★今から63年前の今日、1957年の1月19日は、
神戸国際会館でのダンスパーテイーの日だったのである。
神戸商大硬式野球部主催で、当時私は神戸商大5回生だったが、
チームの監督をやっていたのである。
生涯いろいろなイベントに関わってきたのだが、
それはいずれも派手に大規模に行うのが常だったが、
このダンスパーテイーの起案者も実質的なかじ取りも私で、
人生で初めての大規模イベントの主催だったのだが、
その結果は大成功で、今でもよく覚えている出来事だったのである。
そのパーテイー券がこちらである。
1枚100円は当時の相場で、今でいえば1000円ほどにあたると思う。
日記の1月19日のページに挟まれていて、
表は結構かっこいい、こんなデザインなのである。
★ なぜこんなダンスパーテイーを主催することになったのか?
当時の関西の大学リーグは、関西6大学が西宮球場で、
近畿6大学は甲子園球場で行われていたのである。
神戸商大は近畿6大学だったので、
大学3回生まではリーグ戦は甲子園球場であり、
そんなこともあって私が一番多くプレーした球場は甲子園球場なのである。
高校時代の夏の予選も甲子園球場だったし、
当時正月に行われていた兵庫県のOB戦も甲子園だったから、
いまと違って甲子園がそんなに特別な球場でもなかったのである。
当時の神戸商大は結構強くて、リーグに近大がいて常に優勝していたのだが、
神戸商大も近大に次いでリーグ2,3位の位置にいた時代である。
ちょっと脱線するが、
当時の阪神の2軍にはあの小山正明がいたのだが、
彼は私と同じ年次で、兵庫県の高砂高校出身で、
明石高とは同じ東播地区なので何回か対戦しているが、
正直、そんなに印象には残っていないのである。
当然明石が勝っていたし、印象に残るような投手ではなかったのだが、
その小山は1953年に(私が大学1年の時)阪神に、
契約金なしの月給5,000円で打撃投手も兼ねたテスト生として入団していたのである。
小山は阪神の野田球団オーナーの遠縁にあたることから、
お情け採用だった可能性もあるとかの記事もあったのだが、
当時は、あんな大投手になるとは夢にも思わなかったのである。
★ 私は大学では勉強はしなかったが、
野球だけは一生懸命で3,4回生で主将を務め、
大学を1年延ばして5回生の時には監督をしていたのである。
そんなこともあって、大学ではよく練習もしたのだが、
バットやボール代や、明石球場の使用料などが嵩んで、
運動具店などに結構大きな10万円ほどの借金が残っていたのである。
10万円かと思われるかも知れぬが、
当時の大学卒の初任給が1万円の時代だから、
今でいうと100万円相当の額なのである。
この借金を何とかしなければと思い立ったのがダンスパーテイーなのである。
当時は大学主催のパーテイーも数多くあったが、
それらは2~300名規模のものが普通で、
そんな規模では10万円の借金などとても返せないのである。
そんなことで起案したのが、普通のパーテイーの10倍ぐらいの規模の
2000名ぐらいの大規模なものを考えたのである。
それは普通では無理なので
その会場は、スタートしたばかりの「神戸国際会館の大ホール」とし、
当初から部員全員で2000枚を売る目標を立てたのである。
「神戸国際会館」は1956年に、進駐軍イーストキャンプ跡の遊休地に、
当時最新鋭の設備をそなえたコンサートホールとして開館し、
神戸国際会館大ホール、映画館、神戸国際ホテルなどでオープンしたばかりで、
そのネームバリューだけでも非常に高かったのである。
1995年の阪神・淡路大震災で全壊したので、
現在はこんな形になっているが、
旧・神戸国際会館もオープン当時は時代の最先端を行くものだったのである。
★そんなこともあって、2000枚のパーテイー券はほぼ売り切ったのだが、
2000名も集めると、大ホールだけでは1坪20名にもなってしまうので、
隣接する別のホールも借り増ししたりしたのである。
日記のページにはこんな当日の「収支報告」もあったが、
収入が204000円、 支出が 103000円で
見事目標通りの 10万円の利益となっているのである。
そして、ここにあるように各運動具店などの借金を
何とか支払うことが出来て、
無事、卒業することが出来たのである。
★ このことは、その後の私の人生にとって、
「大きな自信」に繋がっているのである。
「大きな目標」を達成するするためには、
努力ももちろん大事なのだが、
それ以上に、それを可能にする「仕組み」こそが、
成功のMUST条件なのである。
この時、新装なった「新神戸国際会館」という舞台がなかったら
こんなことにはなっていないのである。
あの時「新国際会館」がオープンしていなかったら、
野球部の借金は、そのまま後輩たちに引き継いで卒業したかも知れないのである。
そういう意味では「幸運に恵まれていた」と言っていい。
いずれにしても、「よかったな」と思っている
私にとってもこの経験が自信に繋がった「大きな出来事」だったのである。