雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

永田町の論理とは?国民目線とは?

2010-07-16 06:47:29 | カワサキ単車の昔話
★先日、二輪車業界の『ベタータイムス』が送られてきた。
森田伊活さんおひとりで発刊し続けられている業界誌だが、もう30年にもなるかなと思っている。

毎月1回の発刊だが362号になるので、ちょうど30年になる。
発刊当時、故小野寺さんのご紹介で、森田さんに初めてお会いした。それ以来のお付き合いである。

二輪車新聞の衛藤さんとはそれよりまだ旧く50年のお付き合いだが、
ベタータイムスも、二輪車新聞も、現役引退して15年以上も経っているのだが、いまだに我が家の送って頂いていて、
これで現在の二輪業界の動きが何となく解るのである。


★つい2、3日前、大阪の忍者の伊藤さんから、夜電話を頂いた。
例によって、飲み屋からである。
今回はカワサキの連中ではなくて、カワサキのお客さんと一緒で、
その方が私のブログの話をなさって、急に思いたっての電話だったようである。
そんな話から、『先日、ウナギを送ったけど、今度は水ナスの季節になったから、それを送る』などと言う話のあと、

『最近、二輪業界全然ダメですわ』という話になった。
でも、幾ら苦しくなっても、伊藤さんは生き抜いていくと思う。
そんな彼独特の柔軟性をもっている。どんな時代になっても大丈夫である。
気に入った個別の人たちとはお付き合いもするが、決して同業で群れたりはしないし、簡単にメーカーの言うことも聞かない。
決して、メーカにとってやり易い店ではないが、『いい店』であることに間違いない。


★業界が『厳しい』というのは、常に言われてこの50年続いてきた。
ベタータイムスの焦点の書き出しも、『厳しい市況が続くーー』から始まっている。

確かに、特定のメーカーの特定の機種が、右から左に売れて、業界、特に販売店が急成長した時代もあった。
それに比べたら、厳しいのかも知れぬが、
世の中は、どんどん変化をするのだから、時代にあった構造に改革もせずに、ただ『厳しい』と言っているのは、不思議である。
基本的に、メーカーも業界、流通機構も昔のままの構造で、『昔の夢』を追い続けているのが問題で、時代錯誤なのである。

★昭和45年(1970年)にカワサキが従来のモペットを売る自転車屋主体の『委託制度』から、
スポーツ車を売る『二輪専門店制度』に切り替えrて、現在の二輪販売網の基礎が造られた。
先頭を走ったのは身軽なカワサキだったが、それはもう40年も前の話なのである。

他の業界もどうなったのか?
米屋も、酒屋も、電機屋さんも、今はその面影も残していない。全く別の形態になっている。

特に、メーカーの関係する『新車販売』の形態が変わっていないのは、メーカーの時代を読む目に、『狂いがあった』のではなかろうか?
ひとり二輪業界だけが、何十年も同じ形態を引きずっていることが、むしろ滑稽なのである。

中古車の販売形態は、昔とは様変わりなのである。


★私が現役最後の20年前、
カワサキとしては、『末端ユーザーが求める二輪に関連する機能』に合った高度な専門機能を持った『ネットワーク構築』を目指した時期がある。

その時点ですでに、従来の販売網では、ユーザーが真に求めている多様かつ高度な機能に対応出来ていないと思っていた。
あの時点で、企図した『機能別ARK』が、そのコンセプト通りに推進されていたら今頃はまた変わった二輪業界になっていたかも知れない。

あの頃から、インターネットの世界が日本の流通業界を変えたのである。
その仕組みを、あえて使わぬ商品は骨董品の類かと思ったら、二輪の世界では、『中古車は使って、新車は使わぬ』というのだから、
これは不思議な流通形態と言わざるを得ない。
それを消費者が望んでいるのなら解るのだが、上からの押しつけなら、『永田町の論理』とよく似ている。

今、日本には、過去最高の350万台という登録車両がある。
バイクのユーザーはの年齢は上がって、いまさら暴走族などには決してならない、優良ユーザーである。
バイクは省資源、省エネの時代にあった商品である。
4輪でも大衆車がタイから輸入される時代である。

考えようだが、
今は二輪車業界にとって最高の追い風が吹いているとは、考えられないか?
単なるメーカーという機能から脱皮した『二輪の総合事業の展開』という総合戦略からの発想があれば、面白い事業展開が描けると思うのだが。

販売という最も今の時代に単純な機能を、わざわざ販売店という店を作って、それを通してしか売れないということ自体に、世の中の消費者とのずれがある。
それを望む消費者もいるが、そんな面倒なことは嫌いなユーザーもまたいるのである。
その対応は、メーカーの想いから決めるのではなくて、消費者の想いに如何に対応するのかという発想でなくてはならない。


★最初に、触れた業界誌紙も、ある意味護送船団方式が生み出したものである。

日本の国挙げて、真の意味での『消費者志向』『国民目線』になることが、求められている。
政治家やメーカーといった従来の構造の一番上にいた人たちの『発想の転換』が求められているのである。

政治の世界に、『永田町の論理からの脱皮』とか 『国民目線』とか言われているが、
政治の世界も、ほんとの構造改革 が求められているのである
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昔の父と今の父

2010-07-15 05:19:15 | 自分史
★私の父は、明治32年生まれ、昭和27年1月に52歳で亡くなった。
私が高校3年、大学受験をした年であった。

3年ほど、脊髄カリエスで寝ていたので、元気な父は私の中学3年生までである。
考えてみると、物心ついてから10年ちょっとぐらいが、父と接した期間である。

小学生のころは、
父と二人で話をしたりした記憶はほとんどない。
さらに言えば、父に遊んで貰った記憶なども皆無である。
小学校のころは、勉強は学校でだけ、夏休みなどは宿題があったが、普段は宿題などなかったように思う。
とにかく、学校から帰ると友達と毎日暗くなるまで外で遊んでいた。

遊ぶ相手は友達で、父に遊んでもらうなどは、思いもしなかったように思う。
父のそばにいなかったわけではない。
絵を描いてい父をずっと見ていたり、母方の祖父と碁を打っているのを横でじっと眺めていることは結構あったように思う。


