雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

三宅島からの手紙

2010-08-17 05:46:24 | 発想$感想
★三宅村地域活性化協議会から、突然『ふるさと三宅 村民制度』の住民登録申請書が送られてきた。




ホントに突然と言う感じなのだが、なんとなく思い当たる節もある。

送られてきた書面を読むと、
『噴火発生から10年の節目に当たり、2000年の噴火以前に実施していた『三宅島特別村民制度』を装いも新たにボリュームアップして再スタートすると言うことである。
本制度は三宅島の農水産物やお土産品、定期船や宿泊費の割引、広報などの情報発信などの特典があると言う。
今回の案内は昔の『三宅島特別村民』やモニターの皆さま、噴火のさい支援をした人、などを中心に案内されたと言う。

そのどれにも私は該当しないのだが、もう3年も前の2007年の4月に
、あるブログの読者の方から『三宅島のオートバイレース』についてどのようなお考えをお持ちでしょうか?
と言う質問をブログで受けて、
開催賛成の立場から、こんなブログをアップしたことがある。

当時は二輪業界もどちらかと言うと反対の立場だったのだが、
この問題については、その後も幾つかのブログで意見を述べたのを覚えている。

そしてさらに調べてみたら、
紆余曲折があってちょっと違った形でのレース開催にこぎつけて、その時こんなブログをアップしている

そして、そのブログの最後にこんな風に締めくくっている。
『マン島レース100年、鈴鹿でのロードレースから50年の歴史を経て、
三宅島のモーターサイクルフェスティバルが新しいモータースポーツの幕開けを飾って欲しい。

サポータークラブもあるようなので一般の部に申し込みをした。』

★すっかり忘れてしまっていたが、
この『サポータークラブの申し込み』の名前が載っていてそれで今回この申込書が送られてきたのだろう。

ブログは記録が残っていてこんなことを調べるには非常に重宝である。
もしブログがなかったら、なぜ三宅島が私のところに正確な住所で書類を送ってきたのか、いつまでも気にするところであった。

逆に言ううと、人間本当に忘れてしまうものである。
いつも思うのは、これが裁判などで訪ねらあれたら、『記憶にございません』が正しいのである。


★今回の募集内容の金額とその目標は、
一人当たり年会費1万円、それを2年分で、募集目標は、200人である。
1年100万円の資金募集である。

三宅島の商工会のホームページを開くとちゃんと綺麗に載っている



ホームページのこの写真をクリックすると『村民登録申込書』が現れるのである。
郵送されてきたものと、このホームページとの落差はちょっと大き過ぎるように思った。


★言われる趣旨もやろうとすることも容易に想像できるのだが、
正直言ってこのような仕組みでは、まず成功しないだろうと直ぐ思ってしまうのである。
私個人では間違いなく入会しない。入会させる説得力がない中期的に毎年年会費を払い続ける魅力に欠けるのである。

が、NPO法人 The Good Times としてならいくらでも協力できるのに、と思ってしまうのである。
この三宅島が望んでいる話なども、基本的に末端への視点が脱落していると思う。
一人1万円で200人=200万円である。
これくらいの金なら個人1000円で2000人集める発想が欲しいなと思うのである。

1年で1000人などホームページの右上の『seaz companyのRIMOWA友の会』カバン屋さんでも集めてしまう人数である
NPO法人の公式ツイッターのフォロワーも明日あたり6万人になるだろう。
兵庫県でも村上春樹に次いで2位、全国でも125位ぐらいだが、もう直ぐ兵庫県ではトップ、全国100位以内の10万人を目指している。
このたび佐賀県武雄市が設立された『ツイッター学会』の会員にもして頂いている。
こんな『いい仕組み』の連携こそが『いい結果』を生むのだと思っている。

三木の田舎でも、個人みたいなNPOでもこんなことが可能な世の中で、そんな『いい仕組み』の利用』をみんな見逃しているのである。
三宅島には、¥幾らかでもご縁があったので、本気で利用されるなら、本気で手伝おうと思っているのだが。

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アメリカの孫たち$娘&家内

2010-08-16 05:28:27 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ついこの間まで、三木の我が家にいた孫たちと娘は、家内をつれてアメリカにもどって行った。
早いものでもう1週間である。独りでの生活も1週間が過ぎたということである。

のんびり出来るのかと思っていたら、
母が突如として膝が痛く歩けなくなり、昨日はどうなることかと思ったが、
三木山陽病院、に入院と相成った。

こちらからは何の連絡もしていないが、ブログを読んで流石にびっくりしたようで、今朝アメリカから電話してきた。
『入院したから大丈夫』と妙な返事をする。 全くその通りで診察だけで家に戻されたらどうしようかと思っていたのである。



昨日のツイッターにも、
古谷錬太郎rfuruya1 人には運がついて回る。運がいいのと悪いのと天地の開きができる。http://rfuruya2.exblog.jp/14951776/ 運がいいと信じると運はつく。運が悪いと思うと運は逃げる。母が突如救急車で入院、運が良かった。
 

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65年前の8月15日 inソウル

2010-08-15 05:10:44 | 自分史
★65年前の8月15日、私は京城城東中学校の1年生であった。

中学校に入学して4カ月ほどしか経っていないが実質学校に行ったのはその半分くらいで、残り半分は家のすぐ近くの山で松の木の根っこを掘っていたのである。
どれくらいの油が採れたのか、本当にそんな油が飛行機の燃料になるのかは知らぬが、毎日4,5人ひと組で松の根を掘り続けた。
中学1年生にとっては松の木一本の根を掘り起こすのは大変な重労働だが、それを当然のこととしてやり続けた。

中学校に入ってからの勉強はほとんど覚えていないし、あまり勉強をする雰囲気ではなかった。
学徒動員なのか、希望入隊なのか、軍隊に入る、あるいは出征する上級生を京城駅に何度も送りに行った。
まさに出陣式で、『お国のために立派に死ねよ』などと何の疑いもなくみんなが叫び、それが普通の光景であったが、御両親などはどんな想いであの光景を感じておられたのであろうか?

私などは、海軍は船で酔うのででダメだな、陸軍幼年学校かなと、半ば本気でそう思っていた。
ただ、父や母とそんな話は一度もしたことはない。
父はどちらかと言うと、自由人だったから、あまり戦争や軍隊にも関心もなかったのだと思う。
当時流行った軍歌なども間違いなく知らなかった。

まだ、日本が勝ち続けたころの歌だから私が小学校4年生のころだと思うが、一緒に風呂に入っていて

『轟沈、轟沈、凱歌があがりゃ 積もる苦労も苦労にゃならぬ ――男所帯は気ままなものよ髭も伸びます、髭も伸びます無精ひげ』
何の問題もない歌詞だが、父は何を勘違いしたのか『子供はそんな歌をまだ歌うな』と本気で怒られた。
父に怒られたのは多分この1回ぐらいである。 「轟沈」 と 「男所帯」 を何か勘違いしたのだと思う。

★そんな戦時中であったのだが、
昭和20年の8月15日は、なぜか中学校のプールで泳いでいた。
正午に大事な放送があることは聞いていた。

広島や長崎の原爆はあまり知らなかったが、ソ連が参戦したことは知っていた。
炎天下の運動場で直立不動の姿勢で聞いた天皇陛下の玉音放送は、雑音が多はっきりとは聞きとれなかったが、日本が戦争に負けたということは全体の感じからよくわかった。
一瞬頭をよぎったのは、『軍人勅諭を覚えなくていいかな』ということであった。
夏休みの宿題にこの暗記が出されていた。そろそろ覚えなくてはと思っていた時期なのである。

