雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

『コロナ』で政治の世界も変わらないかな?

2020-07-16 05:55:49 | 政治

★このブログにも『政治』というカテゴリーもあるのだが、
最近は政治に関してアップした記憶も少ないのだが、
回数でいうなら143回目になるのである。



昨日のニュースの中にこんなのがあったので、ちょっと気になったからである。


 



 安倍内閣はいいと思っているのは、
 『憲法改正』をずっと旗印にしてやってきていて、
 ひょっとしたら『実現するかも』と思っているからなのだが、
 その『安倍政権』も昨今は支持率も下がったし、
 ホントに、『憲法改正』やれるのか? 少々不安になってきた。

 そんな時に『維新との連立』という話や、
 いま、日本で注目されている『吉村知事』が官邸と話をしたというのである。



 




 これは『コロナの話』だとは思うが、
 私は政党支持で言うなら、断然『維新』なのである。
 『日本維新の会』はこのような政党なのである。

 
   日本維新の会の目指すところ
   旧態依然とした政治。増え続ける国民の税負担。
   この国の政治は、戦後の古い体質のままあり続けています。
   真の改革を進めなければ、この国に未来はありません。
   政治家のための政治をなくす
   本当に支援を必要としている人のための、
   国民の皆さまのための政治に変えなければなりません。
   私たちには、大阪で改革してきた実績があります



 今の自民党では『変わらない政治体質』が維新と組めば、変わるかな?
 と思ったりするし、
 今は吉村人気だが、
 何よりもこの人『橋下徹』が政界に復帰することを期待なのである。

 その吉村さんが橋下さんに政治の世界に復帰を呼び掛けている。


 




★『橋下徹』が政治の世界に戻れば、間違いなく『政治は変わる』と思うが、

 その可能性がない限り『橋下徹』は政治の世界などには戻らないだろう。

 どんな状況になれば『橋下さんは戻るのだろう?』
 これはなかなかムツカシイが、
 まずは政局が大荒れに荒れることが必要だし、
 『世の中が変わる』可能性があることが条件となるのだろう。

 そういう意味では、『コロナ問題』もあるし『自民党が荒れそうだし
 そんな中での『憲法改正』の時期もこの1年の間に動きがあるのだろう。


★私は右翼ではないと思うが、
 子どもの頃『紀元2600年』を迎えた日本の時代を知っている。
 あの時代を戦後は『ボロカス』に言うのだが、
 『大東亜共栄圏』を目指した方向はそんなに間違っていなかったと思うし、

 事実、結果はアジア各国はそれぞれ独立国となったのである。

 
   兎に角、今の自民党の政治の基盤は『維新』が言うように、
 『政治家のための政治』で、
 政治家が職業化してしまっている。
 国会議員の給料を下げようと言ってるのは『維新』だけである。

 戦後が変わったように、それから70年も経った日本は
 兎に角『変わらないとダメ』である。

 あれだけ『ダメで無視され続けた大阪』が、今は注目の的なのである。
 『大阪都構想』もようやく、この秋には実現するかも知れない。

 常識的に考えて、
 今の世の中にこんなに細分化さてた県など全く不要だと思う。
 そこに投じられる『税金の無駄』『知事や議員の給与』だけ見ても無駄で、
 『政治家のための政治』になってしまっている。

 『コロナ』で世の中は変わりつつある。
 『政治の世界』が一番先に変わらないかな、と期待しているのだが・・・・



 
  
 
 
 
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なぜ地図が好きなのかな?

2020-07-15 06:41:18 | 発想$感想

★ なぜか解らないのだが、私は地図を見るのは好きである。
  だから Google マップはお気に入りに入っていて、
  毎日1回は開いているのだが、

  どうも Google マップが新しくなったような気がする

  今日、こんな地図の現れ方をして、こんな感じは初めてなのである。
  淡路島も、神戸市も、いま住んでいる三木もこんな立地になっている。

 



 ちょっと拡大すると、
 明石市上ノ丸2丁目の懐かしい私の出生地もこんな感じで現れた。





 
    明石公園に隣接していて、昔はこの堀は公園の外堀で、
 今の競技場は、その外堀を埋めて造られたのである。

 私が高校2年生の頃だったと思うが、
 その当時はまだ本家の伯父もいて、青く囲ったところが全て、
 上の丸2丁目720番地だったのだが、今は20軒ばかりの家が建っている。

 
 今はこの明石から、三木に移り住んでもう50年にもなろうとしている。
 その三木の緑が丘に住んでいるのだが、
 こんな感じで写ったのは初めてなのである。


 上のゴルフ場は名門廣野ゴルフ倶楽部だが、
 今は青い印の辺りに家がある。

 



 同じGoogle マップの写真だが、
 我が家がこんな感じで写ったりするし、

 

 