★父と一番長く一緒にいたのは、京城から明石まで帰省する汽車や、船の中だった。

京城を昼に出て、夕方釜山。
船で夕食、翌朝、下関。
そして汽車に乗って夕方、明石という2日間の行程、帰りはその逆である。

6歳のころから、小学生の4年生ごろまで、夏冬、戻ってきていたから、ひょっとしたら父と対峙していたのはこの旅行中が、ほんとに一番長い時間であったかも知れない。
当時の汽車や船の等級は,1等、2等、3等の3段階に分かれていて、1等は汽車も船も5人ほどは十分には入れる個室であった。
汽車も最後尾が展望車になっていて、子供でも自由に行くことができたのだが、ここはホテルのロビーと同じ大人の世界であった。
旅行中父は『ちゃんとしていた』し、子供にも何となくちゃんとするように求めていたように思う。
何となく、それを感じ取って、子供ながら展望車などでは、行儀よく過ごしたような気がする。

口やかましく躾られたようなことはないが、俗に言う『父の背中を見て育った』のかも知れない。
外での父がどんなだったのかは知る由もないが、私の耳に入る父の評判は至極よかったので、知らず知らず尊敬していたのかと思う。


★そんな父だったが、私は父が好きだった。
自分が父の立場になって、息子とつきあった息子が小学生のころ、二人で魚釣りなどによく連れだ出したものである。
釣りもさることながら、道中、車の中での雑談は二人にとってよかったと思っている。

『男の子は、自分のことは自分で判断して決めろ』と言ったのが効きすぎて、
大学の進学も、
就職も
結婚も
特に結婚式は仲人もない人前結婚、9月28日は仏滅であった。結婚式場は借り切りの状態だった。
9月28日は息子の誕生日なのである。『結婚記念日を忘れたりしない』というのも理屈である。
これらすべて一切相談を受けることもなく、みんな決まってからの事後承諾であった。

父と私は、あまり話もしなかった関係であったが
私と息子とはその何百倍も話をしているが、もっぱらサッカーと釣りの話がほとんどで、学校の勉強の話など一切したことがない。

娘とは、子供のころは、私と私の父ほどの、話しかしていないように思う。
一度だけ話らしいことをしたとしたら、小学校の時のマラソンの走り方だけである。
娘は、マラソンに向いていたのかどうか、小学校からさらに中学の3年間、ずっとマラソンは優勝、トップを走りつづけた。
私は口だけで、マラソンは大の苦手なのに、不思議である。


★今、息子や娘婿の父親としての子供に対する接し方を見ていると、なかなか面白い。

息子の方は、子供は男の子一人なのだが、私のように連れ歩いたりはせずに、
自分の好きな釣りとサッカーに熱心で、あまり構ってやったりしていないようなのだが、
一人息子の孫は、私がほとんど遊んで貰えなかった父親をそれなりに意識したぐらいの関心は、持っているようである。

娘婿の方は、男の子3人兄弟で、女一人の娘が主人?のような家庭で、それはまた独特の雰囲気である。
アメリカで育っているからかも知れぬが、孫は子供のくせに親をちゃんと論評したりもする。
私などは、そんなことは子供のころは思わなかったし、仮に思ったりしても口に出したりはしなかった。


★父は、早く亡くなってしまったが、せめて私が成人するころまで、生きていてくれたら、それなりに、まともな話も出来たのにと、

私の人生に若し悔いがあるとすれば、『父と話が出来なかった』 その一点だけである。
でも、私は数少ない父との話を忠実に守っている。

戦後、中学1年生で引き揚げてきて、翌年神戸1中の1年に、なぜか無試験で入学できた。
『無試験で入っているのだから、勉強せえよ』と父が言ったので、
伯父や父の顔をつぶさぬようにと、本当にそう思って勉強した。
中学以降、勉強して成績がよかったのは、このときだけである。

『男は、うそついたらいかん』、これも何となくつぶやいたような言い方だったが、忘れず守っている。
伯父からは、士族の話や、家のことを散々聞かされた。
父は一言もそんなことをあからさまには言わなかったが、数少ない忠告だったので、よく覚えているのかもしれない。

★『私の父』、『父としての私』、そして『父親真っ盛りの息子や娘婿』。

みんなそれなりに、生き方はいろいろと違うが、同じ親子でも 『父と男の子』の関係は、独特で貴重である。
長く、話が出来ること、それ自体が幸せであると思う。
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新しいパソコンでの写真のテスト

2010-07-14 04:44:57 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
★新しいパソコンを買って、やっと1週間になる。

新しいセッテングや、旧いデーターの移動などもやっと終わった。
ブログの作成も、同じgooなのに微妙に違うし、リンクの仕方なども、同じではない。

やっと慣れたのだが、最後に写真の貼り付けが残っている。
カードからの取り込み方も以前と違って簡単なのだが、
一番解らなく不安なのは、『写真の縮小が要るのか要らないのか』である。

exciteの方は、excite独自の機能なのか?
それともパソコン自体にそういう機能が付いているのか?
『自動縮小』という表示が出て縮小していない写真でも貼り付けられたのである。

果たして、gooはどうなのか?



★雨の庭で、ラズベリーの実や、雨に濡れたバラの写真を撮ってきた。
その取り込みと保存までは、出来たはずである。

今から、写真の貼り付けをやってみたい。



★出来たように見えるが,できていないのである。
この写真は、以前のパソコンから移動してきたすでに縮小が出来ている写真なのである。

今、撮った写真の縮小の仕方が解らなくて、何度やっても、『そのサイズでは入りません』という表示が出てしまうのである。
縮小のソフトは、私のパソコンの先生のカバン屋さんに手伝ってもらって何とか貼り付けられたのだが、
どうもそのセッテングがおかしいようである。


何とか今からやってみたい。








★やはり、縮少のセッテングを以前の通りにしたら、何とかなった。
以前のパソコンに残っていた縮小ソフトのチェックのつけ方通りに修正をしてみた。
ちょっとしたことで、難しいものである。

さらに、『ベターバージョン』というのを見つけた。
このほうが、写真の貼り付けは簡単なはずである。

その方法でやってみたい。





★『ベターバージョン』に変更したら、それはやはり、ベターであった。
貼り付けも簡単だし、小さく表示も自由である。リンクの仕方も元に戻った。

同じgooなのに、なぜ『いなだ三郎さん』のようにいかないのかと思っていたが、
パソコンの機能が旧かったのか、腕が悪かったのか?
そんなことではなしに、ちゃんとした機能の選択が出来ていなかっただけのことである。