5カ条の軍人勅諭ではなく、『我が国の軍隊は―――』に始まる難しい長文である

このリンクさせて頂いたなかには軍人勅諭だけでなく、終戦当時の資料満載である。
興味関心のある方は是非ご覧ください。

★65年前の8月15日、この日の出来事で、一番私の脳裏にこびりついて離れないのは、
玉音放送を聞いて、家路に着いたときに見たソウルの市電の状況である。

玉音放送があってそんなに長い時間は経っていない。
私たちが毎日乗って帰る京城の市電はとんでもないことになっていた。

朝鮮の人たちが手に手に朝鮮の国旗を持って、市電は花電車のような様相を呈していた。
とても日本人が乗せて貰えるような状況ではなかったのである。

私が65年前の中学1年生の8月15日、その旗を初めて見たとき、
時間がなかったので『日の丸をアレンジしたのだ』と言うのが正直な感想だったのである。

その後、パソコンを扱うようになって、検索で韓国の国旗の由来も知った。



★65年目の終戦記念日を迎えた今日、65年前のソウルでの想いと光景を思い出す。
昭和85年である。当時12歳の少年も今777歳を迎えている。
子供ながらにも当時をある程度知り、かつ語れる年代もだんだんと少なくなる。

今朝の朝日の社説、『「昭和システム」との決別』 には、そのすべてを容認はしないが、基本的に共感する部分も多い

その一部を抜粋する。

■もうひとつの戦後
日本は昨年、戦後初めての本格的な政権交代を経験した。
民主党政権は、事業仕分けや事務次官会議の廃止など一部で成果を上げはしたが、まだ見えない壁の前でもがいているかのようである。
 日本型経営や護送船団方式など戦後の日本を支えた仕組みの多くは、戦後も、社会は国民以外のものによって仕切られてきた。天下り利権や省益を守ることに傾斜してしまう官僚組織、積み上がるばかりの財政赤字。いまや、仕切り型資本主義が機能不全に陥っていることは誰の目にも明らかとなった。
割れ目から顔を出したものは、私たちが目をそむけてきた「もうひとつの戦後」だった。

■任せきりの帰結
冷戦下、西側の一員として安全保障と外交を米国に頼り、経済優先路線をひた走るという「昭和システム」は、確かに成功モデルだった。
だが、時代が大きく変化した後も、私たちはそこから踏み出そうとはしなかった。 
「仕切り型資本主義」は「人任せ民主主義」とも言い換えられる。任せきりの帰結が、「失われた20年」といわれる経済的低迷であり、「顔の見えない日本」という国際社会の評判だ。

■生きてるあなた
戦後65年にあたって考えるべきは、「戦後」を問い直すことではないだろうか。それは「昭和システムとの決別」かもしれない。
昭和の物差しはもう通用しない。 政権交代は、小さな一歩に過ぎない。政治主導とはつまるところ、主権者である国民の主導ということだ。
過去の成功体験を捨て、手探りで前に進むのは不安かもしれない。
だが、新しい扉を開くことができるのは、今の時代に「生きてるわたし生きてるあなた」しかいない。

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私のお盆休み

2010-08-14 06:07:01 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★世の中お盆休みである。
現役のころはこの長い休みは楽しみであった。
休みの期間は好きなことが、出来るのがよかったのだと思う。

そういう意味では、今はずっと好きなことが出来て自由である。
年金生活は、そんなに退屈なものではない。なかなかいいものである。

要はは考え方だと思う。
会社の仕事も面白いし、年金生活も面白いのである。
逆に言うと、会社の生活が面白くない人は、年金生活は退屈なのかもしれない。


★年金生活の良さを一言で言うと『自由』である。好きなことがやれる。

収入が安定しており、支出も安定している。 これは結構気持ちの上で、豊かなのである。
収入の金額は本当に知れているのだが、子育ての支出もないし、服に金がかかったりもそないし、ネクタイもいらない。
人や会社にに命令されて、やらねばならないMUST事項がないのである。
今やっていることは、考えてみると、やってもやらなくてもいいことを、義務感なく好きなことを好きなようにやっているのである。

★そんな年金生活の自由な生活が7月からちょっと変わった。
7月から1カ月、アメリカから孫たちが遊びに来ていたので食生活が全く変わったし、好き勝手な自由は少し無くなった。
そんな孫たちも、お盆で飛行機代が高くなる前に、家内をつれてアメリカに戻っていった。

今度は、全く独りでそれこそ自由な毎日が始まった。
炊事、洗濯、掃除、買い物など一応の家事はすべてやるのだが、そんなに苦にもならない。
『質素な生活』を目標に今から9月末までをやろうと思っている。

★見方を変えたら、これが私の長い『お盆休み』かも知れない。
通常の生活パターンと違う時間があるのが『休み』だとすれば、まさしく休みである。

炊事が大変でしょうと言ってくださるが、そんなことはない。
大体、コックさんはみんな男である。男独特の勝手気ままな料理を楽しんでいる。

よく、特製うどんを食っている。これが簡単で結構うまくできる。
小さな鍋に水を入れる、鶏肉など少々、冷凍エビも入れる、葱を切って、火にかける。
だしなどは適当に卵スープの素や、中華スープの素などで代用し、ちょっと味が薄かったら味の王様「味覇」をたしたら、面白い味になる。
冷凍うどんを入れて、時には生卵を割ったりする。
これがいいのは、食器は一つで済むし、調理時間も10分はかからない。

まだ出していないが、そのうちに鉄板を机の上に出したままにしておくと、その鉄板でなんでも焼ける。

家内がいると、まず料理をさして貰えない。
鉄板を出したままなど考えられないのである。
自分でも不思議なぐらい「弁当」を買わないのである。

娘のブログを見ると、家内もまさしく通常の生活パターンと違う

これは休みと言えるだろう。
家にいたら、テレビの推理物ばかり見ているのだが、アメリカでは流石に英語のテレビはダメだろう。
まあ、ゆっくり休みを楽しんで来たらいい。


★ただ、ひとつこれは休みで自由だと言っておれないことがある。

101歳の母のことである。
この1カ月で、めっきり弱って、介護が必要になったのである。
1カ月のうち24日はショートステイで面倒を見てもらっているのだが、
昨日の夕方から家に戻ってきた。
今までなら、家でもほとんど手がかからなかったのだが、この調子だと、『私のお盆休み』などとのんきなことを言っておれないかも知れない。

まあ、行方不明になっていないだけでもいいかなと思っている」。
ショートステイなどと言う制度がなかったら、それこそ老々介護の毎日である。

今回は4日家にいるのだが、この4日間は『私のお盆休み』の中断である。




★今、14日の8時半である。
朝、4時救急車を呼んだ。対応医師がいないので、もう一度家で寝かせている。
9時の病院の開く時間になれば、もう一度救急車を呼ぶことになっている。

朝4時に来てくれた人と交代しているので、引き継いでくれてはいるが、最初からやり直しである。

ちょっとこちらのブログに経緯を書いている
なかなか、立場やいろいろあって、うまくいかないものである。
私は自分自身2度、救急車で運ばれたことはあるが、依頼するのは初めて、大変なことよくわかった。






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日航ジャンボ機御巣鷹事故から25年と私との関係

2010-08-13 06:10:17 | カワサキ単車の昔話
この記事を書くのはどうしようかと思ったが、御巣鷹の事故25年と言うので書くことにした。


★日航機の御巣鷹の事故は1985年8月12日、25年前のことである。

当時の伊丹―羽田便は、JALもANAもほとんどが、ジャンボだった。
ジャンボと言っても細かく言えば、幾つかの機種があったのだろうが、
『私の思っているジャンボ機』も間違いなくJALは伊丹―羽田で運航していたのである。
ひょっとしたら御巣鷹に墜落したジャンボ機は、その機種のその飛行機でなかったのか?
と私は、秘かに思っているのである。

★日航ジャンボの事故があった翌日、
私は当時の事業本部長の高橋鉄郎さんのお伴をして、それこそ日航ジャンボ機で、アメリカに出張しているのである。
お盆の夏休みがあるのは日本だけで、海外販社はお盆休みなど関係ないものだから、世界的な事業展開の単車事業部の幹部たちは、特に高橋さんはお盆休みは海外販社出張が定番だったのである。
アメリカ現地では、レンタカーを借りて自分で運転して行動する、そんなスタイルであった。