 
 廣野ゴルフ倶楽部のクラブハウスの辺りを拡大すると、こんな感じになる。
 ゴルフ場のすぐ前が、神戸電鉄廣野ゴルフ場前駅なのである。
 もう80年以上の歴史があるのだが、
 戦前は電車に乗ってゴルフ場に来てたのかも知れない。
 



 

 三木は25もゴルフ場はあるのだが、
 家から20分も走るとこんな感じで、ゴルフ場はいっぱいなのである。






 ホントにこの地図はオモシロくて飽きない。

 これが毎朝、スロージョッギングしている三木総合防災公園なのである。
 こんなに広い公園の中の道を、毎朝コースを変えながら1時間ほど走っている。

 



★こんな地図を見ていると時間の経つのも忘れてしまう。

 これは世界地図だが、
 大学の入試に『地理』を選んだら、
 試験問題が『世界地図を描いてその中に入れよ』という出題で、
 『ジブラルタル海峡』とか、『子午線』などが出たのである。
 
 子午線は『出生地明石』を通っているのですぐ解ったが、
 その南は、カンで、『オーストラリア』だろうと思ったが、合っていた。

 ジブラルタル海峡も解ったし、地図の点が良かったので、
 大学入試も通ったのかも知れない。
 
 


 友達に聞いたら、世界地図自体がなかなか描けなかったそうである。

 Googleマップを見ながら、そんな大学入試の問題などのことを想いだした。
 『好き嫌い』などは、幾つになっても変わらぬものである。

 然し、Google マップもスゴイと思う。
 家の前に止めてあった車も写っている。
 どうも、至極最近の写真のように思う。
 どうしたら、こんなことが出来るんだろう?




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野球部の昔話を・・・

2020-07-14 06:40:32 | 発想$感想

★私はかっての神戸商大、今の兵庫県立大学の野球部卒業である。
 昨年だったか『90周年の記念イベント』があったのだが、
 今回『100周年に想いを馳せて』 淡水球誌を発刊するので、
 『何か当時の想い出話』を書けと言う依頼があったのである。

 期限は9月20日とあったのだが、
 私はなんでも放っておくのが嫌な性分で、昨日纏めて送ったのだが、
 このブログにも掲載して、当時の野球のことなど、ご紹介してみたい。

 以下、送った原稿のままである。




今は兵庫県立大学野球部になっているが、私が入部した昭和27年(1952)は神戸商科大学野球部だった。
OBの中でももう最古参に近いところにいるのだが、そんな70年も前の昔話の一端を纏めてみたい。
 
私が入部した昭和27年(1952)当時は、私は明石高校出身なのだが、兵庫高校・加古川東・加古川西など兵庫県の高校出身者が多くて、特に兵庫高校は主将の剣持さん以下、田中・半田・家城・鎌田さんなど所謂神戸二中の人たちが多くて、当時の兵庫県は今と違って公立高校が強かったし、兵庫高校も明石高校も所謂『甲子園出場組』だったし、加古川東・西高なども東播では明石と並んでの強豪校だったのである。
2年上のキャプテンが太田武郎さん、マネージャーが多田和昭さんというOB会お馴染みのメンバーで同期には田中・岩田・原などの他、マネージャーで西馬、1期下が小野田・戸田・大村・山下・財田などなどいいメンバーだったと思う。

 当時は関西6大学と近畿6大学があって、関西6大学は西宮球場で、近畿6大学は甲子園球場でリーグ戦が行われていたのである。近畿6大学には近大がいて常に優勝していたのだが、神戸商大はその中では2、3位というそこそこの成績を残していた。
 当時は兵庫県の夏の大会の予選も甲子園球場だったし、私が生涯一番多くプレイした球場は甲子園球場というウソのようなホントの話なのである。

私は1回生からレギュラーでショートを守っていたのだが、打撃よりは守備の方では結構自信もあったし、華麗に守れていたと自分では思っている。
ところが、2回生の秋のリーグが終わってから肺浸潤になってしまって、3回生の春は休んで、それ以降ももう一つ自分のプレーには打ち込めなかったのだが、1年上の竹下章さんが軟式野球出身だったこともあって、チームの指揮などもとっていたのである。

昭和31年(1956)に卒業のはずだったのだが、健康のこともあって1年卒業を伸ばしたのだが、当時の野球部長田中先生に頼まれて、5回生の時は正式にチームの監督をしていたのである。

この時のメンバーは1回生に小山修身くんが入部して、ひょっとしたら野球部史上一番実力的には揃っていたかもしれない。
 秋のリーグには近大には惜しくも勝てなかったが、小山が市大2-0、工大1-0、工大0ー0、経大4-0、経大5-0と5試合連続、完投完封して、連続53イニング無失という「学生野球日本記録を樹立」したりしたのである。

小山ー戸田のバッテリー、南・山下・岡田・橋本の内野陣、米沢・財田・大村の外野陣など、今考えても相当なチーム力だったと思うのである。


私が4回生の時のメンバー表があるので、添付しておこう。

  




それとその時のリーグ戦の展望記事などもあるのでご参考に。


   



