★アメリカには現役時代から何十回も行っているし、世界の中でもアメリカのことは多く日本に伝わってくる。
然しアメリカの娘一家のところに1ヶ月も市民然として滞在してみると、解っていないことばかりである。
その中の一つに自治体と言うか『市と言う形態』が日本とは全然違うところがあってびっくりした。
市長選挙などない町もあるようだし、市長や議員の給料などめちゃくちゃ安いところもあるようだ。
日本に戻って『アメリカの自治体制度』と言う5万字近い文章を読んでみたが驚くことがいっぱいである。
そんな文章の中から、びっくりするような表現を選んでご紹介してみよう。
詳しく5万字の文章をお読みになりたい方は、こちらをどうぞ。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.html
アメリカでは自治体は市民がつくる。住民が住民投票で自治体をつくると決議してから初めて自治体ができる。
決議しなければ自治体はない。
だから、アメリカには自治体のない地域が面積の大半を占め、約1億人(総人口の38%)が自治体なしの生活をしている
自治体は極めて市民団体的である。例えば市長や市議は通常、ボランティアだ。カリフォルニア州の場合は州法で5万人以下の市なら月給400ドル以下、3万5000人以下なら月給300ドルなどの報酬額が定められている。
市議の数も通常5人から10人程度で少ない。夜開かれる市議会は住民集会のようなもので、市民が自由に参加できるのはもちろん、だれでも1議題につき1回まで発言さえできる。
カリフォルニアの人口は3400万人だが、その18%、600万人は自治体のない地域に住んでいる。 自治体に属さない理由には、大都市の政治に巻き込まれたくない、独自自治体をつくるには財政基盤が弱い、などいろいろあるが、行政からちょっかいを出されずきままなライフスタイルをとっていきたいというアメリカ人的な「開放感」の希求だった。
「市民の間には、市をつくるということに反発があった。市というのは地域住民から離れたものだという認識があったからだ。
日本には人口1000人を割る自治体はほとんどないが、アメリカの自治体の半数は1000人以下である。人口数十人、数人というところもまれではない。
1997年に合衆国には87,504の政府単位があった。
連邦政府と50の州政府に加えて、87,453の地方政府単位があった。アメリカの州は日本の県と異なり、極めて自立性が高い。州はそれぞれに憲法をもち、民法、刑法、商法など市民法諸法は基本的に州法である。アメリカの大統領はほとんどが州知事出身者である。州のトップは国の大臣よりはるかに地位が高い。
日本の教育基本法や学校教育法にあたるのはアメリカでは各州の州法である。したがって州により小学校が4年だったり5年だったり6年だったり、小学校に幼稚園が付いていたりいなかったり、高校が3年だったり4年だったり6年だったり、とばらばらである。
Stateを州と訳すのは実は意訳であり、Stateはもともと「国家」の意である。現在、ヨーロッパで国家の統合が進み、ヨーロッパ連合(Union of Europe)が生まれているが、アメリカ合諸国は200年以上前にこれに似た試みを行った。
市議会は住民集会
こうした議会での市民の自由な発言を「パブリック・コメント」という。現在、日本でも行政の個々の施策に意見書を提出する「パブリック・コメント制度」がはじまっているが、その語の起源はこうしたアメリカの市議会などで行われている市民の自由な発言だ。議会は通常、市民が来れる夜開かれ、紛糾する問題があれば市民発言が真夜中まで続く。市民運動にとっては絶好の動員の場だ。
市議はボランティア。
ちなみに、カリフォルニアの政府法では、市長・市議の給料を表1のように規定している。月数万円程度の名目的報酬である。これでは生活できないから、当然、市長・市議は基本的にボランティア活動である。昼は自分の仕事をもっており、夜になると市議会や各種会合に出てくる。市民集会型の市議会では市民も仕事の終わった夜でないと困るわけだが、市議にとってもそれは同じである。日本でボランティアというと、福祉ボランティアや災害ボランティアなどをイメージするが、アメリカのボランティアはまず市長、市議レベルからはじまっているということである。
★ ちょっとビックリするようなことばかりである。
これとは逆に、日本はまさにお役所社会である。
『アメリカの知恵や仕組み』を取り入れたりはするが、どうもお座なりである。『パブリック・コメント』は昨今日本の行政にも取り入れられはしたが、本来アメリカの市民の自由な発言とは知らなかった。
基本的に末端の市民を見ての発想ではなくて、あくまでも上から目線の『お役所的発想』だと思う。
今回、アメリカのあちこちを延べ3000キロほど走ったのだと思うが、日本と極端に違うのはガードレールと網や柵が殆どないということである。 それに比べて、日本はいたるところガードレールと、網や柵だらけである。
車社会はアメリカが先に進んでいて日本はそれを見習っているのかと思ったら、日本のガードレールは、全く日本的である。
一体誰を守っているのだろうか?
一般の市民? 道を通る人? ホントにそうかな?
万に一つ、事故が起こった場合の『お役人の言い訳・逃げ口上』のためではないのか?
或は『ガードレール業界からの圧力』と言う日本独特の業界優先の利権政治で、無駄な税金が使われているのでは?
アメリカは元来「自己責任」の強い社会だが、ガードレールなど無駄なものには税金は使わないという『市民の知恵』があるのだろう。
こんなに広いからガードレールなど不要なのかなとも思うが、
こんな山越えの道にもナイ。
ラグナビーチの人がたくさん歩く街の中にも見られない。
住宅街だが、車の通るすぐ横にも、ガードレールなど一切見られないのである。
こんな住宅街の中の池湖人工湖)にも、柵など一切見られない。
日本ももう少し、大人の判断が出来ないものか?
お役人が『自己保全』に走り過ぎるし、そのベースには『個人の主張』と言うか一般に『文句の言い過ぎ』があるのだろう。
お役人や、警察や、学校の先生は、本来もっと『強くていい』と私は思っている。ある意味弱すぎるのである。
それに比べて、アメリカの社会は、基本的に市民の主張が生きている『大人の社会』かなと思ったりしている。