何はともあれ、写真の貼り付けが出来て、ほんとにひと安心である。
このブログに、2時間以上掛っている。 悪戦苦闘の結果なのである。

ほっとした。
『よくやった』と自分をほめてやりたい心境である。
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みんなの党の独り勝ちはーー

2010-07-13 05:22:20 | 政治
★今回の参議院選、一言でいえば、みんなの党の独り勝ち と言っていいだろう。

この記事にもあるように、

参院選初挑戦の「みんなの党」は改選ゼロ議席からの大躍進を果たした。
渡辺喜美代表にとっても「やはり改選議席ゼロからなので、私たちにとっても驚異です」というのは本音だろう。

“勝因”は無党派層の取り込みに成功したこと。

これは、間違いない。今回の選挙は、みんなどこに投票すべきか、迷ったはずである。
無党派層のほとんどは、昔は自民党だったのだろう。
前回の衆議院選挙で、郵政改革で小泉さんに投じた人たちが、民主党に鞍替えした。

民主党政権があまりにも頼りなかったように国民に目には映ったのだろう。
菅さんの登場で、その支持はV字回復をしたのに、今度の選挙では、民主党は自滅してしまったように思う。



★選挙戦は、戦いなのである。
戦う姿勢ができていないと、戦えないと思う。

今回の敗因に『消費税』があげられるが、必ずしも『消費税』が問題だったとは思わない。
『消費税を議論する』その姿勢がぶれてしまった。
選挙期間中なのだから、いろんな党が、反対論を言うのは、目に見えている。
『消費税を論じるコンセプト』がしっかりしていなくて、細部に入ってしまって弁解のような議論になってしまったのが、問題であった。
誰が何と言おうが、耳を貸さずに堂々と道の真ん中を大手を振って歩く、毅然とした態度が見えなかった。

伊丹空港の廃止など、びっくりするような発言をする、橋下さんが支持されるのは、論旨が一貫してぶれないからである。
まあ言えば、自信、迫力不足であったように思う。

『消費税論』は当初、世論も支持があったのに結果的には、敗因の一つになってしまったのは、菅さんの選挙戦略が間違っていたのと信念不足だったのだろう。
『消費税が両刃の剣』だということは、解りきった話なのに。

もう一つは、民主党が一つになっていなかった。
ワールドカップのフランスチームのように、戦う体制になっていなかったのではと思う。
民主党が二つあるような印象を受けた。
小沢陣営にとってみれば、こんな結果の方を歓迎していたのでは、と思えるような対応もあった。


★自民党は、今回は危機感があって、それは何となく伝わるものである。
『無党派層』は正直どうすればいいのか、迷ってしまったことだろう。

そんな中で、『みんなの党』が解りやすかったのだと思う。
少なくとも、論旨が明確でブレがない。

「本物の脱官僚」「消費税増税の前にやることがある」と民主党との対決姿勢を打ち出しているし、
民主党との連立は選挙戦中と変わらずに強く否定しているが、どこまでホンネかは解らぬが、発言が明確なのがいいように思うのである。


小泉さんも。大阪の橋下さんもそうだが、
政治家の発言は、その内容もさることながら、信念に基づいた迫力だと思う。











 
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参議院選挙とワールドカップ決勝戦

2010-07-12 04:41:18 | 発想$感想
★今日、日曜日参議院選挙の投票日である。

如何にも盛り上がりのない選挙になった。
何が争点なのか解らぬままに2週間ほどが過ぎてしまった。

確かに、大相撲の野球賭博問題などもあったが、ワールドカップの日本の健闘が、マスコミの話題を独占したのは事実である。
さらに今夜というか明朝は、スペインーオランダという新鮮な対戦である。
オランダは、日本と同じグループで戦ったチームで、
若しチャンピオンになったりしたら、それを相手に1-0は善戦健闘もいいところである。


★それにしても、参議院の選挙はなぜこうも関心が下がってしまったのだろう。

今朝、武雄の『タケタク』さんがツイッターで、

『選挙投票悩む。候補者を身近に感じない。政党には いろいろ注文もあるが・・なぜか興味が急速に薄れた。理由は 選挙民への迎合を感じるからか。やはり無視できないとは思うが・・政党の信念は?。 』

とあったので、私が「リツイート」したら、すぐ2人ほど追随された。
仰る通りだと思う。

『選挙民への迎合を感じるから』というのは 、誰もが感じる実感なのだろう。

政治家は、もっと信念を持って。『想い』を語って欲しい。


★そんなことを思っていたら、

昨日の私のブログ、『大阪都構想から思うこと』に、武雄市長の樋渡さんから、コメントをいただいた。

大阪の橋下さんとお会いになったようである。
樋渡さん独特のコメントだが、最後に、

『ほんと、勉強になりました。これを自分流に生かし変えたいと思います。』
と結んでおられる。あくまでも『自分流に』というところが、流石である。

中央を目指す政治家たちも、ぜひこんなスタンスであって欲しいものである。


★今夜は、それでも選挙開票の結果は見るだろう。

どんな結果になるのだろうというのは、間違いなく関心事である。
ただ、大筋の方向が出たら、多分寝てしまうだろう。

2時過ぎからは、決勝戦なのである。
好試合になるだろう、

その期待も、間違いなく大きいのである。

選挙も、ワールドカップも終わった。
梅雨が明けたら、それこそ真夏が待っている。
日本の政治は、今後どのように推移するのだろうか?


★一夜明けた。

参議院選は自民党が盛り返した。
サッカーは、0-0今後半が始まった。

どんなことになるのだろう
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大阪都構想から思うこと

2010-07-11 04:47:53 | 大阪維新の会、橋下徹氏
★橋下さんの大阪都構想について、大西宏さんがブログで書いておられます。
いろんな物事の発想は、既成概念に捉われない自由なものであるべきです。

現役のころ、世界のいろんな国を見た実感から言うと、
日本という国は、世界の中で見ると、非常に特殊な国だと思いました。

それなのに、常に日本人の発想は『自分たちの方からの発想、基準』からのものの見方で、
それに合わないと『おかしい』などと言ってしまいます。
本当は、日本がおかしいのではないかと、よく思ったものです。


大西宏さんのブログは、こんな指摘です

『大阪都構想』に関するものですが、その中から規模の部分を抜粋してみると。

『「大坂都構想」、橋下知事は、大阪市を吸収して行政の一本化を進め、大阪府を組み換え、アジアの経済の中心地にしたいという発想です。
もう一方の平松市長は、広域行政組織「関西広域連合(仮称)」に、政令市で初めて正式参加の意向です。