当時は金属バットではないし、ヘルメットもなかった、昔の野球である。
昔は強かった』とOBはみな言いたがるのだが、今の野球とは『体力』が全く違う。
当時の甲子園は広すぎて、プロでもホームランが出ないのでラッキーゾーンがあったのだが、少なくとも近畿6大学ではさく越えのホームランを見たことがない。
そんなレベルの野球だった。

 私自身リーグ戦で、『ホームランか?』と思ったほど飛んだ打球が1回だけだがあるのだが、惜しくもフェンス直撃だったのである。
 私の野球人生で一番飛んだ飛球ということで、自分ではよく覚えている。




★ こんなことを書いて送っている。
 大学時代は、殆ど勉強などせずに、野球に打ち込んでいたようなところがあって、
 神戸商大経営学部卒業ではなく、神戸商大野球部卒と言ったほうがいい。

 学生時代、ホントに野球ばかりに熱中していたように思うが、
 こちらは高校時代

  


 
 大学時代の写真は、不思議なことに全くないのだが、

 こちらは昨年開催された神戸商大の90周年記念OB会で
 生まれて初めての『ティーバッテング』である。

 





 後輩が連続写真を撮ってくれたのだが、
 何とか『サマに』なっててよかった。


 
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三木市の情報 いろいろ

2020-07-13 06:27:17 | 発想$感想


★ 兵庫県三木市に移り住んでもう50年になろうとしている。
 出生地も本籍も『明石市』だが、人生で一番長く住んだ町が『三木市』になった。

 全国的には知名度は低いようだが、
    神戸の隣町で、神戸市と一番長く隣接している、こんな立地なのである。


  




 ご覧の通り、まだまだ緑が多いし、面積も広くて、
 ゴルフ場は25もあって、西日本一なのである。
 
 なぜか『三木山森林公園』の表示が出ているが、
 幾つもある公園の広さも、一般の日本の公園とは桁違いの広さで
 ゴルフ場と同じかそれ以上の広さなのである。


 そんな公園の一つが毎日スロー・ジョッギングとダッシュなどやってる
 『三木総合防災公園』なのだが、さりげなく阪急電車が置かれている。

 なぜ? とずっと思っていたのだが、
 昨日の神戸新聞のネット版に、こんな記事が出ていた。



 


兵庫県広域防災センター(同県三木市志染町御坂)のグラウンドに、鉄道用の車両がある。遠目にしか観察できないが、鮮やかな栗色「マルーンカラー」が目を引く車体は、まさしく、あの阪急電車だ

という三木出身の大橋凜太郎記者の記事である。
それによると

電車に関する訓練の機会」のために阪急電鉄から2車両を譲り受けたようである。
駅付近での事故を想定した訓練で使用されることが多いとか。
8月には、この春に消防学校へ入校した新任消防士が、大地震を想定した救出訓練を行うそうである。」

訓練に使うのかなとは思っていたが、やはりそのようである。



★その三木総合防災公園はこんな立地で、
 直ぐ南にあるゴルフ場と比べても遜色ない広さで、
 毎朝その中のいろんなコースを6キロほど1時間かけて走っている。

 電車が置いてあるのは『青い印』を入れた場所あたりである。
 防災公園となっているが、サッカー場も野球場も
 世界一の屋内テニスコートの『ビーンズドーム』もある
 スポーツ公園でもある。

     




★ こんな自然の多い広大な三木市だから、
 今まで『コロナとは無縁』だったのだが、
 兵庫県が出している情報によると

 7月10日に初めて感染者が出たようで、
 『三木市』と表示されたのは初めてのことである。

 いま兵庫県は738人の感染者なのだが、
 その724人目が三木の30代の男性のようである。
 感染経路は解っているようなので、一安心である。

  

 


★神戸新聞三木版には、こんなニュースも。






昭和30年代の里山環境を復元しようと職員らが立ち上がった三木山森林公園。
外来種を駆除し、芝生広場をかつての草原に戻す取り組みなどが奏功し、カヤネズミやニホンアカガエルといった多様な生物が定着した。』

という連載中の『三木山森公園』の話題だが、
その16回目は『カイツブリ親子』の話題である。

やはり、こんな話題の方が『三木らしくてほっとする


★ 明石で生まれて、
 明石―ソウル―明石ー仙台―高槻ー三木と移り住んで、
 札幌にも2年間単身赴任して、
 いずれもいいところだったと思うのだが、やはり『三木が一番』気に入っている。

 地元の人は『田舎まち』だというのだが、

 自然がいっぱい
 道路は広く
 駐車場は全て無料
 ゴルフ場もいっぱい
 公園も壮大で、
 高速道路は2本も通っていて

 私自身は、勝手に『アメリカみたいな町だ』 と思っている。
 
 『住めば都』とは、昔の人は上手く言ったものである。





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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 17