その時のJALは流石に大事故の翌日で、キャンセル続出でガラガラだった。
機内サービスは非常によかったが、正直あまり気持ちのよいものでもなかった。
ただ、乗って直ぐ後部トイレの仕様を確かめて、このジャンボは大丈夫と勝手に決めていた。

これは私の勝手な仮説なので、書くことをためらったのだが、非常に高い確率でそうだと信じている。
出張先のアメリカのKMCの社長をしていたのが田崎さんである。
私の今から書く話を一番よく知っているし、理解をしてくれる人と言えば、高橋さんと田崎さんなのである。


★話はさらにさかのぼって、1976年の話からスタートするのである。

そのころ、私は川重の単車企画にいて、東南アジアへのCKD事業の起案者であった。
当時はまだ技術本部長であった高橋鉄郎さんを団長に担ぎ出して、東南アジアの市場調査団を構成して、台湾、タイ、イラン、マレーシア、インドネシアなど各国の市場調査を行ったのだが、

イランのテヘランからタイのバンコックへの飛行機がパンナムのジャンボ機、その機内のトイレからこの話は始まる。
1976年6月10日のことである。

この飛行機の最後部のトイレの中で事故は起こったのである。読者諸氏は想像力をたくましくして、私の説明を理解してほしい。
この説明は帰国後いろんな人にしてもなかなか理解して貰えなかったのである。

●飛行機の最後部のトイレである。
●飛行機の最後部はだんだん後部になるほど細くなる。
●トイレは幾つかあるが一番機体の外側に近いトイレである。
●トイレには紙を捨てたりする、なんというのかゴミ捨ての場所がある。
●普通はその蓋は上を起点に奥に開くものである。
●ところが最後部でだんだん狭くなるので、この蓋は右を軸に壁に沿って開くように造られていた。
●紙を捨てようとして、私の指がそれこそ一瞬のうちに吸い込まれ壁と蓋の間に挟まって抜けなくなってしまったのである。
●空気圧などの問題がなければ、構造としても何の問題もない。
●一瞬のうちに指が吸い込まれるような気圧の変化など想像できないのである。

それは一瞬の出来事であった。何が起こったのか解らなかった。
機体の壁とアルミの蓋の間に挟まれた指は独りではどうすることもできず。
乗務員たちが来てくれたが、それでも駄目で最後に何人かで蓋を引っ張ったら何とか抜けたが、挟まれた中指は1cmほど深く切れたのである。

これはどう考えても空気圧の仕業だと思った。
パンナムだったので、事故報告書は『Door bite his finger』と書かれた。
事故後は、ただ一人乗っていた日本人のスチュアーデスが直ぐファーストクラスに席を移してくれて、最上級の対応だったし、
バンコックの空港でも空軍病院では、患者があふれているなかで、掛りの人に目の前で現金を渡してVIPなみの待遇と素早い処置がなされた。
すべてフリーパスの最高の処置、待遇だったのである。
ずっと昔のことだが、アメリカの航空会社だったし訴訟などにされたら大変と思ったのだろう。
手術も3人の医者で大層におこなわれた。
帰国後糸を抜いたのだが、医者に『何処でしました?』と聞かれた。ダメなのかと思ったら、こんなに丁寧な縫い方見たことがないと言われた。

そんなことで、指には今も傷跡がある。
もし、日本人のスチュアーデスがいなかったら、ひょっとしたら訴訟を起こしたかも知れない。
それくらい、一部の隙もない素晴らしい対応であった。
このあたりの話をよくご存じなのは、団長であった高橋さんである。


★その後何年も経って、東京ー伊丹便で、私が事故にあったトイレと同じジャンボの機体に出会ったのである。
その後ジャンボに乗るたびに、あんな仕様の最後尾トイレはないかとチェックしていたのだが、出会うことはなかったのである。
同じ仕様のトイレのあった飛行機はJALのジャンボだったのである。
確か84年か85年だと思うが、たまたま一緒に乗っていた田崎さんをトイレまで引っ張って行って、こんな仕様だと確認したのである。

御巣鷹の事故の原因は、いろいろ言われているが、
『最後尾の』とか『後部圧力隔壁下部』などの記述がある。

私の事故も『一瞬に吸い込まれた』という表現があたっている。
こんな危ない仕様のジャンボがJALにあったのは間違いない。
あの御巣鷹での事故機の最後尾のトイレは、どんな仕様のジャンボだったのだろうか?
私は、田崎さんと一緒に乗った 『あのジャンボ』ではないかなと思っている。





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ちょっと複雑、韓国併合100年

2010-08-12 05:37:20 | 発想$感想
★韓国併合100年を機に菅さんが出した首相談話が話題である。

賛否両論あるのはもっともなことだと思う。
あなたは? と言われたら、複雑すぎて想いがいっぱいあって、『賛成でも、反対でもない』
どちらの主張も『もっともだ』と思えるのである。

★そんな難しい議論ではなくて、正直思った感想、いろいろあって決して纏ってはいないのだが、
間違いなくこんなことを思ったのである。

●私にとって小学校時代を過ごした韓国は、誰が何と言おうが『わたしの故郷』なのである。
だから、韓国はベースのところで好きなのである。
だから、韓国を悪く言わないで欲しいと思う。
でも、あの頃は韓国でなく、日本であった。
そのことが問題なのである。
しかし、私の知っている京城は、何処に行っても、日本語が通じる日本だったのである。

●子供のころ、そのこと自体に何の疑いも持たなかったが、韓国の人が日本語をしゃべるのはそんなに異和感はなかったが、
名前を変える『改姓』にはなんでそんなことをと思ったものである。
家にいたお手伝いさんは、大の日本びいきで、いつの日にか『内地に行きたい』と言うのが口癖だった。
多分、少数派であろうが、そんな人もいたのである。

●韓国併合100年だそうである。
終戦が65年前だから、日本が韓国を統治した年数は35年と言うことなのだろうか?
この機会にとちょっと調べたら、こんなブログも出てきた
1910年8月だから、やはり35年間である。
祖父が韓国に事業を興したのは、多分その10年後ぐらいのことだろう。

●その後の25年のちょうど半分くらいが、私が韓国で子供の時代を過ごしたのである。
京城(ソウル)だけが特にそうだったのか、65年前の京城は立派な町だった。
100年前がどんなだったかは知らぬが、35年間の間に造られたり、建てられたりしたものもいっぱいあったはずである。


突如として写真だが、これは私が小学校時代を過ごした家である。
これは家にあったのではなくて、
ソウルオリンピックの時に、ジェットスキーのデモに招かれてその時家を見つけて写真を撮ってきたのである。
門や塀は当時と変わっていたが、家自体は昔のままで残っていた。
日本で考えると結構大きいが、このあたり隣近所もみんなこれくらいはあって、普通だったように思っている。

●これなども、搾取の実態と言うか結果なのかも知れぬが、豊かであったことは事実である。
ただ、この家が、あるいはこのあたり一帯の家に、どなたが住んでおられるのか?
元の家の持ち主は、多分タダで置いて帰ってきたはずである。
個人の家だけでなく、公共の建物も企業もすべて無償で寄付してきたようなものである。
日本人が、そんなに悪いことばかりだったのかと言うと『そうでもない。残したものもある』

●そんなことを交渉の道具にいろいろ言うから、ぎすぎすする。
隣国なんだから、素直に仲良くすればいい。
正直、少々『謝り過ぎ』だとは思うが、
日本は何事にも、すぐ頭を下げる『謙譲の美徳』の国であり、
韓国は何事にも、『自分の考えを主張する』お国柄である。

●これは一国の問題だから、そんなことは言っておられないという意見も解るのだが、
どうも本件に関しては、私は二国にまたがっているような気が今でもするのである。
韓国が子供のころを過ごした『故郷』であることは、どうしても否定できない事実なのである。

