★このブログに沢山のカテゴリーがある。
『Twitter』 『ブログ関連』 『発想&感想』 『みっきぃふるさとふれあい公園』 『カワサキワールド』 などなどいっぱいあるが、
一つにまとめて総合的に言うとすれば、 やはり 『NPO』 なのかも知れない。
昨日はそんなNPO法人 The Good Times の理事会と運営委員会があった。
理事会は法人としての検討、決定事項など、小なりとは言え法人なのだから議事録も要るし、もっと言えば議事録署名人も必要である。
私の一番苦手のところだが、そこのところは管理ならベテランのタッチャんや、経理の現役専門家のヨシシュンさんや、
一流上場企業の監査役でも100%通用するjhojinさんなどが、全部引き受けてくれるので、それこそ大船に乗った気分で、
私はやりたいことを自由にやれる体制なのである。
もっぱら運営委員会と称する、なんでもありのフリーデイスカッションで、主として『仕組み、システム』を担当している。
『仕組みシステムの創造』などは日本人が最も不得意とする所で、私は不思議なことにそれが専門みたいなものである。
NPO法人 The Good Times 自体が 『仕組みシステムそのもの』 で、ブログやツイッターみたいなものだから、それ自体は何もしなくて、
参加した会員さんがこのシステムを上手に利用しない限り何も起こらないのである。
『このNPOは、何をするのですか?』 というみんながよく発する質問は、
『このブログは何をするのですか?』
『このツイッターは何をするのですか?』 と聞いているのと同じことである。
★そんな仕組みとしての NPO The Good Timse は、システムとしてどんどん進化している。
そのひとつがホームページであり、会員さんのブログも、会員さんのツイッターも、今日本で最先端の仕組みを使って仕上げられている。
興味のある方は、じっくりご覧になってみてください。
特に『ツイッター』については、NPOの公式ツイッターとして、その情報発信力を強化するために、フォロワーの増強を一つの目標に進めてきた。
その第一段階の目標であった『5万人』が、3カ月で達成できたのである。
数だけが力でないことは勿論だが、このペースは半年で10万人、1年で20万人とトップ水準である。
全国でも130位ぐらい、
兵庫県で言えば、村上春樹さんに次いで2位なのである。 多分近いうちにトップになり全国でも100位以内に入るだろう。
そんなトップクラスの情報発信力を、NPOの団体会員さんや個人会員は使うことが可能なのである。
まあそんな、第一段階のレベルがクリア出来た。
冒頭に書いた、いろんなカテゴリーの目指す目標は総合的なものだから、そんな総合的な目標の実現に対応できる高度な仕組み作りにチャレンジしているのである。
★今、このシステムは、カバン屋さんや、兵庫メグロのthiraiさんが使い始めたところだが、
是非今後進めたいプロジェクトとして、『潮流発電』や、『まちの活性化』などがある。
『元気な三木を創る』などには、格好の総合システムである。
商店街であれ、イベントであれ、スポーツの活性化も、観光誘致もなんでもOKなのである。
少々大きな企業行政が大きな目標で進めても、十分大丈夫なのである。
ブログやツイッターが個人でも企業でも行政でも使えるのと同じである。
それに『対応できる仕組みのNPOのシステム』を立ち上げることが当初からの目標なのである。
そう言っても、なかなか理解していただくのは、難しいかも知れない。
昨年6月スタートして1年、一つの区切りの時点に今、到達した。自分で勝手にほっとしているのである。
来年の今頃、果たしてどうなっているのだろうか?
