雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

1957年(63年前)の1月19日

2022-01-19 06:58:55 | 自分史

★今から63年前の今日1957年の1月19日は、
 神戸国際会館でのダンスパーテイーの日だったのである。

 神戸商大硬式野球部主催で、当時私は神戸商大5回生だったが、
 チームの監督をやっていたのである。

 生涯いろいろなイベントに関わってきたのだが、
 それはいずれも派手に大規模に行うのが常だったが、
 このダンスパーテイー起案者も実質的なかじ取りも私で、
 人生で初めての大規模イベントの主催だったのだが、
 その結果大成功で、今でもよく覚えている出来事だったのである。

 
 そのパーテイー券がこちらである。
 1枚100円は当時の相場で、今でいえば1000円ほどにあたると思う。






 日記の1月19日のページに挟まれていて、
 表は結構かっこいい、こんなデザインなのである。

 



★ なぜこんなダンスパーテイーを主催することになったのか?

 当時の関西の大学リーグは、関西6大学西宮球場で、
 近畿6大学甲子園球場で行われていたのである。

 神戸商大は近畿6大学だったので、
 大学3回生まではリーグ戦は甲子園球場であり、
 そんなこともあって私が一番多くプレーした球場甲子園球場なのである。

 高校時代の夏の予選も甲子園球場だったし、
 当時正月に行われていた兵庫県のOB戦も甲子園だったから、
 いまと違って甲子園がそんなに特別な球場でもなかったのである。

 当時の神戸商大は結構強くて、リーグに近大がいて常に優勝していたのだが、
 神戸商大も近大に次いでリーグ2,3位の位置にいた時代である。

 ちょっと脱線するが、
 当時の阪神の2軍にはあの小山正明がいたのだが、
 彼は私と同じ年次で、兵庫県の高砂高校出身で、
 明石高とは同じ東播地区なので何回か対戦しているが、
 正直、そんなに印象には残っていないのである。

 当然明石が勝っていたし、印象に残るような投手ではなかったのだが、
 その小山は1953年に(私が大学1年の時)阪神に、
 契約金なしの月給5,000円打撃投手も兼ねたテスト生として入団していたのである。
 小山は阪神の野田球団オーナーの遠縁にあたることから、
 お情け採用だった可能性もあるとかの記事もあったのだが、
 当時は、あんな大投手になるとは夢にも思わなかったのである。
 

★ 私は大学では勉強はしなかったが、
 野球だけは一生懸命で3,4回生で主将を務め、 
 大学を1年延ばして5回生の時には監督をしていたのである。

 そんなこともあって、大学ではよく練習もしたのだが、
 バットやボール代や、明石球場の使用料などが嵩んで、
 運動具店などに結構大きな10万円ほどの借金が残っていたのである。

 10万円かと思われるかも知れぬが、
 当時の大学卒の初任給が1万円の時代だから、
 今でいうと100万円相当の額なのである。

 この借金を何とかしなければと思い立ったのがダンスパーテイーなのである。
 当時は大学主催のパーテイーも数多くあったが、
 それらは2~300名規模のものが普通で、
 そんな規模では10万円の借金などとても返せないのである。

 そんなことで起案したのが、普通のパーテイーの10倍ぐらいの規模
 2000名ぐらいの大規模なものを考えたのである。

 それは普通では無理なので
 その会場は、スタートしたばかりの「神戸国際会館の大ホール」とし、
 当初から部員全員で2000枚を売る目標を立てたのである。

 「神戸国際会館」は1956年に、進駐軍イーストキャンプ跡の遊休地に、
 当時最新鋭の設備をそなえたコンサートホールとして開館し、
 神戸国際会館大ホール、映画館、神戸国際ホテルなどでオープンしたばかりで、
 そのネームバリューだけでも非常に高かったのである。

   
      
     

 
 1995年の阪神・淡路大震災で全壊したので、
 現在はこんな形になっているが、
 旧・神戸国際会館もオープン当時は時代の最先端を行くものだったのである。

 

 

★そんなこともあって、2000枚のパーテイー券はほぼ売り切ったのだが、
 2000名も集めると、大ホールだけでは1坪20名にもなってしまうので、
 隣接する別のホールも借り増ししたりしたのである。

 日記のページにはこんな当日の「収支報告」もあったが、
 収入が204000円、 支出が 103000円
 見事目標通りの 10万円の利益となっているのである。
 


 

 
  そして、ここにあるように各運動具店などの借金
  何とか支払うことが出来て、
  無事、卒業することが出来たのである。


    



★ このことは、その後の私の人生にとって、
 「大きな自信」に繋がっているのである。

 「大きな目標」を達成するするためには、
 努力ももちろん大事なのだが、
 それ以上に、それを可能にする「仕組み」こそが、
 成功のMUST条件なのである。

 この時、新装なった「新神戸国際会館」という舞台がなかったら
 こんなことにはなっていないのである。
 あの時「新国際会館」がオープンしていなかったら、
 野球部の借金は、そのまま後輩たちに引き継いで卒業したかも知れないのである。
 そういう意味では「幸運に恵まれていた」と言っていい。

 
 いずれにしても、「よかったな」と思っている
 私にとってもこの経験が自信に繋がった大きな出来事」だったのである。
 
  
 
 




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