日本には、今でも沢山の韓国の人たちが住んでいる。
この方たちにとって、多分日本は『故郷』なのだろう。
もっと、昔を辿れば、中国から、韓国から日本に移り住んで、日本人になった人も沢山いるはずである。

いろいろ言うのは、政治の世界だけでにしてほしい。
お互い隣国なのだから、仲良くしたいと本当にそう思っている。

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ツイッター雑感

2010-08-11 05:57:09 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram
★このところ毎日ツイッターにはまっている。
私の場合はとにかく 『フォロワーの増加の1点』に目標を絞っている。

ブログと違って、ツイッターは情報の発信される先が、原則的に『フォロワー』に限定されるのである。
それが仮に10人なら、情報としては10人にしか届かないのである。
勿論、仲間うちの10人にだけ届けたいつぶやきがあるのも確かである。

逆に、出来る限り多くの人に届けたい情報もあるはずである。


今、私たちは、 NPO法人 The Good Times の仲間たちと全国ネットでいろんな情報展開をしている。
ホームページを開けば、全国の会員さんのツイッターが、流れるような仕組みになっている

異種、異質、異地域のいろんな人の集まりだから、『忍者の伊藤さん』のようにパソコンを触ることのない人もメンバーではある。
そんな人にも、私のブログのことやツイッターのことは伝わるようで、彼が電話をかけてくるときにはそんな話もでるのである。
こう書いておけば、この話は伊藤さんの耳に届くはずである。
そういう意味で、『ツイッターの情報発信力』は貴重なもので、いくらブログで頑張ってみても、素人の段階では『万のアクセスレベル』は夢のまた夢、現実には不可能なのである。


★ところが、『ツイッター』ではそれが可能なのである。

んないろんな情報分析のデーターがいっぱいあるのもツイッターの特徴である


これは単純作業で、今1日7時間ぐらいこれにかかっている。
個人的なことなら、こんなことはしないのだが、
NPOの公式ツイッターと言うことで『リツイート』することにより、『NPOの会員さんも一緒に使えるシステム』としての完成を目指している。

現在の55000人と言うレベルでも、全国125番目ぐらい、兵庫県なら村上春樹さんに次いで2位なのである。
この調子で続けたら全国100位以内にも入るだろうし、『フォロワー10万人』までは頑張っててみたいと思っている。

★最近の傾向として、企業などの公式ツイッターの参加が目立っている。
二輪業界でも、ヤマハに次いでカワサキもスズキもツイッターに参加したのだが、どうもそのコンセプトがもう一つはっきりしないように思う。
単なる気軽な情報発信もいいのだが、
『二輪のイメージアップ』、『二輪ファン拡大』など世間一般に向けてのもう少し大きく高い目標があってもいいのではと思ったりする。

その気があれば、幾らでもお手伝いは出来ると思う。ネットの世界はヨコに繋いでこそその意味があると思っている。

多分、これはkawasaki に関係ないと思うが、guy kawasaki と言う人が全国13位の位置にいて25万人のフォロワーを持っている。
ここにホントのkawasaki がいてくれたらいいのにと思ったりしている。



★企業に限らず政治、行政の世界でも、いろんな方やいろんなところがツイッターを利用し始めている。
まだ、使い始めたばっかりだから、企業と同様まだその考えも固まっていないところが多いのだが

そのツイッターに本気で取り組んでおられる方がいる。、
このかたのツイッターへのはまり方も尋常ではない。
佐賀県武雄市の市長樋渡啓祐さんである。


既に『たけブログ』の中に、ツイッターを取り上げたり、
どうしてこなにいろいろする時間があるのかと思うほど、ご自身のツイッターは賑やかである
ところが今度は、さらに大きく高い目標を打ち上げて、即実行である
昨日のブログで発表されているが、『日本ツイッター学会設立へ』となっている

ウソみたいなホントの話のようである。

『社会的現象となったツイッターのメリット、デメリット、社会的・経済的な意義などをアカデミックに議論する場として、ぜひ、「学会」を立ち上げたいと強く思った次第。
幸い、武雄市で、全国自治体学会が開かれることを機に、日本ツイッター学会設立に向けて、記念シンポジウムを開催します。最速、19(木)に立ち上げます。

日時:19(木)20時半〜
場所:武雄センチュリーホテル
お題:「ツイッターを政治/行政にどう活かすか!」(仮称)

ツイッター学会そのものは、ユルく、日本学会ツイッターなるものをつくって、そこに相互フォローとなれば、会員というようにしたいと思っています。
最初は不肖私が会長となりますが、ゆくゆくは全国各県に支部ができようにしたいですね。』

などと語っておられます。
『アカデミックに議論する場』は極めて苦手ですが、『ゆるーい、つながり』なら是非会員に』入れていただきたいと思ったりしています。


★なんでも、夢のある、大きくなる可能性のあるものは、いいですね。
わが町、三木もNPOの仲間たち中心に結構ツイッターのレベルは高いのだが、中心の行政も是非本気で取り組んで欲しいとン願っている。
『市民協働』が毎日出来るような気がするのだが。

ツイッター雑感 でした。

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本田宗一郎さんとの旧い写真

2010-08-10 05:22:13 | カワサキ単車の昔話
★カメラを自分で持って写真を撮り始めたのはごく最近、
ブログに写真を貼り付けられるようになってからのことである。

それまではどうも写真は面倒で苦手であった。
フィルムを買う。写真を撮る。現像をする。人に配る。写真帳に貼りつける。
こんな一連の作業が大変でいやだった。

海外もあちこち行くことは行ったのだが、海外出張でカメラを持っていったことはない。
家内と旅行するときだけはいつも使い捨てのカメラのお世話になっていた。


★そんなことで、写真は家にもいっぱいあるのだが、それを取り出して、昨日眺めてみたのである。

最近、自分史を書きだして、小学校の頃を過ごしたソウルのことなど、書いたりしているのだが、
ソウルオリンピックの時に、ハンガンでジェットスキーの欧米豪日のトップライダーを集めてのデモンストレーションをやったことがある。
その時もカメラなど持参していなかった。
その中の1日、子供のころ住んでいた家が見たくて、故苧野豊明さんと一緒にタクシーで、家を探して走り回ったことがある。
そして家は見つかったのである。
その写真を苧野さんに撮って頂いたのがあるはずだと、探しまわったのである。
その家の写真は見つかったので、近いうちにご紹介しようと思っている。


★沢山の現役時代の写真を眺めてみたが、人の記憶力は頼りないものである。
写真に一緒に写っている方の名前も半分以上解らない。
ひどいのになると、それはいつ、何の写真だったのかも解らないのである。

逆に、鮮明におぼえているのもある。


こんな写真が出てきた。
これはアルバムにして贈られてきたのである。                               
                                                                                   

これは貴重な写真である。

左から本田宗一郎さん、高松宮さま、桜井さんである。
ヤマハの菅生であった全日本モトクロスの昼食会である。
カワサキからは、青野さんと若輩ながら私が出席させて頂いたのである。

★写真と言えば、このごろはパソコンで、写真を見やすく修正なども出来るのである。
先日、大阪の船場の岡田さんが、わざわざ逆光で写した写真を綺麗に修正して送っていただいたりした。
この写真の現物はヨコ 17cm, タテ 12cm で非常に鮮明である。
ぼんやりしているのは私の技術がダメなだけである。


上の昼食会の時は、確か席次もお品書きも一緒に送って頂いたのだが、それもどこにあるのかよくわからない。
この全日本MXのカワサキの成績が全然で、そんなことばかりが当時は気になっていたのである。

尊敬する本田宗一郎さんとは、直接お話ししたことは一度もないが、同じ会議やパ―テイでは何度かご一緒させていただいた。
非常に気さくな、常に場を明るくされるように、あちこちに気を使っておられたのが印象的だった。
一言でもいい。話をさせて頂いておればよかったなと思っている。



