★私は兵庫県明石で生まれたが、直ぐ朝鮮に渡ったようで、
人生で初めての記憶は朝鮮の太田市の川の中なのだが、
そこではそんな川の中で魚をとってたという記憶しかない。
小学校に入るちょっと前からは朝鮮京城、今のソウルに移った。
まだ朝鮮が日本だった頃で、日本人もいっぱいいたし、
小学校も中学校も日本人ばかりだったし、日本語ばかりだったから、
朝鮮にいたが朝鮮語は全く解っていない。
覚える必要が無くて、朝鮮の人たちも日本語を話していた。
★中学1年生の夏・8月が終戦だから、京城のことはよく覚えている。
その年の12月に日本に引き揚げてきたのだが、
ソウルオリンピックの時に韓国に行く機会があって
小学校やら元住んでいた家の写真など撮ってきた。
これが通っていた桜が丘国民学校で、
当時の内地の小学校は木造だったが、
立派な鉄筋コンクリートで、暖房にはスチームが設置されていた。
家は塀が変わっていたが、そのまま残っていたので懐かしく、
門の前で写真を撮ってきた。
城東区新堂町桜が丘という住所だった。
なぜソウルに行ったのかというと
ソウルオリンピックの時に開会式の当日漢江でジェットスキーのデモンストレーションをソウルオリンピック委員会から正式に依頼されて、
その団長として行ったときにかっての住所まで行ってきたのである。
戦前のソウルの町も結構ちゃんと覚えていて、
タクシーで行ったのだが、道も間違えることなくちゃんと行けたのである。
★いまのソウルは戦前の2倍以上に大きくなっている。
かっての京城時代は大体赤い線の中ぐらいが街だったと思う。
いまは漢江の南側も大都会になっているのだが、
戦前は漢江の南は野原だったし北側も山が多くて家などは建っていなかったが、
そこがみんな住宅街になっていてびっくりした。
かって住んでいたところと小学校である。
奨忠壇公園の池に冬はスケートに行ってたので、
そこから辿ったら直ぐ家は解ったのである。
かっての朝鮮総督府も
京城駅も
南大門も
そのまま残っていた。
戦前の市電は当時の神戸の市電より綺麗だったし、
三越デパートもあって結構な大都会だった。
戦争がひどくなる前の小学生の4年生ごろまでは
夏冬の休みには明石に帰省していたので、当時の日本も神戸の町なども知っているのだが、
内地の家はなぜこんなに小さいのかと思ったのを覚えている。
当時の京城は日本人が開拓して日本人街を造ったのだと思うが、
住んでいた桜が丘の家の一帯は東洋拓殖の社宅もあったが、
社宅と言っても300坪ぐらいはあったし、
周りの家もみんな300~500坪の土地の上に建っていた。
高級住宅地ではなく、中級住宅地だったと思うが、高級住宅地はもっと立派な家も建っていたように思う。
戦時中も空襲もなかったし、食糧事情もよくて、その点は内地と違って、平時と全く変わらない生活を送ってきたので、
戦争中の苦労などは全くなくて、小学生の5年生の頃から、
兵隊さんによる軍事訓練を受けたりしていた。
中学校の夏休み中の宿題が『軍人勅諭の暗唱』で、
「我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屢なりき・・」
これはまだ出だしの部分で延々と続くのだが、
ぼちぼち覚えねばと思っていたところに終戦だったので、
全く覚えていないのである。
★そんなこともあったが、終戦でそんな家もすべてそのままに日本に引き揚げてきたのだが、
そんな家や土地をどのようにして分配したのかな?
と今でも思うのである。
引き上げ時は、一人1000円の現金と持てる荷物だけだったから、
みんなそのまま現地に置いてきたのである。
私は中学生だったので大した苦労もなかったのだが、
両親は生活が様変わりでほんとに大変だったと思う。
そんなことなので、韓国は故郷のようなところがあって、
韓国がほかの国とが試合などすると、韓国を応援するようになっている。
いまは日韓関係がいいようなのでほっとしているのである。