2020-07-12 05:27:30 | 私の生き方、考え方&意見

★ このシリーズも17回になった。
 今回は『新宿ショールーム』 について
 『私の生き方、考え方&意見』というシリーズの中で纏めてみたい。


   


 
   こんなビルの1階がショールームで、屋上には、こんな看板が掛かっていた。
 上下を占拠していたので、
 『カワサキの自社ビル』だと思っていた人も多いようだった。


 時代はカワサキが国内市場で史上最高の時代、
 『7万台の販売目標を達成した』平成の初期のことなのである。
 ただ、このショールームを創るのには、それなりの葛藤もあったのである。

 確かに場所も立地もいいのだが、
 費用は『看板と共に1億円』も掛ったのである。




 当時の冊子にも髙橋鐵郎さんと共にこのように登場していて、
 確かに『グッドタイム』をお届けしていたのだが、


 



 この時代の『カワサキの象徴』が新宿ショールームであったと言ってもいい。
 何よりもその立地が素晴らしかったのである。

 
★25年も経つと場所もはっきりとは分からなかったのだが、
 当時ここを本拠にしてた植村武くんが
 Facebookでいろいろ教えてくれてやっと解ったのである。
 
 地図ではもう一つ解らないが、ちょっと道路がカーブしているので、

 
 

 

 真っ正面にビルも看板も見えて、
 JRの車窓からも真正面に見えるという『最高の立地』だったのである。

 

 


 
これは植村くんが送ってくれた『Googleマップ』から
いろいろやってみた写真なのだが、こんな感じに見えるのである。



★1989年からの10年間の私の最後の国内販売担当時代のことをこのように纏めている。

  
    



そんな中に、平成4年5月『ショールーム・新宿看板設置』という項目がある。
このシリーズ、100回ほど続くかな』と言ってるのはこんな項目を拾っていけばいいので、ホントに幾らでも材料はあるのである。


   



★この年の8月には東京営業所はこのビルの3階に事務所を移していて、
まさに『カワサキのビル』のような感じだったのである。

当時の二輪の販売店はまだまだ『綺麗』とは言えない時代だったから、
このショールームは立地と共にひと際抜きんでていて、
自工会の二輪部会の方からも
カワサキさんだけでなく二輪業界の地位向上になっている
との評価も頂いたりしたのである。

二輪車は名実ともに世界一』の商品なのだから、
世界一の商品』は、それに相応しい場所で販売されて然るべきと思っていた。


この冊子にも書かれているように、
常に『末端ユーザー』にその視点は向けられていて、
当時の『plaza』はいろんな形での全国展開だったのである。
いろんなスタイルがあったが、
そのいずれもが『業界のトップ』と言って間違いないそんなレベルでの展開だった。


 




★さらに、このショールームで特筆できるのは、
アフター・ファイブ』と称して、5時以降はユーザーに対する販売も行ったのである。
当時のARK からカワサキOBの五島・関くんらが手伝ってくれての展開だった。

二輪のユーザーの想いをマーケッテングする『マーケッテング』主体の発想で、『サービス機能もない店でもユーザーは買うのか?』と思ったのだが、
当時の二輪販売店には行きたくない』というユーザーも結構いたのである。
 
ユーザーにはいろんな人がいて、そんな多彩なユーザーに対応することこそが、
『二輪全体のパイを広げる』と思っていたのである。


★それは兎も角、このショールームはどんな形で実現したのか?
 当時、東京には神田に既にショールームは設けていたのだが、
 『新宿にいい場所がある』というので私は一人で現地を見たのである。

 平成4年1月15日、ちょうど国松君の結婚披露宴が午後からあった
 そんな日の朝だった。
 
 現場を見て『いい』とは思ったが、看板を入れて1億掛かるという。
 髙橋鐵郎さんにも現地を見て貰って、
 3月5日にGOサインがでて、
 平成4年6月7日に『プラザ新宿』はオープンしたのである。



★ 販売台数も7万台、450億円の売り上げもあったが、
 カワサキの国内グループの一番元気だった時代と言ってもいい。
 カワサキの東京の営業はこのビルの3階が本拠地だったのである。

 先述の植村くんも『懐かしい時代』だったと言っていた。
 Facebook にこんなコメントを頂いていて、
 今もFacebook でも繋がっている柏原久さんが
 『アークアシスト課』を仕切っていた時代なのである。


  



 活気のあった『いい時代』だったなと思っている。

 もう25年も前のことだが、『想い出』はいいものである。



 

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家内の誕生日     雑感

2020-07-11 05:53:52 | 発想$感想

★昨日、7月10日は 『家内の誕生日』だった。
 めでたく83歳を迎えて、
 私の歳、87歳を加えたら、夫婦で『170歳』になったのである。

 結婚したのが、昭和37年(1962)12月10日だから
 もう58年にもなるのだが、よく続いたものである。

 朝、アメリカの孫が『誕生日おめでとう』とラインで言ってきていたが、
 誕生日と言っても、特に格段のこともしない。
 
 誕生日だから『鰻でも食うか』と、鰻屋に行ったわけではないのだが、
 スーパーでいつもは買ったりはしない『鰻のかば焼き』を買ってきた。

 付き合っていた頃、
 神戸の『竹葉亭の鰻』をよく食いに行ったのを思いだしたからである。

 
   