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中学校時代

2010-08-09 05:36:02 | 自分史
★昨日の自分史で書いたように、中学校は明石から神戸一中に通った。
学校は六甲山系の摩耶山の麓あたり、灘駅からは『地獄坂』と称する坂道を上りつめたところにあった。
結構勾配のきつい坂道でいまどき灘駅から歩いて学校に行く人などは多分皆無であろう。

当時は学区制でなかったし、明石からも垂水あたりからも何人もの生徒が通っていた。
伝統のある学校だが、不思議な伝統もあった。
カバンは使わず、勉強道具を包むのは、白い風呂敷と言うか、四角の布であった。
弁当は運動場での立食だった。なぜ立食だったのかは知らない。

最近は立食パ―テイなども一般的なのであまり奇異には感じないかもしれぬが、当時は本当に不思議な伝統だと思ったものである。
弁当を食いながら、サッカーボールをけったりしていた。

★授業のレベルは特に英数、国語が中心だった気がする。
終戦直後で、歴史をどう教えるのか教える方が定まっていなかったのだろう、歴史の授業があった記憶がないのだが。

英語と数学の授業は相当に高度で進み方が早かったと思う。
Once upon a time,there lived an oldman and his wife. They treated the bird as tenderlly as if it were their child.

これは、1年生の夏休みに暗記してこいと出された、舌切雀の物語の冒頭の文章で、意味や文法など関係なく暗記したものである。
4月には間違いなく、This is a pen. から始まったのだが。

数学のテンポも速かった。

★3年生の初めからか? 県一女との共学になった。
この時点で、英語も数学も半年分ほどは、バックしたというか、追いつくまで待っていたのである。
県一女も優秀校だからそのレベルが低かったというわけではなくて、神戸一中のレベルが高すぎたのだろう。

これは学区制で明石高校に転校して、また味わった。
特に数学などは同じところを3度習ったので、そこまでは完ぺきだが、そこから先は逆に、皆目ダメなのである。
勉強しないクセが付いてしまって、新しいことを覚えるのが億劫であった。
特に理数は現実離れしていて、これは専門家が専門的にやればいいとそのころからそう思うようになったのである。

われわれの年代は、小学校も4年生からは男女別組だったので、男女共学には面食らった。
流石に、運動場での立食はMUSTではなくなったが、
昼休みじかんではなく、1時間前の『早食い』が一般的で、それも教室の窓際での立食だった。

★まだ、戦後の色濃い時代で、食糧事情も悪く、天皇陛下でも学校の教室に宿泊される時代だから、2.
修学旅行などはなかた。

そう言えば、私は修学旅行は一度も経験がない。
小学生時代は戦時中でそんなことは考えられなかった。
中学時代もダメだった。
高校の時は修学旅行はあったのだが、その時は野球部でその時期に中国地方への遠征試合を組んだので行けなかったのである。

★こんな中学時代であったが、一生懸命勉強をしたのは中学2年生、男女共学になる前までである。
それ以降は、野球は一生懸命やったが、勉強はほとんどしていない。
大学に至ってはほとんど教室に入ったことがない。教室に入らなくても単位だけは『可』ではあったが簡単に取れた。
商大を出ながら『簿記の単位』がないのは簿記は教室に出ないと試験が受からないのである。
簿記は出来ないが、バランスシートは実践的にちゃんと読めるし、売上高利益率よりは総資本利益率や回転を重視した経営が出来たのは、実戦の中でそれを覚えたからだと思う。
そういう意味では、会社に入ってからの方が勉強した。

そんなことで会社でも自分は中学2年卒の学歴だと思っていた。
『学卒』という学歴だけで高い給料をもらって理屈だけで仕事の出来ない連中よりも、高卒や学歴はないが『実力派』が好きだったのは、自分も実質『中学卒』だと思っていたからである。


★『質素剛健、自重自治』の校風であった。

校歌は、歌詞はこんなに難しいのだが、曲はどんな音痴でも歌えるような簡単もので、私は私の結婚式の披露宴で声高らかに歌った。

家内も、たまたまだが神戸高校卒業で、あの樺美智子さんと同期である。
何となく、歌いたくなって二番まで、歌詞はちゃんと覚えていた。

『1. ぐんらんいろは紫に 金波さ揺らぐちぬの浦  東大野をどうどうとと朝日このぼる曙や 希望の光輝けるわが世の春に似たるかな
2. 天の霊火を地に呼べば 意気の小胸の高鳴りや 自重と自治の旗しるく叱咤呼号の50年 ああ微笑みの誇らいの歴史の跡ぞ勇ましき』

平かなで書いたところは感じが難しすぎて、とても書けないのである。
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神戸一中、有終会

2010-08-08 05:06:08 | 自分史
★なぜ、神戸一中に入学したのかは前々回のブログにもちょっと書いたが


私は、どうも一般の方に比べて、自分自身の進路などあまり興味関心がないのである。
子供のころから、『何になりたい』などとは本当に思った記憶がない。
ソウルの中学校の進路も親父の言う通りの学校に行った。
なぜ京城一中に行かなかったのか?入学できないような成績ではなかったが、多分そんな遠いところに通わなくていいと父が判断したのだと思う。

神戸一中も自分が行きたくて行った学校ではない。結果的にそこに入学しただけのことである。
明石高校には、学区制でそこに行かざるを得なかったのである。
大学も1月に父が亡くなって、治療費が要らなくなったので、伯父が行けと言ったので試験を受けたら通ったまでのことである。
神戸商大を選んだのは、試験科目が少なかったからである。
就職先の川崎航空機も伯父の葬儀の時に、砂野仁さんに『うちに来い』と仰っていただいたので、試験を受けたようなものである。

もう少し詳しく言えば、昭和31年の卒業時点で単位が不足などなかったのだが、
砂野さんが『今年は取りにくいので来年まで学校に残れ』と仰るので、5回生の1年間野球部の監督をしていて、
昭和32年に川崎航空機に入れて頂いたのである。

運がよかったのだろうが、あまり試験など受けたことはないが、運転免許の試験も含めて、今まで試験に落ちた経験は一度もない。
大学入試も就職試験も1校、1社だけである。

自分の進路や職位など勝手に願ってみても決して思うようにはならないものであると思っている。
ただ、与えられた職責は100%自分の思うようにやれたと思っている。



★神戸一中もなぜか無試験で入学できたのだが、
父が『無試験で入れたのだから、ちゃんと勉強せい』と言うので中学校の時はよく勉強した。

私が通った学校の中で、何処の卒業ですか?
と学校名を聞かれたら『神戸一中』だけが胸を張って応えられる学校のような気がする。
それは、『勉強した』と自分でも思うからである。そういう意味で学校と言う本来の勉学をしたのは、神戸一中のときだけである。
そして、レベルも高くいい学校であった。

高校も、大学も、ほとんど『野球部の卒業生』と言う感じで、いい学校ではあるが、そこで勉学にいそしんだ実績は皆無なのである。

昭和21年からの3年間、明石から灘まで電車、灘からは徒歩で『地獄坂』を歩いて通った。
1年生のころは、明石と言っても疎開先の伊川谷からの通学だったので、今思えばよくもまあ通えたものである。
電車の本数も少なかったし、窓ガラスの代わりに板を張り付けた電車もあった。
通学に2時間以上掛ったのではなかろうか。


★日本の教育制度が変わる真っ只中で、いわゆる旧制中学の最後の学年なのである。
翌年からは、新制中学制度が出来て、旧制の神戸一中には新入生は入ってこなかった。
野球部にいたが、中学3年間と高校1年の4年間、運動部の最下級生の経験をした。
この4年間の経験はよかったと思っている。 少々の文句やきつい上級生の指示にも耐えられる体質が身に付いた。