まず『大阪市』のGDPは22兆円。この22兆円はなんとフィンランドに匹敵する経済規模で、世界35位あたりです。

『大阪府』は、GDPが39兆円で、ベルギーについで世界21位です。

『近畿2府4県』で見ると、GDPは82兆円で、なんと韓国を抜き、世界13位です。

それだけの規模の経済をもった地域が、お上の意向でしか動けない、経済や政治で独自性が持てないというのも不思議なことだと感じます。
ひとつの国に匹敵し、十分に世界のなかで競争できるだけの規模があるのですが、実際には、情報発信機能も弱く、また産業転換が進まなかったこともあり、元気がありません。』


★大阪は、本社がみんな東京に移ってしまってダメだとか、
地方では、地方の過疎化が、当然のように言われますが、基準としている東京や都会の過密のほうが異常なのだと思います。

過疎だと思っている四国でも、世界の基準からみると『過疎』などとは決して言えないはずだと思います。

橋下さんの言うように、
地方の各自治体が、もっと独自性を持った展開をすれば、おのずから、その道は開けるのではないか?

そんな気がします。
そういう意味で、大阪の橋下さんや、佐賀県武雄市の樋渡さんなどは、
発想が自由で、日本ではユニークで面白いと思っています。


★戦後の焼け野原から、世界でアメリカに次ぐ経済大国にまでなった日本ですが、
そのベースになった『護送船団方式』などの基本システムが、旧く機能しないものになってしまいました。

その時点では、戦後という特殊な環境でしたから、特殊なシステムが機能したのだと思います。
世界のレベル以上になった現在、日本人はもう少し世界の基準で物事を考えることが必要かなと思います。

多いとか、少ないとかすぐ数などでの比較に走ってしまう単純発想から、
もっと質的な豊かさや、独自の目標に向かって進む『生きがい』など、
より高度な目標を持つべきなのでしょう。

物事の発想も、日本独特のものだけではなしに、世界基準での発想をすべき時代になっているのだと思います。




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昔々の京城(ソウル)のこと

2010-07-10 04:42:28 | 自分史
★60年以上も前の話、その頃、韓国は日本であった。
ソウルは京城と呼ばれていた。そんな京畿道京城府で5歳から13歳までの8年間を過ごした。。
私にとって、今のソウルは故郷のような懐かしい地なのである。

川重で二輪の仕事をしていたので、世界各国どこにでも日本の二輪車が生産される国には、いろいろと行く機会もあったのだが、私が一番行ってみたい国、韓国は、日本製バイクとは関係が薄くて、どうしても行く機会がなかったのである。

それが思わぬことで、韓国それもソウルに招待されることになったのである。
1988年9月、ソウルオリンピック委員会から、開会式の当日ハンガン(漢江)でのジェットスキーのデモンストレーションを依頼され、世界各国からトップライダーを集めたグルーpの団長として40年ぶりにソウルを訪れたのである。
戦後40数年たって、京城のまちは一変していたが、私が通った小学校も、そこから辿って見つけた私が住んでいた家も残っていた。

このときの話は、ちょっとジェットスキー話で触れているが、、
また別の機会にゆずることにしよう。


★中学校の1年までいたので、昔のソウルのことは、ほぼ正確に覚えている。
小学校は当時は国民学校と呼ばれていて、小学生といえども、あまり子供扱いせずに厳しい教育がなされていた。

当時の人口がどれくらいであったのか?
いわゆる日本人がどのくらいいたのか、その辺はよくわからぬが、各地区にちゃんと日本人だけの国民学校があって、韓国の人たちは別に小学校があったのだが、多分日本語での教育であったのかどうか?
とにかく、私たちは朝鮮語を使う機会は皆無であったし、その必要もなかったのである。
だから、韓国語は全然話せないし片言の単語もあまり知らない。
1から10までが言えるぐらいである。


★京城のまちは、ハンガン(漢江)から北側だけで、面積で言えば現在よりはずっと小さいのだが、街のつくりは当時の内地、例えば神戸に比べても見劣りするどころか、むしろ立派であった。
当時の神戸の市電は日本一という評価であったが、京城の市電のほうが立派だなと、思っていた。

市電はともかく、住宅は数段立派であった。
私は、記憶が正しければ、
京城府城東区新堂町桜ケ丘340番地に住み、桜ケ丘国民学校の通っていたのだが、
そのあたりの住宅は、みんな何百坪単位で、内地のように隣の人床几に座って話をするなどの風景、絶対になかったのである。

戦後何年かして日本各地に始まった住宅のための造成工事が、多分そのころからすでに行われたのだと思う。ちゃんと四角に区画整理がされていた。
ただ、すべてがそうではなしに、より古いまちはもう少し雑然とはしていたが、全般にいわゆる日本人の住む町は立派な作りだったと思う。

対照的に昔からの人たちの街は、小さく雑然としていてこのあたりのことが、日本の植民地政策として非難される原因の一つかも知れない。


★今のソウルでも一番の繁華街だとは思うが、ソウルの駅の南の龍山と言われた地域から南大門や南山の麓あたりさらに東へ伸びたあたりに日本人は多く住んでいて、
昔鐘路と言われていた地域は、朝鮮の人たちの街だったと思う。

そんなことで、自然に住み分けていたし、今のような韓国の焼き肉などあまり口にしたことはなかった。子供のころからよく食べた韓国特有の食材としては『キムチ』と『めんたい』今のたらこぐらいだろう。
とくに『キムチ』は、専門の人がいて、冬幾つもの甕に漬けて貰ったものである。

冬は、やはり寒かった。札幌と比べてどうだろう。温度はひょっとするとソウルのほうが、低いのかも知れない。

戦時中ではあったが、戦争をしているという実感はなかった。
空襲も何度もあったが、爆弾や焼夷弾など落とすことはなく、空襲警報が出ると帰宅できたので、なんとなく歓迎ムードであった。


★機会があれば、もう一度訪れてみたいと思っている。
戦後、桜ケ丘小学校の同窓会が各学年ごとに、組織されていて、年に1回ぐらいの会合をあちこちでやっていたのだが、最近はだんだん生存者が減るものだから、小学校で一つの同窓会に変わっている。
最近は、出席したことはないが、案内だけは毎回頂いている。