 

 
 そんなことは覚えてはいるのだが、
 当時それが幾らだったのか?
 当時の給料は2万円になったばかりの頃だから、
 今のような値段ではなかったはずである。

 そんな細かいことは、全く覚えていないのである。



★ 私はその頃から日記を書いているので、
 一体、どんなきっかけで家内と付き合うようになったのか、
 昨日は雨も降ってるし、閑に任せて調べてみたのである
 5年分の日記を読むのは、結構な労力なのだが、
 やりかけると、最後までやらぬと気が済まないのである。

 覚えているようでも『いい加減な覚え方』で、
 人間の記憶は頼りないことがよく解ったのである。

 折角調べていろいろ解ったのだから、粗っぽく纏めてみると、
 私が当時の川崎航空機工業に入社したのは昭和32年(1957)4月なのだが、
 財産課のすぐ隣の勤労に彼女はいたのである。

 
 ●最初に話をしたのは、6月5日のことで
 野球部の旧友からの電話を『小野田さんという方からの電話です
 とわざわざ席まで伝えに来てくれたのである。
 ただ、それだけのことだが、日記に書いて残してるのは、私が気があったのかも

 ●その後11月6日の日記に、『神戸高校出身らしい』と書いている。
 私が旧制の神戸一中の出身なので、後輩になるのだなと思ったようである。
 何事もふとした縁が繋がったりするのだと思った。

 ●最初に映画に誘ったのは私で、それは翌年の5月28日のことなのだが、
 結婚に至るまではいろいろとあったのである。
 付き合いを始めてから4年目で結婚はしているのだが、

 ●その間、私が肺結核で三田の大原療養所に1年余り入院してしまって、
 ちょうど1年間の空白があったものだから、いろいろ大変だったのである。



★それは当時は大変なことだったのだが、
 この入院のお陰で、空洞までできていた私の肺結核は治ったし
 ちょうどその時期、会社では新しく単車事業を立ち上げることになって、
 私は、その新事業の単車部門に異動することになったのである。


 そんなことで1年入院はしていたが、健康になったし
 単車事業というオモシロい分野に入ることが出来たのも
 ラッキーだったと 今になるとそう思っている。



★ これは当時の日記に挟まれていた、家内の写真である。
 
 私は当時は写真など一切やってないので、私が写したわけではない。
 多分、当時家内がくれたのだと思う。
 こんな写真があることも、覚えていなかったが、
 日記をひっくり返して見て、若い頃の家内に会えて、よかったなと思っている。

  
  

 
     これは2年ほど前、アメリカの娘一家のところに

 遊びに行った時の写真だが、
 何となく若い頃の面影は残っているようにも思う。

  
 


      これは同じころ、日本。
  鳴門海峡淡路島で二人の孫たちと。
  

   
 




★ 家内は私と違ってネットなど全くやらないので、
 83歳の誕生日に、私がブログでこんなこと書いてることなど、
 全く知らないし、読んだりはしないのである。

 私は、この付き合っていた5年間の日記を詳細に読み直してみて、
 『いろんなことが解った』というか、
 個々の行動などはホントに人間の記憶など、全く正確ではないなと思ったりした。

 ただその頃『想っていたこと』は、これは間違いないのである。
 そういう意味では、粗っぽく『想い出』というのは、
 大切にすればいいと改めてそう思ったのである。

 

★神戸の『竹葉亭の鰻』ほど、旨くはないのかも知れぬが、
 83歳の家内の誕生日に食った『スーパーの鰻』も結構旨かったのである。

 そういう意味では 『いい家内の誕生日』であった。
 せめて後5年、『180歳』になるまで頑張って生きたいなと思っている。
 

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富士通  『通勤という概念なくす』

2020-07-10 05:05:19 | 発想$感想

★ 最近の記事の中で、これはちょっとビックリした。

 使っているパソコンは3台目だが、
 すべてFujituuだし、
 何となく身近な会社のようにも思えるのだが、

 その会社が 『通勤という概念をなくす』 というので、
 何となく 説得力がある ように思う。









★ 昨今の『新コロナウイルス』対策で、
各社とも『テレワーク』などを始めて、それなりの実績が出来たからであろうが、
世の中もどんどん変わりそうである。

現在でも富士通は『オフィスへの出勤率を従来の約25%に抑えている』というが、
一歩進めて、『オフイスなどの縮小・廃止』なども考えているようである。




  




勤務制度の面では、オフィス縮小とテレワークの全面導入と同時に、
単身赴任を順次解除』するという。



  
 
 

★ 富士通という会社だから、なるほどと思うのだが、

  例えば、川崎重工業のような会社でも、こんな動きは広がるのだろうか?