この経験からか、われわれの運動部の年次はみんな後輩たちに優しい。私は会社で部下を頭ごなしに怒ったりしたことはタダの一度もない。
ホントは無茶苦茶気が短くて直ぐアタマに血が上る性格なのである。
会社では辛抱出来たが、警察では辛抱出来ずに札幌の警察署で文句を言っていたら、どんどんアタマに血が上って『クモマッカ』で倒れたような経験もある。
倒れた場所が警察だったので、すぐいい病院に運んで貰って、今元気にしているのである。

ちょっと、脱線したが、人間運だと思っている。与えられた環境の中で最善を尽くすのがいい。
ああしたい、こうなりたいと思ってみても、世の中簡単に自分の思い通りにはならないのである。

戦争がなかったら、どんな人生になっていたのか、想像すらできないが、多分今より面白い人生が歩めたとも思っていない。
現在も含めて、私の歩いてきた道に大満足なのである。


★非常に気に入っていた『神戸一中』』なのだが、高校は学区制で地元の明石高校に入学した。

昨年、神戸高校の第50号の記念会誌が送られてきて、いろいろ思い出したし、知らなかった記述もあった。、
昭和22年、まだ男女共学にはなっていなかったと思うが

天皇陛下の関西行幸があって、その宿舎に神戸一中の教室が改造されて当てられたのである。
いまどき考えられないと思うが、私のクラスは『天覧授業』も受けたのである。
泊られた部屋は3階で見ることもできなかったが、お車などはすぐ近くで見ることができたのである。

『天皇陛下が行幸された学校』とはいかなる学校かと、その後GHQの調査があって、
『英才教育をしている』ことが問題だと言うことになり、学区外から通学通勤している生徒や先生は、強制的に転校させられたのである。
この対象となったのは、われわれの学年だけである。

大勢の学生や先生が神戸高校を去ったのだが、先生も含めて大勢の人たちが、『灘高校』に転校したのである。
灘が今のような灘高校になったきっかけかも知れない。


★私たちは神戸一中に入学し、変則的に3年で神戸高校併設中学の神戸一中の最後の卒業生なのである。
そんなことで同期会の結束も固く、同窓会もよくあるし、毎年同期のゴルフコンペの案内も頂くのだが、あまり出席したことはない。

その同期会の名を、有終の美を飾ると言う意味で『有終会』と名付けている。

これも、その会誌の中の記述で知ったのだが、
海軍兵学校の卒業生の会も『有終会』だそうである。
神戸一中は無くなったが、神戸高校として受け継がれている。

そういう意味では、海兵の同窓会も消えゆくだけの運命である。
同じように私の小学校、京城桜ケ丘小学校の同窓会も、海兵よりは多分長く続くだろうが、いつかは消えゆく運命にある。

戦後65年、これらも65年前の話なのである。
そのころの方で有名人は、高島忠雄が1年上で、扇千景さんは同じ年次である。

こんな激動の時代の中で、私の中学3年間、『名門神戸一中』で過ごせたのはよかったと思っている。



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こさるのたれ

2010-08-07 05:01:46 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
★『こさるのたれ』

三木の焼肉屋 『こさる』の店の焼肉のたれのことである。



店のレジの横に、確かにキムチやドレッシングと一緒に売られている。
それを買ってアメリカに持って帰ると言うのである。  焼肉を食いに行ったのではない。
昨日は『たれ』だけをわざわざ買いに行ったのである。

人の価値観と言うのは、住む環境によって変わるものである。

三木の『こざる』 と言う焼肉屋さん、確かに安くてうまいとは思う。
そのたれも独特の風味で旨い事は旨いのだが、日本にいたら家に『たれ』を買って帰ることはまずないだろう。

ところが、アメリカに住んで、肉などあきるほど食っていると思うのだが、
孫たちが日本の食いもので楽しみにするのが、『こざるの焼肉』なのである。
子供のくせして、一人前に 『肉も旨いが、たれも旨い』との評価なのである。
アメリカに留守番をしている長男とお父さんへの土産を兼ねて『たれ』を持って帰ると言うのである。

今回も1カ月の滞在期間中に2度ほど行ったのだが、昨日はどうしても他のスケジュールが入って、焼肉を食うことは出来なかったが、
『たれだけでも持って帰る』と言って『たれ』を買いにわざわざ店まで行ったのである。



三木には本店と支店と2店舗がある

『旨いとか不味いとか』いろんな店の評価があるが、この5年間ほど 『こさる』以外で焼肉を食ったことがないので、比較することは難しい。
三木と言う田舎の土地であることから、確かに値段は手頃である。

孫たちのお父さんの娘婿は実家が神戸なのだが、日本に帰ってきたときに、神戸で焼肉を食わずに一族を引き連れて、三木の『こさる』まで遠征してきたらしいが、
それは『旨いからか』 『安いからか』 多分両方だろう。

★世界のいろんな食いものなど、そこで食べると、旨いと思うものである。

昔イランで飲んだお茶がおいしくて、わざわざ買って帰ってきたのに、日本で飲むとそんなにおいしいとも思わなかったことは、ひどく印象に残っている。
焼肉と言えば、私自身はそれこそアメリカの韓国街の焼肉屋で食った焼き肉は、たれもキムチもそれこそ種類いっぱいで旨かったと思ったのだが、
そんな店には、アメリカのアーヴァインにいれば、いくらでも行けるはずなのに、そんな話は一向に聞かないのである。


約1カ月の滞在であったが、あっという間に過ぎて今日が最後、
明日朝、新幹線の『のぞみ』に乗って、夕方成田からアメリカに帰国である。

家内はこの1カ月大変であったが、明日は一緒にアメリカ行き、9月の末まで、快適なカリフォルニアの夏を楽しむ、それこそ夏休みである。
私も、独りで勝手気ままな夏休みと言うべきか、留守番と言うべきか。

1カ月のうち、24日は『ショートステイ』で家にはいないが、6日間だけは戻ってくる101歳の母が元気な間は、ちょっとアメリカは無理なのである。
独りでも 『こさるの焼肉』や、『日本のきつねうどん』は食えるので、そんな日本の味でも楽しむか、たまには自炊もチャレンジしてみたい。



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アメリカのよさ、日本のよさ

2010-08-06 05:23:11 | 発想$感想
★7月の初めに孫たちがアメリカから、夏休みで日本にやってきて、日本の暑い夏だが精いっぱい楽しんでいる。
カリフォルニアにいれば快適な夏が過ごせるのに、わざわざ日本まで戻ってくるのは、それなりに日本の良さもあるのだろう。

子供たちが一番楽しみにしているのは、日本にいたときの友達たちとの再会のようである。
ちょっとの期間だが学校にも入れてもらい、サッカー部にも入れてもらって試合などにも出して貰ったりしている。

再会と言えば、アメリカで同じ地区にいた友達や親御さんが日本のあちこちに戻ってきていて、
子供たちだけでなくお母さん方も入れての会合を先日は名古屋で、東京に戻った人も入れてやったりしていた。
昨日は、カワサキに勤めている方のお宅に関西の人たちが集まったようである。

そんな人の繋がりも、特にアメリカという外国で一緒に過ごしたことは、何かちょっとした結束みたいなものを感じるし、
かっての日本での人たちとのお付き合いも、いつもは離れて会えないだけに絆が固くなるような感じである。
日本にいる短い1カ月ほどを、それこそ精いっぱいに、遊んでいる。
子供たちだけではなしに、このごろの『アラウンドフォ―テイー』はお金がないないと言いながらも、よく遊ぶものである。


★そんな日本での夏休みも、あっという間に過ぎて、今度の日曜日にはアメリカに戻っていくことになっている。

アメリカでは安く買える土産物をカバンいっぱいに詰めて持ってきたが、今度は日本でしか安く調達出来ないものを一杯買いこんで持って帰るようである。
ラーメンとかのスーパーで売っている普通のものだが、アメリカで買うと高いそうである。
三木の焼肉屋の『こざる』の焼肉のたれも買って帰るはずである。
お米もそうだし、うどんも、そばも焼肉も、みんな日本の食いものは繊細で『旨い』ことは間違いない。


