★ 東北の仙台に住んだのは昭和42年(1967)1月から
昭和45年10月(1970)までの4年間で、
55年も前の話だが、まだ西暦は一般的ではなく昭和の年数で呼ばれていたころである。
カワサキの二輪車がまだ実用車の時代で、
東北6県が最大の市場であったし、各県には自前の代理店があって
そこからサブ店と称されていた主として自転車屋さんに
バイクを委託販売していた時代である。
その東北6県の代理店会から「仙台事務所を」という要望が出されて、
それに応えて『仙台事務所』を創るために私が指名されたのである。
会社からの指示も『仙台に事務所を創れ』という単純なもので
具体的には何も決まっていない状況だった。
事務所もないので、仙台の宮城カワサキの事務所に机を一つ置かして貰ってのスタートだったのである。
会社の事務所も兎も角、まずは住む家を探したのだが、
関西に比べたらべらぼうに安くて、庭付の1軒家に住むことが出来たのである。
結婚以来ずっとアパート暮らしだったが初めての1軒家だった。長男は幼稚園、長女はまだ小さかったそんな時期だった。
初めて自分で作った事務所で『事務所長』という肩書を頂いて、
当時の自前の代理店の社長さんから見ると、初めて直接関係するメーカーの人ということで、結構大事に扱って頂いたのである。
★いまの仙台市はこんなに発展しているが、
当時は今は4号線となっているが、当時は新しくできたバイパスで、
周囲は何もなかったところに土地を買ってカワサキの新事務所を創ったのだが、
水道も来ていなかったので井戸を掘って水を求めたのである。
仙台駅との間に我が家があったのだが、そのあたりまでようやく家が建ち始めた頃である。

家の東側はすべて田んぼか野原で、ドジョウがいっぱい取れたのを想い出す。
★仙台の街も今とは全く違うのだが、
東北6県も高速道路などどこにもなく、
峠道は殆どが未舗装の砂利道だった。
広さも仙台-盛岡や盛岡-青森が各200kmもあって、
関西でいうと明石から名古屋までの距離だから、ほんとに広大なのである。

そんな広大な東北6県にはこんなに多くの代理店やその拠点があって、
そんな店を車で訪問する生活だったので、
東北の道も、いろんなところもひょっとすると東北の人より詳しいかも知れない。
どこに行っても東北人の人情は素晴らしく、
そう言う意味でも、『人』を見直したし、
仙台に住んだのだが、『東北に住んだ』とも言える4年間だった。
子供たち二人もようやく幼稚園を卒業、入学という時代だった。
「ホヤ」や「いくら」はよく食ったが、この頃にもあたのかも知れぬが、
「牛タン」などは聞いたことも食ったこともなかった。

大体、肉屋で牛肉を売ってるところが少なくて
『すき焼き』と言えば豚だった時代である。
そんな初めて人生で経験するいろいろなことがあったし、
生まれ故郷の明石から初めて離れて住む仙台だったのだが、
いま思い返しても仙台にも東北6県にもいい想い出と好印象を持っている。