学校がなくなってしまっているので、いつかは消滅する運命にある同窓会である。
海兵や、陸士の同窓会があるとすれば、同じ運命なのだろう。


いろいろと、個人的な思い出も多い京城だが、その環境はこんな時代背景がベースであった。

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鉄人28号前 と ツイッター

2010-07-09 04:50:59 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
★ツイッターには、人の面白いつぶやきを『リツイート』するという口コミのような機能がある。

昨日だったか、bunCさん、ツイッターのハンドルネームはfchoziさんが、
「次は〜鉄人28号前」神戸市営地下鉄、駅改名 http://www.asahi.com/national/update/0706/OSK201007060005.html とつぶやいた。

朝日新聞のこんな記事がベースである

従来は『新長田』であったものが、
『新長田、鉄人28号前』ということになるというのである。

私が『リツイート』したら、あちこちの方が14人もさらに『リツイート』して、どんどん広がっているのである。

ツイッターのなかに、『あなたと14人がリツイート 』という表示が現れたりするのである。




★こんな情報が、これだけ口コミのように流されて、一体何人の人たちに情報発信されたと思われますか?

暇にまかせて14人のフォロワーの数を数えてみたら、3718人であった。これでも結構な数である。
それに、私のフォロワーの数を合わせると、ほぼ4万人に近くなる。

私のツイッターは、NPO The Good Times の『公式ツイッター』の位置付だから、面倒だが単純作業を毎日続けて、今35000人レベルになった。

情報発信力としては、相当のレベルである。


★情報発信する内容や、『リツイート』する基準は、基本的にはNPOの会員さんの発信する情報ということにしている。

NPOとは文字通り非営利活動法人で、営利活動は許されていないが、会員さんが営利活動をするのは自由である。そんな会員さんにとって、4万~5万という数を持つことは、可能ではあるがなかなか現実には難しい。
どうなるか、まだはっきりとはわからぬが、会員各位共通の大きな資産になるのではと思っている。
 
『鉄人28号前』のこのつぶやきは、NPOのネット関連のアドバイザーをしてくれている。bunCさんのつぶやきである。

NPOの会員さんのブログのシステムや
三木おもろいわは、彼とさるとるさんのの労作である。

そして、『鉄人28号』を作った北海製作所は、NPOの団体会員で、
同じく団体会員である、潮流、海流発電のノヴァエネルギーの協力企業でもある。

NPO The Good Times は、自らは何もしないが、会員さんの積極的な活動には、その仕組みで支援するシステムそのものなのである。
一度作ってしまえば、月々の経費は、発生しない。
だから、のんびりとやりたいことをやっている。

多分、半年後さらにどんな形になっているだろうか?
いずれにしても、ツイッターは、大きな核になるであろうことは間違いない。
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新しいパソコン

2010-07-08 05:17:37 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
★昨日、新しいパソコンを買ってきた。
今日の夕方、アメリカから娘と孫たちがやってくる。

それでなくても、ツイッターでパソコンに向かう時間が多くなっているので、それを貸したりしていたら、とてもこちらの生活のペースが狂ってしまうのである。
そんなことで、突如思い立っての衝動買いである。

10万ちょっと出したら、いい加減のがあるだろうと、店に行って商品を眺めてみた。
店で比較してみると、やはりいいものはいい。当然のことである。
その中に、展示品で現物に限り25万円を19万円ぐらいにすると言う。
さらに、この商品なら立ち上がりの初期設定を店側でやってくれるという。

それが気に入った。初期設定はできないことはないが、面倒である。
今まで、いろんなもの買っているのだから、気持ちだけでももう少し「まけろ」と言ったらもう1万円引くというので、その場で決めてきた。


★そのパソコンを今朝受取ってきた。
開梱するといろいろ出てくる。新しいものは何となく不安いっぱいである。
ただ、最近のお客様相談室は、すばらしい。
私のようなのが、初歩的なことを聞いても、丁寧に対応してくれる。

初期設定はしてもらっていたので、インターネットはすぐ繋がったのだが、
niftyのメールが新しいシステムに適応しなくて、初期に設定した受信サーバー名が必要だと言われて、悶絶してしまった。そんなもの解るわけないのである。

ところが、niftyに電話してみると、そんなのは全部niftyのこの窓口で対応できますと、完全に教えてくれて、メールもクリアである。
あと、今旧いパソコンに残っている写真などのデーターの移転をやれば、ほぼOKである。

それは、明日の楽しみにして、今このブログは新しいパソコンで打っている。


★私は、自分でいつも運がいいと信じて疑わないのだが、
今回も、衝動買いをしたこのパソコン、『ホリエモンからのボーナス』のような形になったのである。

私は、株など買ったことはないのだが、
ホリエモンが好きだったのと、そのころちょっとだけ株というより『ネットでの株取り引き』というのに興味があって、ほんの3カ月ほど株をやったことがある。
もちろんライブドア証券である。

たまたま『ライブドア』の株を買ったら、どんどん上がるので7千株まで買い足した。
びっくりするほど『儲かった』と思っていたら、あの騒ぎで、『あれあれ』と思っているうちに、ただ同然になってしまった。

仕方がないので、記念にそのまま置いてある。
もうゼロになっていると思っていたら、昨年だったが10万円ほど、何かで金を送ってきた。

ごく最近また、封筒が来て、開けずに放っておいたのだが、開けてみたら『株式配当』とある。17500円かと思ったら、175000円である。
何かよく解らぬが、郵便局に行ったら間違いなく現金に換えてくれた。

ちょうど、衝動買いしたパソコンをホリエモンに買って貰った心境である。
まあ、捨ててしまったと思っている株だから、トータルで儲かったりは決してしてはいないのだが、
ご破算で願いましては、175000円の大儲けである。

これ、9月にも、来年度もこんな配当してくれるのだろうか?
期待せずに待つことにする。

とにかく、パソコンはタダで買えた心境なのである。

















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てるてる坊主傘絵の七夕展in 伽耶院

2010-07-07 05:03:54 | みっきぃふるさとふれあい公園

★”てるてる坊主傘絵の七夕展in 伽耶院”

紫陽花の花咲く山寺に傘絵の花とてるてる坊主、7月と言えば七夕飾り。
てるてる坊主と傘絵で飾る一風変わった七夕飾り。
というコピーのチラシお手製である。

舞台は、三木の名刹 伽耶院 だが、
●緑ヶ丘で小学生の絵画教室を開いている『かよちん先生』指導
●吉川、上の丸、志染、別所保育所のこどもたち協力
●企画、推進はさるとる君と観光協会ODAくんたち。
●広報は、ブログdeみっきぃも  三木おもろいわ も その他大勢