  販売会社などは、どうなのだろう?

  例えば、二輪販売などは、元々が『販売網というネット販売』なのだから、
  セールスなどは必要はないように思うし、 
  もっと進んだら『販売網はほんとに要るのか?』と思ったりする。
  
  『販売網はなくても大丈夫』だが、
  『ユーザーへのサービス機能は必要』などと思って、
  もう20年以上も前に、
  『サービス機能』や『レースや遊びの機能』など
  『ユーザーが求める機能』に対応した『機能別ARK構想』など構想したが、
  時間切れになって実現しなかった。
  

  世の中の動きが、このようにどんどんと変わったら、
  どんな会社も、『従来のまま』というわけには行かないのだろう。
  同じ業種でも、一社が前を向いて進んだら、
  それに追随できない企業は、遅れてしまうのは間違いない。


  いま、コロナで大変だが、
  コロナが終わった後の方が、より大変なのかも知れない。
  でも、オモシロい世の中になってきたなと思っている。

  
  
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野本浩一さんとの ZOOMミーテング

2020-07-09 05:52:07 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ 先日来、 私のブログには何度か 『野本浩一さん』 が登場するのだが、
  極々最近、Facebook で繋がったばかりなのである。

  確か6月中旬のことだったが、
  野本さんから突然、『トモダチ申請』が届いたので、
  どんなお方かな?とちょっとチェックしたのだが、『東大出』とあったので、
  東京大学出身の友達もいいかなとOKしたのである。

  それ以降、結構密接なやり取りがFacebook 上であったのだが、
  なぜか、この雑感日記も気に入って頂いて、
  私がびっくりするほど、詳しく読んで頂いているようなのである。


  


 
 そんな野本さんから『ZOOM ミーテングをやりましょう』というご提案があって、
 私なりにいろいろやってみたのだがもう一つ上手くいかないので、
 アメリカにいる孫に、いろいろやって貰ったら、
 アメリカの孫とは『ZOOM ミーテング』が出来たことは、
 昨日のブログ通りなのである。
 



★ ところが肝心の野本浩一さんとは、
 いろいろやったが出来なかったので、
 半分諦めていたのだが、 

野本さんにミーティングのurlをおじいちゃんのフェイスブックのメッセージに直接送るように言ってください。
そのurlがフェイスブックのメッセージに来て、おじいちゃんがそれをクリックしたら、昨日したみたいにZOOMミーティング出来るはずです。』

 と孫が言ってきたので、
 その通りのことを野本さんに伝えたら、
 『野本さんとのZOOM ミーテング』が実現したのである。

 いろんな話題に飛んで
 初めての会話ではないような、いろんな話題に亘って、
 約2時間近くも話していたのである。

 
  
 



 そしてFacebook にはこんなコメントまで頂いたのである。


  


★『人の繋がり』は、本当に不思議なものである。

 1か月前までは、全く存じ上げることもなかった『野本浩一』さんと、
 普通では2時間近くも『途切れることなく』話が続くこと自体が不思議なのである。

 『ネットの世界』がなかったら、こんなことはあり得ない。
 先日、ちょっとご紹介した『樋渡啓祐』さんとの出会いも不思議なご縁だったが、
 東京大学出身の方でも、真面目一筋ではなく、
 『ちょっと変わったオモシロい方』もおられるのである。

 果たして今後、どんな展開になっていくのだろうか?
 

  
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野本浩一さんとの ZOOMミーテング

2020-07-08 16:05:31 | 発想$感想

★ 先日来、 私のブログには何度か 『野本浩一さん』 が登場するのだが、
  極々最近、Facebook で繋がったばかりなのである。
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アメリカの孫とのZOOM ミーテング

2020-07-08 06:10:40 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★私はネットはいろいろと、
 それも結構ちゃんとやっているので、
 みんな相当に詳しいと思っておられるようなのだが、
 
 ホントは全くの『技術オンチ』だから全く何も解っていないのである。
 
 70歳になって初めて始めたパソコンだから、
 独学だし、自分のやってることだけ、毎日同じことの繰り返しだけが、
 『何とか出来ている』のである。

 
 ごく最近、Facebook で繋がって、このブログでも取り上げたことのある
 野本浩一さんから、『ZOOM ミーテング』をやりましょうと誘われて
  

 
    自分で挑戦してみたのだが、ログインの途中で解らなくなってしまって
 ギブアップしていたのである。

 どうしようもないので、その旨連絡したら、
 『お孫さんにでも頼んでみたら』と仰るので、
 こんなメッセージをダメもとで孫に送ってみたのである。

  
 『真也君。
 ZOOMに私を登録してみてくれますか?
 自分でやってみても、なかなかやれません。 
 若し出来たら、それを送ってください。
    パスワードなどと一緒に。』


