★ あの阪神大震災から27年、当時はまだ現役だった。
あれからもう27年にもなるのだ。
当日の地震のことはよく覚えている。
その日の日記にこのように書いている。
「6時少し前、大地震、約1分ほど。家が倒れるのか?これは凄い。
これは本当に地震なのか?地震とは別の何か別のものではないかと、
短い時間の間に思った。・・・」
などと書いている。
本当に何か爆発でも起こったのではないかと思ったのだが、
幸い三木は神戸の隣町なのだが、家の倒壊など被害は出なかった。
停電になってしまったので、何の情報も解らなかったのである。
家も大丈夫だったので、いつもと同じように犬の散歩をして、
出社している。
途中、信号が停電でついていなかったが、明石までの道はいつもと同じだった。
会社にも何人か出社していたが、情報は全く解らないままだった。
10時ごろ電気が通じて、テレビを観てびっくり仰天した。
神戸・西宮あたりの被害が凄まじい。
火災もひどい。
そんなことで、会社にいても仕方がないので、みんな帰宅させた。
人間、情報がないと、
あの大地震の日でもこんな普通の行動になってしまうのである。
朝、家を出る時に停電になてしまったので、
当時飼っていた「熱帯魚の水槽の温度」が下がったら湯を足してくれと
家内に頼んだりしたのだが、
テレビで大災害を知るまでは、それが私の一番の関心事だったのである。
★2日目も、3日目も会社に出ている。
神戸の被害が大変で、車も思うように走れない状況だったので、
県にオートバイの寄贈を申し入れたら
「申請書を書いてください」と仰るのである。
これにはびっくりして明石署の署長さんに電話して、
直接、30台のバイクをお渡ししたのである。
これは非常に役に立ったと喜んで頂いたのである。
日記を見ると、その後もずっと出社しているが、
阪神間の道路は大変で一般の車は市内に入れない状態が続いていたのだが、
バイクを寄付したお礼に、車の通行証を頂いたので重宝したのである。
2月に入って東京出張があったのだが、
伊丹空港まで行くのが大変で、タクシーで三田まで行き、
そこから伊丹まで電車に乗ったりしている。
新幹線も神戸ー明石間の陸橋が崩れて直通はなかった状態だった。
この時期、一般道は特に阪神簡に出るのはどこも大渋滞で、
兵庫県の車は黄色の信号でもどんどん交差点に入るようになってしまったのは、
この時からだと思っている。
★いろんなことで大変ではあったが、
いろんな人たちの助けあいもあって、
日本人の素晴らしさを感じたのもこの阪神大震災だったのである。
あれからもう27年も経ったのである。