★ 昭和36年(1961)のほぼ1年間は、
学生時代から罹っていた肺結核の治療に
三田市の当時の川崎重工系の結核療養所であった大原療養所に入院していた期間なのである。
肺浸潤だと言われたのは大学2年の秋だったのだが、
別に痛くもない病気だし、自覚症状もないので、
大人しくしていたのは半年ぐらいで、それ以降は寝ることもなく、
野球も続けていたし、そのまま川崎航空機に入社していたのである。
入社してからは診療所の先生からは「野球はダメ」と言われていたが、
ユニフォーム姿を見つかって、「菌が出てる」から会社には置いておけないと入院させられてしまったのである。
もともと菌などは出ていなくて、診療所の先生の入院させる口実だったのだが、
結果的には非常によくて、空洞も消えてしまったし、
全快して、12月には新しくスタートしたカワサキの単車営業課に異動することになった年である。
★ 当時は肺結核は多くて川重関係3社の人達のために三田市大原に療養所があったのだが、
いまの地図には載っていないようである。
間違いなくこの立地で、ゴルフ場から左に折れて入った場所だった。
1年間の療養期間は、昼寝の時間はあるのだが、
自由時間もいっぱいあって、散歩勿論、近くの池では鯉や鮒が釣れたし、
秋にはこの辺り『まつたけ山』でマツタケは幾らでも採れたのでる。
昔の話で、今のような厳しい時代ではなかったから、
寮にはいつもマツタケがバケツ一杯ほどあって
見舞いに来た人に逆に差し上げたりしていたのである。
マツタケだけではなくて、確か今では違法の『カスミ網』で『ヒヨドリ』を採る人もいて、
私はもっぱら野池での釣り組だったのだが、
お陰様で一般の方が一生食う以上のマツタケも食ったし、
ヒヨドリのご馳走にも預かったのである。
★ 年齢は29歳の時だったのだが、
家内と恋愛中で、見舞いにも来てくれたし、
手紙もいっぱい貰ったのだが、こんなことがなければ手紙など貰う機会はなかったと思っている。
この年の12月10日に退院して、
約1年後、翌年の12月に結婚したのだが、
正直、あまり長くは生きられないなと思って、20歳の時に書き始めた日記だが、
90歳の今日まで無事生きられたのは、この1年で肺結核が全快したからだとも言えるだろう。
そう言う意味では、貴重な1年だったのである。
★NPO The Good Times のホ―ムページです。