 と送ったら、門野真也は親切なのである。
 どうしたのかはよく解らぬが、
 私の代わりにもう一つ、
 私のメールアドレスも、IDも創ってくれて、
 それでアメリカで私の代わりに、ZOOMにログインしたようなのである。
 
 Facebook のメッセージ欄に、『Https・・・・以下』を送ってくれて、
 それをクリックしたらアメリカの孫とのZOOM ミーテングが出来たのである



  これがいろいろ教えてくれた次男・門野真也である。
     

     
 末弟の門野哲也 てっちゃんも現れたし、
 娘も写っている。

 



 今度新しい家に移って、窓からプールも見えるというので

 そのプールも見せてもらった。


 



 世の中、『世界はどんどん狭くなる。』

    昨日は、真也が描いたこんな『毎日てっちゃん』をご紹介したが、

 
 




  今日は今から、ジムにトレーニングに行くとか言っていた。






★ ところが、昨日の午後、
  野本浩一さんとは、電話を掛けて話しながら、
  ZOOMミーテングに挑戦してみたのだが、
  どうしても繋がらなかったのである。

  ネットは簡単なようでムツカシイ。
  どうしたらいいのか、もう一度アメリカの孫に聞いてみたいと思っている。

  果たして、野本さんと上手く繋がるだろうか?





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雨の合間を縫って昨日は

2020-07-07 05:47:31 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 毎日やってることをやらないとどうも気分が悪い。
 昨日は起きたら曇り空だったが、
 天気予報を見ると1時間ちょっとは持ちそうなので、
 7時前に三木総合防災公園に走りに行った。


 現地に着いたのが6時50分、
 今にも降り出しそうなこんな天気なのである。

  
 


風も強かったが、
いつ雨が降り出してもいいように車の止めてある近くを走ることにした。
  


 周回路はこんな感じで、パラパラ降ってはいるのだが、
 路面は濡れてはいない。




 こんな道をスロージョッギングで、1時間ちょっと走って
 最後はいつも、少々急な150段の階段を上って終わりにしている。


 


 
 登り切って振り返ると、サッカー場がこんな感じで見れる。






 
 そして、こんな急な下り坂を下っていくと、







 車が止めてある駐車場のところに出る。
 昨日は流石に、車は私の1台だけである。
 



 
その後、 こんな運動器具のある 林間広場にクルマで移動し、


 



 こんな周回路で、60メートルダッシュを10っ本やって終わりなのだが、




 


 突然雨が降り出した。

 



 結構な土砂降りになったので、
 ダッシュは諦めて戻ってきた。

 



★ ツイていたなと思う。
 それからずっと雨は降り続いている。

 Fitbit の記録はこんな感じで、
 9400歩 約7キロを記録して  アクテイブタイムも1時間を越えた。
 消費カロリーも今で1000を超えたので、2000cal になるとは思うが、

 体重がなかなか減らないのは、『食い過ぎかな

 


  

 
 1日 雨になりそうだが、
 朝の7時台の約1時間、上手く利用できて、大満足なのである。

 因みに今の天気図はこんな感じで、雨も本格的なのである。

  



 


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雨の合間を縫って昨日は

2020-07-06 10:27:10 | 発想$感想

★ 毎日やってることをやらないとどうも気分が悪い。
 昨日は起きたら曇り空だったが、
 天気予報を見ると1時間ちょっとは持ちそうなので、
 7時前に三木総合防災公園に走りに行った。


 現地に着いたのが6時50分、
 今にも降り出しそうなこんな天気なのである。

  
 


風も強かったが、
いつ雨が降り出してもいいように車の止めてある近くを走ることにした。
  


 周回路はこんな感じで、パラパラ降ってはいるのだが、
 路面は濡れてはいない。




 こんな道をスロージョッギングで、1時間ちょっと走って
 最後はいつも、少々急な150段の階段を上って終わりにしている。


 


 
 登り切って振り返ると、サッカー場がこんな感じで見れる。






 
 そして、こんな急な下り坂を下っていくと、







 車が止めてある駐車場のところに出る。
 昨日は流石に、車は私の1台だけである。
 



 
その後、 こんな運動器具のある 林間広場にクルマで移動し、


 



 こんな周回路で、60メートルダッシュを10っ本やって終わりなのだが、




 


 突然雨が降り出した。

 



 結構な土砂降りになったので、
 ダッシュは諦めて戻ってきた。

 



★ ツイていたなと思う。
 それからずっと雨は降り続いている。

 
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毎日てっちゃん & Tad Kadono

2020-07-06 06:01:37 | 発想$感想

★今日のブログはお読みになっても、よく解らないかも知れない。

 書いている本人が、どうなっているのか、もう一つよく解っていないのである。
 ネットに詳しい方で、若しお解りの方がおられたら。教えて欲しいのである。


 アメリカには娘家族がいる。
 3人の孫、力也・真也・哲也がいるのだが、
 力也は今は日本でサラリーマンしてるから、今日の話題からはボツ。
 娘も直接関係ないからボツ。

 父Tad Kadonoと、次男、真也と絵の題材の末弟、哲也の3人の話である。
 Tad Kadono と通称し、その風貌からメキシカンと間違われることもあるとか、
 然し、本名 門野匡秀 正真正銘、日本人である。 なかなか『いい奴』である。



★ 昨日のFacebook にTad Kadonoがこのようにアップしている。

  




 ということで、娘婿・Tad Kadono は今後最低100日間Facebook をアップする
 というのである。
 ホントに続くかどうか、『それは単純に楽しみ』なのである。



★ まず私の疑問点の第1は、この文中にある、
  この『Https のコピー』をクリックしても、何も現れないのだが、
  みなさんはご覧になれますか?
   

