタートして3年目、マッハⅢをベースとしたレーサーがデイトナにデビューしたのが前年で、このレースに参加したKMC系カワサキ・ワークスが、チームカラーとして、はじめてグリーンを採用したのである。
私と同期の平井稔男さんのブログから、
赤タンクのカワサキから70年代に入って日本でも本格的な『ライムグリーン』の時代へと入っていくのである。
カワサキのレーシングチームがスタートしたのはモトクロスからだった。当時は2サイクルを持たなかったホンダはモトクロスには参加していなかったから、カワサキの赤タンクも何の問題もなかったのだが、その後ロードレースに進出してみて、初めてホンダが赤タンクなのに気が付いたのである。『これはちょっと・・・』と思っていたのだが、すぐにはどうしようもなくて、1966年、FISCOのGPに出場した時もカワサキは赤タンクだったのである。
アメリカで『ライムグリーン』を採用してくれて、内心ほっとしたのを覚えている。この『ライムグリーン』を誰が決めたのかなと思っていたのだが、ごく最近ZIの40周年に斎藤定一さんとアメリカでご一緒して、たまたまこの話になったのだが、当時KMCのR&Dを担当したばかりの斎藤定一さんたちが決めたという話を伺ったのである。
本来、コーポレートカラーなど本部が決めるものなのだが、国内で使った赤は当時の製造部が、このライムグリーンは出先のKMCで決めたなど、この辺りはいかにも当時のカワサキらしい奔放さなのである
★この年から『仙台事務所』も4年目となり、私自身は4月からは東北6県に加えて、北海道も担当することになったりしたのである。所謂、北日本ということでそうなったのだと思うが、4月に札幌・北見・釧路・帯広・旭川・函館を回ってみて、この広さではとても実際には担当できないなと思ってしまったのである。明石から見たら北海道は東北の隣だと思うのだろうが、明石―仙台が1000キロなのだが、仙台―札幌が同じく1000キロなのである。なぜこんなことが解るのかというと、当時の電話代は距離で値段が設定されていて、明石に電話するのと札幌に電話するのとが同じ料金だったのである。
前年度からカワサキオートバイ販売は、田中誠社長になり、台数よりはその経営内容の健全化が第一目標で、実質的には各代理店の『カワ販の子会社化』への方向が検討され始めたのである。北海道の各代理店は、代理店権を返上するか取引中止の方向だったのだが、東北は各県代理店の販売台数も国内最右翼だったので、青森・秋田・岩手・山形・宮城・福島の各県代理店をどのように対策するかを総合的に検討されたのである。代理店の社長も元々の地元の方たちが当たっていたので、その人事対策が『カワ販』としても一番ムツカシク大変だったのである。
この件については、田中誠社長が直接指揮をとられたので、4月から毎月、社長が東北に来られるか、私が明石に出張して直接その指示・対策などを具体的に受ける形になったのである。微妙な問題も多かったし、各代理店の従業員の方たちはカワ販籍になることには特に問題もなかったのだが、かってのオーナー社長の方々にとってはその想いはいろいろだったのである。加えて、私よりはずっと年配の方が多かったので、未だ30代の私としてはなかなか大変だったのである。
『経営は健全でなければならない』とはこの時本当に身に染みてそう思ったのである。経営の規模は小さくても健全経営をされていた半数以上の代理店は、それぞれ新しい道を歩かれたのだが、累損のある代理店は意志に反した方向に動くことも仕方がなかったのである。
★そんな代理店の経営対策とは別に『中・大型車のスポーツ車』への対応として、この年の1月から仙台事務所の敷地内に直営の『スポーツショップ』を開設すべく検討を開始し、新店舗を建設しその担当には宮城カワサキの工場長服部謙治くんを当て5月にオープンしたのである。
服部謙治くんは東北の「モトクロス・チャンピオン」でもあったことから、このショップには若い人たちが大勢集まって結構台数も捌けたのである。現在の『カワサキプラザ仙台』のある場所で、50年近くも前の話だが、本格的なチューニングショップなどの機能も備えて、多分今でも通用するような内容で、当時としては二輪業界の最先端を走っていたのである。
当時のMFJの東北担当だった佐藤さんを援けて宮城県の柴田郡村田町菅生に『仙台テクニカルランド』という大きなモトクロスコースを造ったりしたのだが、これなども服部謙治くんやそのグループがいろいろ関係してそのプロジェクトを手伝ったのである。この話は、あまリ知られてはいないが、このレース場は翌年、MFJ日本モトクロスGPの会場となり、その後『ヤマハ』さんが関わって、現在の スポーツランドSUGOに発展していくその前身なのである。
服部謙治くんは、その後独立して仙台に『服部カワサキショップ』を立ち上げて、長くカワサキに貢献してくれたのだが、彼が郷里の岩手に戻って販売店をやるというのを、無理矢理『仙台で』と引き留めたのだが、それがよかったのかどうか? 服部謙治くんにはいろいろお世話もしたし、お世話にもなったのである。
服部カワサキのホームページからの写真である。
4サイクルを触らせたら、抜群の技術を持っていたが、レース関係では山本隆くんや、松尾勇さんが服部くんには特別待遇で接していたのである。
★そんな想い出いっぱいの『仙台事務所』なのだが、この年の10月に東北6県の代理店を纏めて『協同組合化』するのだが、その事務局長を石塚鎰司さんに任して、私は大阪営業所に異動することになるのである。