★戦時中はソウルにいたので、爆撃もなかったし、特に戦争をしているという実感はあまりなかった。
あったとしたら、昭和20年敗戦の年に中学に入学したが、学校にはほとんどいかずに、家のすぐ裏の山で、学徒動員で松根油をとるために毎日のように松の根を掘ったぐらいのことである。
ただ、内地の空襲のニュースなどは入っていて、この戦は負け戦だとは何となく感じていた。
食糧事情もよかったし、疎開などは何もなかったのである。
皮肉なことに、その年朝鮮は豊作で米は一斗が100円だった。
★日本に引き揚げてきて、一番びっくりしたのが食糧難であった。
米もたばこもみんな配給で、いわゆるヤミ市場はあったが、米は一升が100円、朝鮮の10倍もしたのでよく覚えている。
絶対量が不足していて、買いたくても米がなく、田舎の農家に買い出しに行くというような状況であった。
米が不足していたので、麦を混ぜるぐらいはまだましな方で、芋やらトウモロコシを入れて米を炊いていた。
『ご飯の量を増やす』ことが目的で、混ぜると健康にいいとか、それがおいしいなどと言う発想などは全然なくて、ただひとえに量を増やすことが目的だったのである。
大体、どこの家も米の飯などは食えなかった時代である。
終戦の年が昭和20年だが、翌年からの中学校3年間はもっとも食い盛りであったのに、食糧難で腹いっぱい飯を食った経験などないのである。
高校1年生の夏、野球部の夏の大会前の合宿で、コメの飯が腹いっぱい食えて、それが飯を一杯食った最初であったように思っている。
高校2年の時、福井県の武生に遠征した時に、お土産に米一升づつ頂いて喜んで持って帰ったぐらいだから、都会の食糧難は、朝鮮戦争が始まった昭和25年ころまで続いたのだろう。
朝鮮戦争で一気に経済が回復し、日本の復興が始まりだしたのである。
★そんな状況の中で育ち盛りを過ごしたおかげで、身についたのは、
好き嫌いが、全然ないことである。口に入るもので腹の足しになるものはなんでも食った時代で、好き嫌いなど贅沢なことは言っておられなかったのである。
それと早飯である。早く食わぬと人に食われてしまうので、どうしても早食いになっていた。
そのころは、まだ明石の上の丸に土地だけは何千坪も残っていて、いもを植えたりトウモロコシなどはいっぱい植えていた。
元々畑などではないので、土地は痩せていたがサツマイモぐらいは植えたら育った。
幾らかでも、土地を肥やすために、拾ってきたのが馬糞である。
自転車の荷台に一斗缶を積んで、明石市内を走ったら、馬糞はすぐいっぱいになるほど拾えたのである。
いまどき、想像もつかないだろうが、それくらい馬車が道を通っていた時代なのである。
農業のまねごとみたいなものだったが、いくらでも耕せる土地はあったが、とても全部畑にすることなどは、体力的に無理でその一部を畑にしていた。
芋も育ったが、トウモロコシもよく育った。
ただ、育つだけで多分今の時代なら家畜の餌にする種類のもので、決して旨いものでもなかった。
配給でも『なんば粉のパン』などもあったが、パサパサして今ならとても食えるようなものではなかった。
そんなことで『トウモロコシ』の印象は、ごく最近まで非常に悪かったのだが、もう一度食いだしたのは札幌にいたとき北海道のトウモロコシに出会ってからである。
★こんな食糧難の時代に育ったからか、
私は『旨いものを食いたい』というか、贅沢な高価なものを食したいという美食の感覚はほとんどない。
逆に、世間一般の普通の食いものは、どれも結構旨いと思っている。
何処の料理がうまいとか、何処の鮓屋が旨いとか、世の中は美食の時代だが、そんなのは勝手に造られた伝説みたいなもので、実際にはそんなに違いはない。
一流の鮓屋も回転ずしもホントはそんなに違いがないと思っている。
反論があるかも知れぬが、私の正直な感想である。
会社の現役時代も、今と違って交際費などいくらでも使える時代であったが、私はほとんど一流店とは縁がなかった。
連れて言って貰ったことはあるので一流店と称する店の味を知らぬわけではないが、
一流店のお高くとまった雰囲気はどうも性に合わなくて、そんなところに自ら進んで行く気にはどうしてもならなかったのである。
こんな、ひとえに食いたいと思った時期を3年間ほどだが経験できたことは、