★アメリカで住んだことはないが、アーヴアインのあの辺りは、カワサキのオフイスにも近く何となく雰囲気は解っている。

そこでのアメリカの生活も、もう5年以上になって、
子供たちは、特に小学校4年の下の子は、日本文字よりヨコ文字の方が読みやすいのかもしれない。
道路標識の長いローマ字も一瞬のうちに読んでしまう。
上の二人は2年前に英検2級に通って、この夏は英検準1級を日本で受けて通っていた。
満点38点のうち35点だったが、マイナス3点は態度が悪かったかな?などとうそぶいていた。
英語を学問と言う感覚はぜんぜんないようで、通って当然という態度は半分アメリカ人である。

中学校の方はまだ何とかなるが、下の小学4年生は日本語は話せるのだが、大人の人と話すときの言葉遣いが何処でも『身内語』のレベルである。
アメリカは誰でも、You だし、先輩後輩もほぼ同等なので、仕方がないのかもしれない。
中学2年生の次男は、こちらのサッカー部に入れて貰ったら、1年生がちゃんと先輩扱いにしてくれて喜んででいた。


★温泉はいいし、バスはあるし、食べ物は旨いし、日本もいいところいっぱいである。
市役所の対応の良さなどは、アメリカと比べたら段違いによくて『感激』するくらいのレベルなのだが、
滞在中に、向こうの生活にも慣れた娘が漏らした幾つかの話、これは日本のよさなのか、あるいは欠点なのか?

●『信号を守らない』
確かに兵庫県は信号を守らない。黄色の信号で止まる車など皆無である。
札幌で2年暮らしたが、札幌では黄色の信号でちゃんと止まる。多分冬の交差点が危ないので、夏にもその習慣はそのまま残って守られている。
兵庫県が悪くなってしまったのは、多分あの阪神大震災の時の裏道の大渋滞からだと思っている。

●アメリカの人たちは決めたルールはちゃんと守る。これは徹底している。
横断歩道を人が歩いて渡ることなどめったにないのだが、人が渡っているときは渡りきるまで停車である。
日本のように半分渡ったらGOなどいい加減なことをすると必ずポリさんに捕まると言う。
警官の数が日本と全然違って何処にでもいっぱいいるそうである。

●警官の数や、公園の管理などは徹底してやるから、税金は高いが住宅地も公園と同じレベルで綺麗である。
犬のふんなどの対策も日本とは比べ物にならぬくらい徹底していて
行政が入れる袋から捨てる場所、かごまで用意万端整っている。
日本のように、糞を持って帰れとはいうが、その糞をみんなどのように処理しているのだろうか?
そこまでは行政は考えない日本と違ってどうすれば最後まで対策できるかを考えているのである。



●社会で、『人に迷惑をかけない』と言うのが一般的である。
小学校の子供は、親の付き添いなしには公園も歩けないし、独りで留守番もダメである。
キャンプ地など決められたところ以外でバーべキューなども酒を飲むこと自体が禁止だそうである。

多摩川のバーべキューや花火、飲酒など、考えられない出来事のようである。花見の風習も勿論ない。

●アメリカは危険は自らが注意して守れと言うのが一般的である。
山道にガードレールなどはないし、ましてや池にフェンスなどあったりはしない。

日本は税金が、役所の建物やガードレールやものに使われ過ぎであるよのも思う。
何処の役所も立派だし、道なども綺麗である。ちょっとやり過ぎかなと思う。


★勿論、日本もいいところいっぱいだが、海外生活を経験した日本人もだんだんと多くなる趨勢だから、
アメリカの良さなどは是非身につけて、一般社会の中で『世界の常識』として広まればいいなと思っている。
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100歳以上の高齢者

2010-08-05 05:27:03 | 発想$感想
この数日、NHKのニュースの冒頭は、100歳以上の高齢者の話題である。

一昨日も『高齢者社会の思うこと』とその感想を述べたが、現実に101歳の母と一緒に暮らしているものとして、率直な感想を述べてみたい.


★今の現状がどうなっているのかちょっと調べてみた。

もっとも如実に実態が解るのがこのグラフである。

変化が急激過ぎてこんな実態であるという認識が一般にはないのだろう。
少なくとも私はこんなことになっているとは知らなかった。ぜひ、このグラフはご覧ください。

50年前は、100歳以上の人は全国で200人以下、100歳以上生きる人など珍しいことであった。
30年前でも、全国で1000人の水準なのである。

ところが、そのころからの伸びはまさに急激で今年などは5万人に達する勢いなのである
行方不明が30名と聞いて驚いたが、100歳以上が48000人と聞くと、30人ぐらいが行方不明も仕方がないのかと思ってしまうのである。


★昔、100歳以上は珍しいことであったが、今はそんなに珍しいことではないのである。

私の祖母は102歳で亡くなった。
100歳を迎えたときには、確か知事さんがお祝いに来られたと思う。
祖母の葬儀には、明石のあちこちの老人会の方がお見えになった。それくらい珍しいことだったのである。

母は昨年6月100歳を迎えた。
おめでたいこととして、三木市長からも県知事さんからもお祝いを頂いた。
祖母の時と違って知事さんの訪問などとても無理なのはよく解った。
三木市からはお祝いを持ってどなたかが訪問されると連絡があったが固辞して、私が役所までお祝いの品を貰いに行ったのである。
家に来ていただいたらそれなりのことはしなくてはとも思うし、たいそうなのである

祖母の時もそうだったが、身内のそれもすぐそばに毎日一緒に暮らしているものにとっては、
100歳はそんなに 『おめでたいことでもない』のだと思う。
これは、私の実感でもある。

昨年の100歳の母の誕生日には、いつもはそばにいない妹たち4人で祝って貰って、私たち夫婦は『息抜き』をさせて貰ったのである。


★昔、100歳が珍しいころは、日本の家庭環境も今とは全然異なっていた。その中には元気な若い人たちもいることが多かったはずである。
今は、その環境が全然違う。私たちは親を見ているが、私の子供たちの年代では親と同居というのは異例だろう。
と言うことは、100歳の年よりの面倒を見るのはどう考えても70歳以上が必然なのである。

これは、90歳以上の高齢者と一緒に暮らしている人たちも、多分同じような感想を持たれるだろう。
最近はまだ60歳は」元気だが、それでも30や40代の人とは全然違うのである。

90歳以上で一人暮らしをするとすれば、それはどんなことになるのか、祖母や母を実際に見てきたものとすれば、
『一人暮らし』は、ちょっと現実的に無理だと思う


★90歳以上の人たち、段階的にと言うのならまず『95歳以上の高齢者』は、家族ではなくて国や行政が面倒をみる体制をとるべきだろう。
ましてや、『独り暮らし』などさせていたら、『行方不明』など出て当たり前である。

とにかく最初のグラフを見て考えてほしい。
現在は日本に人が生きてきた老年期の実態が今までに未経験な『とんでもない時代』に入っているのである。

当人は何を言ってもだんだんと解らなくなり、仮に頭で解っても体が動かない。
世話をする方も、年寄りでやってあげたくても、なかなか思うようにはできない。
私たち夫婦などは、まだ例外的に元気なので何とかなっているが、ちょっと健康的に問題があったりすると無理なのである。

誤解を生む発言かも知れぬが、100歳以上の長生きなど『あまりお目出たくない』時代になりつつある。
生きている本人も半ば本音で思っているようだし、周囲の人たちとて、面倒なら見るが介護はとてもと言うのが本音だろう。

70歳を超えた子供たちが、その親の面倒や介護を避けたがる気持ちはよくわかる。

我が家の母は、例外的に元気だったのでまだよかったのだが、どうも最近は急激に弱ってきた。
101歳なのだから当然である。
そんな100歳以上の方が、5万人もいるとは驚きである。