★ほとんどお金も掛からない。みんなボランテイアである。
この傘みんな放っておけば、焼却場行きの運命であったのだが、こんな形で生き返った。

先月の舞台は吉川のよかたんだったのだが、好評につき舞台を移して7月19日まで。
これで上の丸や志染の子供たちも、見ることが出来るだろう。

場所を快く提供くださった、岡本住職に感謝である。
その岡本住職と傘絵のてるてる坊主を撮影中の記者さん。



★ここに登場するメンバーたち、何となく繋がっている。
今回は、伽耶院も、岡本住職もNPO The Good Times に参加していただいたので、みんな会員さんである。

今朝の朝刊には、多分記事も載っているだろうから、
『ツイッター』で全国に向けて広報したい。

さらに、直ぐ近くに来たので、緑ヶ丘の子ども会育成会とも繋ぎたい。

関西の皆さん、ぜひ
”てるてる坊主傘絵の七夕展in 伽耶院” 三木にいらしてみてください。
直ぐ近くに、クリーンピア三木、も防災総合公園も、ビーンズドームもありますよ。



伽耶院、こんなに綺麗なお寺です。


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潮流発電と伽耶院

2010-07-06 05:04:28 | NPO The Good Times
★昨日の夕方、
読売テレビとABCテレビで 『潮流発電の淡路の現場での開発実験開始』の状況が、相次いで放映された。

読売は観れなかったが、ABCの『ニュースゆう+』はたまたま観ることが出来た。
「育波漁港」での組み立て状況から始まって
途中の漁港での回転実験、一次的な不具合、
育波から岩屋までの曳航状況
岩屋での潮流による『まぐろタービン』の回転まで、
何日にも亘っての現地取材の状況放映だったので、非常に良く纏まっていたと思う。

★昨年6月、ノヴァエネルギーは、NPO The Good Times の立ち上がりと同時に団体会員企業として参加されたので、この1年間、ずっと応援体制を取ってきた。

韓国から引き継いで、日本国内での開発実験を開始するに当たり、
こんなに多くのテレビ各社が競って報道番組で『潮流発電』を取り上げてくれたことは、非常に有難かった。
ノヴァエネルギーとしても、協力各企業の大いにやる気になったと思う。
4月からは、環境省の地球温暖化対策事業にも認可されているので、
今後さらに一層の支援体制が国のレベルや大企業の間に広がることを期待したいものである。



★ノヴァエネルギーが三木の企業であることもあって、
NPO The Good Times としては、特に広報分野については全力投球で支援してきた。
今回のテレビ取材も一切当方からのお願いではなく、テレビ各社の自主取材である。これは、、ある意味1年間の広報戦略の成功とも言えるだろう。

●昨年6月以来のブログでの『潮流、海流発電』の継続広報
●1月には新しくカタログならびにホームページでのイメージ統一
●ロゴマークの策定と、『まぐろタービン』というネーミングの設定
●2月からは、japannovaenergyの公式ツイッターでの情報発信
●5月からは、NPO The Good Times が公式ツイッターを引き継ぎ、現在32000人のフォロワー、一定の『情報発信力』を持つレベル


★NPO法人 The Good Times としても、7月から新たに2年目に入ろうとしている。
『ツイッター』と言う強力な武器が現れて、2年目の目標を 『小さなメデイァの実現』 とした。
情報発信先として、夏場に5万人、年末7万人、年が変わると10万人を目標にたい。
10万人になると『小さなメデイァ』と言ってもいいと思う。



★そんな状況の中で、
昨日、三木の名刹『伽耶院』が、NPOの団体会員に参加して頂いた。
岡本住職とNPOのコンセプトなどお話していたら、突然、『入会する』と仰って入会金1万円を頂いてきたのである。

昨日から『てるてる坊主傘絵の七夕展 in 伽耶院 』が、7月19日まで、
よかたん での好評を引き継いで、開催されるのである。
会員のかよちんさんやさるとるくんなどが、準備に来ていたので、顔を出したついでに、ご挨拶代わりに、お話していたら思わぬことになったのである。

『伽耶院を舞台』にした三木のイベントは、四季を通じて行われるが、今年は特に素晴らしい。

潮流発電と伽耶院。
まさに三木を代表する、『新旧の異種、異質のトップレベル』の団体会員さんの参加で、NPO The Good Times のイメージの高質化はまた一歩前進した。

私にとって、非常に、嬉しい1日であった。

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Uパック遅延ーさくらんぼー豆台風ーパソコン

2010-07-05 04:42:51 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★昨日の朝日の朝刊、
『Uパック遅延』と一面トップに大きな記事
読んでみたが、確かに遅れたのは問題だがなぜ一面のトップ記事なのか、
もう1つ解らぬまま、見過ごしていた。



そんなところへ、Uパックで、こんなさくらんぼが届いた。
そんなことでこの新聞記事もう一度読み直してみたが、さくらんぼの配達が遅れたのかどうかは解らない。
写真の通り、無事到着である。


★仙台の服部謙治くんからである。

服部謙治』で検索したら、私の名前も出てくるこんなサイトがあったので
ご覧ください。こんな時代のことです。

もう40年以上も前のお付き合いで、
彼がまだ宮城カワサキの工場長のころ、それこそモトクロスに熱中していて、
当時はファクトリーに顔も効いたので、いろいろと面倒は見たのだが、40年経った今も東北のお米やさくらんぼを毎年送ってくれるのである。

大阪の忍者の伊藤さんは、いつも水ナスやうなぎを送ってくれる。
礼状で『美味かった』などと書くと、また送ってくれたりする。
バイク屋さんなどとのお付き合いは結構長く続いているのがいい。
別に今なんのお役にも立っていないのに、恐縮なのである。

こんなに丁寧にしてくれるところは、ほかにもあるのだが、
私からは、どこにもお返しの1つもしていない。
そんなことをすると折角のご好意を無にするような気がするのである。
みんな、ビックリするほど立派になっているのだから、ご好意は素直に受けるほうがいい。
私の勝手な理屈である。

★今週の8日に、アメリカから娘と孫の内、下の二人が夏休みで戻ってくる。
さくらんぼには注意書きが付いていて、
『出来るだけ早くお召し上がりください』とわざわざ書いてある。