実質、3年9か月の東北勤務だったが、代理店経営の色々も解ったし販売網の育成・管理など本当にいろんなことが学べたのだが、何よりも、当時の日本国内でダントツの販売台数を誇った『岩手カワサキの久保克夫社長』から学べたことは大きかった。
久保さんの口癖の『日本のチベットの岩手の田舎』でなぜこうも売れるのか? 販売網と一口に言っても、『岩手の販売店の久保さんに対する信頼感』みたいなものはまさに『別格』なのである。久保さんは運転免許をお持ちでないので、私が運転手で岩手の販売店の殆どを回ったのだが、その時の久保さんの対応を直に見せて頂いて学んだことは大きかった。久保さんは販売店を回っても『売って下さい』などとは一切言われないのだが、雑談をして回るだけで大丈夫なのである。『ベースに販売店を育てる』という想いがあれば、それでいいのだということを教えて頂いて、その後私も販売店に『売ってください』などとは絶対に口にしなかったのである。
二輪の販売店など一番売りたいのはセールスなどではなくて、販売店自身なのである。然し結構販売店にも悩みがあって『売らない』のではなくて『売れない』のも事実なのである。それを取り除く努力も要るのだし、それを『大きな仕組み』で解決する方向を教えてくれたのが久保さんだったのである。
ベースにお互いの『信頼感』がなければ、販売に限らず世の中のいろんな事柄も始まらないのである。東北で『出会った』いろんな人たちから頂いた『ご縁や経験』がその後の私の『生き方の原点』になっているのである。
★これは、全くの『私ごと』なのだが、この年は前述したように明石への出張も多かったのである。
当時の日本では、『土地を買い自分の家を建てるという時代』が始まりかけていて、たまたま6月に出張で明石に戻っていた時に、かって広告宣伝課当時に出入りしていた印刷屋の田中さんがダイワハウスのセールスに転職していて、『廣野にいい土地があるから買って下さい』と言うのである。ぜひ現地をと連れていかれて、未だ何もない広大な造成中の土地だったが、今の緑が丘なのである。総務課が『資金は幾らか貸す』などと言うし、田中さんは『家を建てるのはいつでもいい』という条件だったので。出張中に予約書にサインしたのである。
こんなことが素直に決められたのも、当時の仕事の判断は自分独りで決めるという習慣になっていたし、東北での人たちとのお付き合いから私の『性善説』がピークの時期で、人は『騙したりはしない』と思い込んでたからなのかも知れない。結果的には、三木緑が丘は私の一生で一番長く住んだ土地になっているので、その判断は『よかった』というべきなのかも知れない。
ただ、仙台から直接明石に戻ることはできずに、この年の10月には大阪営業所の勤務となって、高槻に居を構えることになるのである。そのテリトリーは大阪・奈良・和歌山・京都・滋賀の5県で、『大阪母店長』として大阪営業所長を兼務して私としては初めての『第1線営業』の経験となったのである。
★仙台事務所の土地も、『仙台事務所』を造るべく新しく購入したのだが、大阪営業所も大阪万博の年に土地を購入し新しく建てられたものである。
この土地の購入に当たっては、当時の高橋鐵郎直営部長と岩崎茂樹くんとのコンビで見つけてこの年の春に、新しく建てられたもので、そんな営業所に新しく赴任することになったのである。 仙台も大阪も50年経った今も『カワサキプラザ』として形を変えて存続しているのである。
この年の10月からは、大阪営業所長を兼務することになるのだが、大阪・京都・滋賀・奈良・和歌山の5県の営業所を統括する大阪母店長としての異動で、販売台数としては当時の東北6県の台数とは比較にならないくらい少なかったのだが、管轄する部下の数は飛躍的に増えたという新しい環境での第1線営業となるのである。
まず、大阪営業所員とのミーテングを連日行うとともに、大阪の販売店はできる限り訪問することから始めたのだが、当時の取引先は帳簿に載っているところは500店もあったりする今では考えられない状況だったのである。
この年の12月1日の日記に、こんなことを書いている。3ヶ月経って東北のことは殆ど頭から無くなっている。
ここに登場する『宮本くん』とは後、滋賀カワサキの宮本進くんだが、今でもお付き合いのある私の仲間の一人である。彼はなかなか自分の意見を確りと言える人で、当時は一番うるさいと言われていた船場モータースを担当していた。
彼が言う『会議が多すぎる』と言った真意は、セールス1日何時間以上外に出なければ、『その日の日当が出ない』という規定で、会議の時間が多いと日当が貰えなくなると言うのである。そんなことが解ったので、日当は外に出ても出なくても『月20間とする』という大阪独自の規定にしてすぐ対応したのである。部下との意志疎通がないと部下の管理など出来るはずがないし、部下がNOと言えないような関係では、『何もできない』と私は信じているのである。
ここにはこう書いているが、私の感覚としては昭和45年までは東北仙台だったという感覚なので、大阪での話は、次回からスタートすることにしたい。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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