今の人たちは逆立ちしても経験できないことで、貴重な経験だと思っている。
あったとしたら、昭和20年敗戦の年に中学に入学したが、学校にはほとんどいかずに、家のすぐ裏の山で、学徒動員で松根油をとるために毎日のように松の根を掘ったぐらいのことである。
ただ、内地の空襲のニュースなどは入っていて、この戦は負け戦だとは何となく感じていた。
食糧事情もよかったし、疎開などは何もなかったのである。
皮肉なことに、その年朝鮮は豊作で米は一斗が100円だった。
★日本に引き揚げてきて、一番びっくりしたのが食糧難であった。
米もたばこもみんな配給で、いわゆるヤミ市場はあったが、米は一升が100円、朝鮮の10倍もしたのでよく覚えている。
絶対量が不足していて、買いたくても米がなく、田舎の農家に買い出しに行くというような状況であった。
米が不足していたので、麦を混ぜるぐらいはまだましな方で、芋やらトウモロコシを入れて米を炊いていた。
『ご飯の量を増やす』ことが目的で、混ぜると健康にいいとか、それがおいしいなどと言う発想などは全然なくて、ただひとえに量を増やすことが目的だったのである。
大体、どこの家も米の飯などは食えなかった時代である。
終戦の年が昭和20年だが、翌年からの中学校3年間はもっとも食い盛りであったのに、食糧難で腹いっぱい飯を食った経験などないのである。
高校1年生の夏、野球部の夏の大会前の合宿で、コメの飯が腹いっぱい食えて、それが飯を一杯食った最初であったように思っている。
高校2年の時、福井県の武生に遠征した時に、お土産に米一升づつ頂いて喜んで持って帰ったぐらいだから、都会の食糧難は、朝鮮戦争が始まった昭和25年ころまで続いたのだろう。
朝鮮戦争で一気に経済が回復し、日本の復興が始まりだしたのである。
★そんな状況の中で育ち盛りを過ごしたおかげで、身についたのは、
好き嫌いが、全然ないことである。口に入るもので腹の足しになるものはなんでも食った時代で、好き嫌いなど贅沢なことは言っておられなかったのである。
それと早飯である。早く食わぬと人に食われてしまうので、どうしても早食いになっていた。
そのころは、まだ明石の上の丸に土地だけは何千坪も残っていて、いもを植えたりトウモロコシなどはいっぱい植えていた。
元々畑などではないので、土地は痩せていたがサツマイモぐらいは植えたら育った。
幾らかでも、土地を肥やすために、拾ってきたのが馬糞である。
自転車の荷台に一斗缶を積んで、明石市内を走ったら、馬糞はすぐいっぱいになるほど拾えたのである。
いまどき、想像もつかないだろうが、それくらい馬車が道を通っていた時代なのである。
農業のまねごとみたいなものだったが、いくらでも耕せる土地はあったが、とても全部畑にすることなどは、体力的に無理でその一部を畑にしていた。
芋も育ったが、トウモロコシもよく育った。
ただ、育つだけで多分今の時代なら家畜の餌にする種類のもので、決して旨いものでもなかった。
配給でも『なんば粉のパン』などもあったが、パサパサして今ならとても食えるようなものではなかった。
そんなことで『トウモロコシ』の印象は、ごく最近まで非常に悪かったのだが、もう一度食いだしたのは札幌にいたとき北海道のトウモロコシに出会ってからである。
★こんな食糧難の時代に育ったからか、
私は『旨いものを食いたい』というか、贅沢な高価なものを食したいという美食の感覚はほとんどない。
逆に、世間一般の普通の食いものは、どれも結構旨いと思っている。
何処の料理がうまいとか、何処の鮓屋が旨いとか、世の中は美食の時代だが、そんなのは勝手に造られた伝説みたいなもので、実際にはそんなに違いはない。
一流の鮓屋も回転ずしもホントはそんなに違いがないと思っている。
反論があるかも知れぬが、私の正直な感想である。
会社の現役時代も、今と違って交際費などいくらでも使える時代であったが、私はほとんど一流店とは縁がなかった。
連れて言って貰ったことはあるので一流店と称する店の味を知らぬわけではないが、
一流店のお高くとまった雰囲気はどうも性に合わなくて、そんなところに自ら進んで行く気にはどうしてもならなかったのである。
こんな、ひとえに食いたいと思った時期を3年間ほどだが経験できたことは、
今の人たちは逆立ちしても経験できないことで、貴重な経験だと思っている。