家内が先ず思ったのは『孫が来るまで置いて置けないか?』と言うことだろう。
残念ながら、どうも不可能のようである。
肉などの冷凍できるものだったら、それは間違いなく『冷凍庫行き』なのである。

週末からは、そんなことでいつもは静かな我が家に、アメリカから『豆台風』がやってくる。
こちらはまだ学校が休みでないので、それまでは日本の学校は頼めば受け入れてくれるのである。
三木ではなくて、以前いた西神の学校だから、クルマで送り迎えが必要なのである。

★急に思い立って、パソコンをもう1台新しく買うことにした。
突如、今朝思い立って午後、店で決めてきた。
『衝動買い』 もいいところである。

最近は、ツイッターで、忙しい。パソコンの前に座っている時間も倍増である。
昨年から、娘もアメリカでブログをやりかけた。
これが結構熱心に毎日続いているのである

日本に戻ってきている間、どうするのか聞いてはいないが、『パソコンを貸せ』と言われたら、ちょっと困るのである。

ただ、新しいパソコンにすると、データーの移動や、立ち上がりのセッテングが、ややこしいしどうするかなと思っていたが、
店に行って聞いてみると、
展示品の現物なら24万円を19万にするという。機能が立派過ぎると思ったが、『この商品なら立ち上がり時のセッテングを店でやってくれる』という。
その一言で、買うことに決めた。
いつもいろいろ買っているのだから、もう少し負けろと言ったら、最近はホントに記録は直ぐわかるのである。もう1万円負けてくれたりした。

今日は、金を持っていなかったので、水曜日に取りに行くことにした。
さくらんぼから、パソコンに繋がった。

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終日雨の日の雑感

2010-07-04 05:06:18 | 発想$感想
★今年の梅雨は本当によく降る。
雨が降ると各地で災害、山の横ではがけ崩れ、下流の平野では洪水、
そんな地形の日本ではどうしようもないのだろうか。

対策と言っても限度があるのだろう。
治水は、昔からの大きな課題であった。
そんながけ崩れや水害をテレビなどで観ると、どうしようもないような気がする。

大雨や長雨で地盤は緩むし、低地で水があふれると、気をつけろと言われても、どうしようもないのかも知れない。
泥水や水は、あふれると低いところへ一気に流れる。
大丈夫な場所に移住するしかないのだろう。

幸いにして、雨だけはどんなに降っても水害などは心配のないなだらかな町に住んでいる。少々降っても、水は低いところに流れるし、がけ崩れも心配はない。
ちょっとでも不安のある方は、こんなに降るとさぞご心配なことだろう。

★こんなに雨が降ったら、選挙を戦っている人はどうしているのだろう。
このあたりは終日マイクの音などを聞こえない。
聞こえるのはただ、雨音ばかりである。

そんな土曜日、大阪の橋下さんに関連のあるニュースが二つ、
直接関係はないが、大阪の府と市の統合話、大阪維新の会などの発足もあって横で見ている限りオモシロい。維新の会のメンバーが自民党と言うのは、ちょっとイメージが違うような気もするが、中央と地方では自民党のイメージも違うのだろうか?

箕面の議会の伊丹空港廃止に賛成なのは、
空港廃止に賛成なのではなくて、大阪からの地下鉄箕面までの延長に賛成と言うのがホンネなのだと思うが?

★ワールドカップも終盤、
オランダーブラジルその試合の笛を吹いたのは日本。
使った言葉は何語?と娘のツイッター
西村主審の笛を独テレビが絶賛とか。 ホントに良かったのか、ブラジルが負けたから良かったのか?

結果は2-1でオランダ。点差だけで判断すると、日本もブラジル並み?
サッカーは難しい。いろいろやり方に意見があるようだ。
Yahooの意識調査、『次期監督はとにかく外人監督がいい』が多数。

ところで、オリンピックのサッカーチームの監督は外人でもいいのだろうか?
クラブチームの選手権ならともかく、ワールドカップの監督は、その国の人にしたほうがなじめるような気もするが、今のところ少数意見か?


雨が降って、庭にも出れず、終日家の中、こんなことを考えていた。

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昔々の明石のこと

2010-07-03 05:03:25 | 自分史
★小学校に入る以前、6,7歳の頃だと思うが、既に大田から京城に移っていたのだが、
小学校に入る前に印象に残っているのは、京城のことよりはむしろ、その頃の内地(日本)に帰省していた明石や岡山のことである。

岡山には同じ年頃の従兄弟がいたし、
明石では子供のいなかった伯父、伯母が孫を扱うように可愛がってくれたのである。

★その頃の、本籍は明石市細工町20番地であった。
番地までは確かではないが、細工町までは間違いない。
電話番号は70番だったような気がする。

その頃あった、家、屋敷を、その後どのようにしたのかは、よく解らないが、とにかく空襲でみんな焼けてしまった。
小学校3年の頃には、私が生まれた上の丸に伯父夫婦も居宅を移していて、
細工町に家があったのは、小学校2年生の頃までである。

(細工町の家は部屋数も多く料亭などには格好なつくりであった。
戦後しばらく経って、明石市長公舎になったり、川重の接待寮になったりした、二松荘は、
戦時中、その持ち主であったSさんが、料亭がやりたくて細工町の家との交換を打診されたようだが、二松荘は坂があって子供に危ないと父が断ったとか。
交換しておけば戦災にもあわずに残ったのに。
戦後まだSさんがおられたころ何度もお邪魔してそんな話を伺った。)

細工町とは、今明石では有名になった『魚の棚』の直ぐヨコである。
明石は所謂、城下町で道も入り組んでいたのだが、戦災と戦後の二度の大火事でこのあたりは区画整理がされて今の明石大通りなどが出来たのである。

★地図で調べてみたが、当時はなかったような道が今は出来ている。
間違いなく、覚えているのは、家の南隣は朝日新聞を扱っておられたKさん宅であった。
もう少し南にはパン屋さんがあって、朝食パンを焼くときの匂いが好きで、よく伯母に連れて行ってもらったものである。

こんな自分史など書くことになるのなら、伯父や伯母が存命の頃、もう少しちゃんと聞いておけばよかった。

★当時伯父は、大田電気は南鮮電気に既に合併したあとで、副社長はしていたが、京城に常駐していたわけではない。年に何回か京城を訪れていた。
そんなことで明石の中崎海岸に『錦江ホテル』というホテルを経営していた。
家計を支えると言うことでもなくて、半ば趣味みたいなホテルであった。
伯父や父の妹のご主人の叔父が支配人をして、実際の経営に当たっていたようである。