★個人だから勝手なことを言っているのだが、国や行政が具体尾的な対策を立てるのもまた大変であろう。
しかし、従来のままではちょっとどころか、大いに問題である。
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巨樹 巨木の繋がり

2010-08-04 05:11:55 | 樋渡啓祐さんのこと
★昨日の武雄市長物語は、『九州巨木物語』です。

佐賀と、熊本と鹿児島のクスノキの巨木を繋いで、地域の連携や観光客の周遊を促す、というものですが、

それがこんなに大きく取り上げられるところが値打ちです

他の地区で同じようなことをしても、なかなかこう大きくは取り上げて貰えないでしょう。
この3地区の中に佐賀県武雄市の樋渡さんが入っているので、
あの市長さんが入っているのなら、また何か続いて面白いことが起こるかもしれないと、そんな期待感みたいなものがあるのだろうと思います。


★大昔からそこに存在していたクスノキは、今までもそれなりに有名ではあったのですが、
それは、日本の巨樹、巨木として、こんな風には既に紹介されているのです

今そこにあるものの価値を見出して、時代の流れを読み、周遊イベントに結び付けていく『カン』みたいなものが素晴らしいと思います。
簡単なこのなのですが、ほとんどの人が見逃してしまいます。

ご本人が言っておられるように、ひょんなことからこの話はスタートしています。
今あるものを、ちょっと繋いで。 熊本だけではなしに鹿児島をさらに繋いだところが、いろんな意味でいいなと思います。

二つでは、周遊にはなりませんが、三つあることで『周遊』と言えるところがキーでしょうし、旅行会社なども企画が立てやすくなると思います。

●ちょっと、関連してexciteでは、こんなブログをアップしました。『発想』の問題提起です




★大きな木と言うのは、それ自体で風格がありいいものだと思います。大きな木があるところは大好きです。
そんなことで、神社、仏閣などがいいと思うのかも知れません。

武雄ほどではありませんが、三木にも大きな木があちこちにあります。

たまたまですが、今朝のkwakkyさんのブログは神社の大杉の話です

ご神木として樹齢500年以上と言われています。  



武雄の楠も、鹿児島の楠もこんなに立派です。





★私たちが住んでいる三木市緑が丘町は新しく開拓造成された街でもう40年近くになるのですが、
町が出来たころに有志の人たちが植えた楠の木があります。

それを記念樹にしようと言う動きもあって、kwakkyたちと一緒に賛同はしているのですが、
三木のいろんな、何か物語になるような樹と繋いでと言う話もありました。

40年も経つと結構大きいのですが、この写真の楠を見ると、これはやはりすごいなと思います。

三木にも大きな樹はないのかなと、探してみましたが、残念ながらありませんでした


樹では、なかなか繋げませんので、もっと簡単な 『人を繋いでいきたい』 と思っています
















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高齢者社会に思うこと

2010-08-03 05:44:52 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
★今、NHKで高齢者社会の問題をやっている。
高齢者社会での死と直面するなかでの生き方や葬儀のあり方などを取り上げている。


★他人ごとではない、間違いなく我が家も高齢者家族である。
家族構成は3人、わたしたち夫婦に母がまだ健在である。
母は明治42年生まれ101歳と1カ月である。私も後期高齢者77歳、家内が73歳。

母は最近までまずまず自分のことは自分で出来ていた。
1ヶ月のうち24日は、ショートステイで養老施設でお世話になっているのだが月に2回は家で過ごしている。
そのパターンは変わらないのだが、ごく最近になって、どうも衰えが目に見えて進行している。

杖は持っていたが、手をひかなくても歩けていたのがもう手を引かないと危ない。
眼底出血で病院に通いだしたが、先週初めて車椅子を借りて、駐車場からの移動につかった。

★今までは、母の面倒はみていたが、『介護』という概念はほとんどなかったが、今後は『介護』が必要になるだろう。
最近は言葉の使い方が難しくて認知症と言うのだろうが、昔の言葉のボケが急激に進行した。
個人的には認知症と言う本当に病気のように思われる言葉よりはボケの方が響きも明るくていいと思う。

本人もそれを認知して、最近口にする言葉は、
『最近は、何にも解らなくなってしまった』と
『早く死にたい』である。

今までは、結構しっかりしていたので、自分で出来なくなってはがゆいのだと思う。
『自分で何もできないのなら、死んだ方がいい』と言うのも実感のようである。
それに101歳になったことは、ちゃんと解っていて『どうせそんなに長くは生きないのだから、痛い目の治療などは受けたくない』という。
これも本音のように思う。

こんな母を見ていると、人間弱り切ってしまう前に死を迎える方が幸せのように思う。
もし98歳ぐらいで亡くなっていたら、ほとんど思い残すこともなく『早く死にたい』などと口にすることなく人生が終われたのにと思ったりもする。
私の祖母も102歳で亡くなった。その祖母も98歳ぐらいまでは元気だったのに最後の2年間は寝たきりであった。

★今は介護施設などもいろいろとあって、やり易くはなっているが、
母もこの後、どんなことになるのか?
家にいる間が3日ぐらいならいいのだが、5日にもなると結構大変なのである。

家族構成のあり方もいろいろ問題を含んでいる。
みんな核家族になって親が同居の世帯が少なくなった。
確かに、嫁姑の関係はよほどのことでない限り、うまくはいったりしない。
そういう意味では、昔で言う養子の関係がいいと思う。

今アメリカから娘と孫が戻ってきているが、ずっとこちらにいてなかなか夫の親の方には寄り付きたがらない。
たまたま今日はそちらに顔を出しているが、またすぐ戻ってくるだろう。
今朝までは、母が家にいたのである。
孫たちもボケの進行した母を珍しいものを見るように見ていたり、先日はトイレに行く母の面倒を見たりもしたのである。

そんなつまらぬことでも、してくれたら助かる。
日本の核家族の家庭環境もちょっと考え直したらいいのではないかと思ったりする。

★NHKの放送でやっていた葬儀の問題も、今後は変わっていくだろう。

今日はお盆で明石の長寿院の住職がお参りにこられた。
この応対などももっぱら母の担当であったのだが、今は私が対応せざるを得なくなっている。
伯父が長寿院の檀家総代などもしていたので、お寺さんも気を使われているのだと思う。
私は本音で、そんなことが面倒で明石から新天地三木に移ってきたりしたのだが、
母の葬儀は至極簡単に身内だけでやろうと思う。これは母もその通りに思っている。
101歳も長生きしてしまうと、母の知っている人たちはみんな先に逝ってしまわれているのである。

母が亡くなる時、私が生きていたら間違いなくそうするが、世間の目などもあって簡単にするのもまた難しいようである。
葬儀は不要と言う遺書まで書いて亡くなった方の葬儀も、普通一般の葬儀と同様に行われたりした。

★こんな高齢者社会になって、独居の人たちも多い。
しっかりしているうちはいいが、母などを見ていると、これがもし一人なら大変である。
近所の人の助けなどでは、間違いなく追い付かない。

しかし、そうなってしまうことが必然のような今の高齢者社会である。
単なる年齢ではなくて、実態に応じた対応が要るのだろうがその基準がまた難しい。
母は今でも介護1級である。
その資格では、養護施設には申し込んでも入れないのである。

先日も施設の方から、『申し込みを出すように』言われているのだが、
その一方で、『介護1級』では入所は難しいのである。

『入れて頂けるのなら出しますが、いつかわからないでは出す気になれませんね』
『101歳ですから、そんなに待ってたらそのうち死んでしまいます。』
と申し上げたが本音である。
せめて95歳以上は、等級もあるが年齢も間違いないので、年齢基準でも作れば、113歳まで、生きる人も少なくなるのではと、おもったりする。

親が95歳になれば、それを介護している子供も間違いなく『老人』なのである。
老々介護は、これは大変だと思っている
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