ロビーも調度品も立派だったし大きな庭園も池もある、当時でも外人さんが泊ったりする、結構いいホテルであった。
当時の明石海岸が、須磨、明石と並び称されて、舞子の背の低い松ではなくて、須磨公園にある背の高い松並木があって、中崎公園は素晴らしい景観だったのである。
夏の海水浴などホテルから公園を一跨ぎすると白砂青松の海岸だったのである。

多分、今の明石勤労福祉会館になっているところである。
若し、お稲荷さんが今でも残っていたら、その南側であれば間違いない。
お稲荷さんは、叔父夫婦の居宅の一隅にあった。

当時はホテルから南には家もなかったし、道もなかった。
今の中崎公園から南は海だったのである。

★このホテルのことはいろんな思い出もあるのだが、戦争が激しくなって、
明石の川崎航空機に10万人の人たちが働いていた昭和18年ごろ、川崎航空機に明石に訪れる軍の関係者の宿舎として売り渡されたのである。(接収みたいなものであったと思う。)

当時の川崎航空機の総務部長が砂野仁さん(元川崎重工社長)で、伯父との間で、調度品一切を含んで100万円で売買契約書が結ばれている。
私が神戸一中に進学したのも、砂野さんの薦めだし、川崎にお世話になったのもこんな関係からである。

川崎航空機に入社して、財産課に配属されたので、地下の書類倉庫で、たまたまそのときの契約書を見たので、その金額などは知っているのである。

★そんな私の人生の進路を決定したようなホテルなのだが、
子供の頃はそこで食事をしたりもしたが、一番印象に残っているのは、ホテルにいたお姉さん方にいろいろと可愛がってもらったことである。
私は伯父のお気に入りだったから、お姉さん方もそれを見越して優しくしてくれたのかも知れない。不思議なことに今でも優しくしてもらった人の名前まで覚えている。

★細工町にいた頃までは、クルマがあった。
家までクルマが迎えに来てくれていた。
当時神戸に買い物に行くときも、クルマだったし、小学校3年生ぐらいまでは、当時なぜか『省線』と呼んでいた電車に乗ったことがなくて、それに乗ってみたいと思っていた。
アメリカと戦争が始まった3年生ぐらいから、クルマはなくなった。
多分アメリカ製の乗用車など、その頃の時勢に合わなかったのではないかと思う。

この自分史を書き出してから、ある人に小さい頃は『坊ちゃん』だったのですね。
と言われたが、
確かに内地に来て伯父と一緒にいるときは『坊ちゃん然』とした生活であったが、
当時でも朝鮮の家にいるときは、そんなことはなかった。

父は、特に怒ったりはしなかったが,決して甘やかすような素振りは皆無だったし、私も小さいときから甘えるようなことは一切しなかった。
やんちゃ坊主でいつも暗くなるまでトモダチと外で遊んでいた。

岡山や明石での生活は、一瞬の『お坊ちゃん』だったのである。


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テレビの報道番組 と 潮流発電

2010-07-02 04:43:39 | 発想$感想

★韓国から潮流発電の双子のまぐろタービンが神戸港に着いたのは、6月半ばのことである。。
18日には、淡路の青波漁港に着いてその組み立てが始まった。
19日には、このプロジェクトをずっと応援してきた仲間たちが集まって、
日本での開発実験のスタートを祝ったのである。

こんな情報は、ブログやツイッターでどんどん流れる。
マスコミはどこでどのように、この種の情報を仕入れるのか?

三木のベンチャー企業のノヴァエネルギーには、新聞各社もNHKをはじめとするテレビ局なども従来から個別的には接触も取材もあったが、
今回の淡路での組み立てなどは、特に資料など作って、メーカーがやるようなパブリシテイの案内などは出していないはずである。



★なのに、21日の青波漁港での組み立て現場には新聞もテレビも、さらには佐世保重工や鉄人28号を作った北海製作所などからも、その取材は賑やかであった。

テレビの取材は、みんな報道番組用である。
ただの組み立てだけでは、放送にならないので、その後の青波漁港から岩屋漁港への搬送風景


さらには岩屋での潮流による回転場面などがないと、物語にはならないのだろう。
各局風雨が強くてどうにもならなかった日にも、現地取材だったのである。
フジテレビなどは東京からの取材で、大変だったと思う。

★こんな情報入手の方法はそれぞれあるのだろうが、今回は1週間にもなったので、ノヴァエネルギーの関係者ともみんな仲良く、仲間意識見たいなのが出来たような気がする。

でも、いつどのように放送されるのだろうか?
報道番組は生放送だし、例えば昨日など岡田ジャパンが関西空港に帰国などが入ると各局みんなそちらのほうに流れてしまう。

★そんな昨日の朝、我が家に突然『関西テレビのアンカー』のデイレクターさんから電話が入った。
一昨日現場に取材に行かれたようである。
淡路岩屋での海の中の『まぐろタービン』は撮影も出来たのだろうし、多分他社は居なかったであろうから、ノヴァエネルギーの鈴木さんともゆっくり取材ができただろう。

ただ、陸の上での双子の『まぐろタービン』の撮影は、今からではどうしようもないのである。
どなたから聞いたのか、NPOのホームページにあるブログの記事の中から、
『陸上での写真を使わせて頂けませんか?』 というお電話なのである。


『どうぞ、ご自由にお使いください』と言ったので、多分、こんな写真が使われるのではないかと思っている。

関西テレビの夕方4時53分の『アンカー』 コレは特別のことがない限り、
『今日の放映』だと言うことである。
ぜひ、ご覧になってください。

★読売テレビも、ABCも何日間に亘っての取材なのだが、いつ放送されるのか?
ABCの塩見さんに聞いてみたら

『うちは当初、水曜日の予定が、甲子園で阪神戦があったため延期。
本当は今日のはずが、サッカー日本代表が帰国して会見をしたため延期。ということで、結局、月曜日の放送になりそうです。
今のところ、月曜日は確実に放送できそうですが
報道番組なので、何かが発生するとずれこんでしまいます・・・。
何も起こらないことを祈ります。』
とか。

報道番組、なかなか難しいものです。


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