  当然ご覧になれるのだと思うが、
  私の場合、Instagram だけが何かおかしいのである。
  rfuruya2 でスタートしたのだが、何回もおかしくなって(乗っ取られて)
  今はrfuruya5で Instagram やっている。

   
  皆さん、真也は『いいね』の数期待のようですので、
  よければ『クリック』してあげて下さい。

  


 ★ところが昨日 このようにしたら、それが見れたのである。

 どうしたかというと、Google で『毎日てっちゃん』と検索してみたら、
    こんな画面が現れてそれをクリックしたら、

   



  こんな画面が現れて見れたのである。
  それがこれである。

  

 
 このURL は『お気に入り』に入れたので観れるのだが、
   

 いま同じことをやってみても検索の画面から見れないのである。 
 こんなの、どうなっていると思われますか?
 どうも、ネットのおかしいのが絡んでいるとしか思えないのです。


★それはそれとして、 孫・真也の絵の上手い下手は兎も角、
140日も、弟の特徴を捉えて描いているのは、これは『才能』としか思えない。

先日Lineの電話で喋った時、『サッカーリーグ』が再開しても描き続けるのか?
と聞いたらYes と言ってたが、ホントに続くのだろうか?
 
弟の哲也は、背も190cmに近いのだが、こんな絵を画き続けられても悠然としているのは、『これは大もの』である。

 これは哲也のInstagram からである。

 
 

 真也の絵 とどちらがイメージいいですか?


 それは兎も角、お父さん、Facebook 100日続けてください。
 楽しみにしています。

 
コメント (10)
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7万台への挑戦 新しいカワサキのイメージ戦略の時代 16

2020-07-05 05:44:57 | 私の生き方、考え方&意見

★ 『レース』は私の人生で、大きな分野を占めるのかも知れない。

 特に 『レースでの人の繋がり』 はその密度では一番かも。
 カワサキの二輪関係だけではなくて、結構な広がりなのである。

 そんなレースの世界に対する『私の生き方、考え方&意見』の一端を。


   
    


私が直接、カワサキでレースに関係したのは、
初期のスタートの時代の昭和37年(1962)からの4年間と、
1990年代の『7万台への挑戦』の時代の2回なのだが、
それ以外の時期も、いろんな形でレースとは関わりがあったのである。




★世の中は競争の世界なのだが、一番厳しいのが『レースの世界』ではなかろうか?
レースで一番になるのは『ライダ一1人』 なのだが、
マシンがなくてはライダーは走れないし、そのマシンは一人では造れない。
そこに自ずと『チーム』が必然になるし、『チームワーク』がベースにあって、
密接な『人の繋がり』が出来るのである。

だから『優勝はチーム』に与えられるものなのだろう。


野球などのスポーツの世界にも色濃く携わった時期もあるのだが、
その『チームワーク』の質とその広がりの大きさなど、
レースの世界』のそれはちょっと特別なように思うのである。


レースには厳しいルールがあり、そのルールは厳守されねばならない。
時間に厳しいスポーツ』でホントに『1秒』を争うのである。

そんなレースの世界が好きだったし、
何よりも、レース界にいる人たちが、なかなかオモシロいのである。

先日、現役時代は『東大出の連中といろいろ関係があった』と書いたりしたが、
レースの世界は、そんな学歴などとは全く無縁なところがいい。
そんな学歴など関係ない人たちとも『親しくなれる』のは私の特技かも知れない。



   



カワサキのレースがスタートしたころから、いろんな人たちと出会ったが、
出会った頃はほんとに若い無名の青年だったのに、
世界の』とか『日本の』と言われる選手になって素晴らしい活躍をしたのである。


  

        


カワサキからも安良岡健・金谷秀夫・星野一義・山本隆・北川 圭一 など、
私とは密接に関係があったし、

他メーカーのライダーたち、
久保和夫・小島松久・吉村太一さんなどとも、親しくさせて頂いたのである。


         




ライダーと言われる人』と初めて喋った相手は、片山義美さんだった。
その時の印象は強烈で、厳しいことをいろいろ言われたが、納得できた。
そんなことから、私は『レースの世界』に直接関係するようになったのである。

片山義美さんと話をするきっかけになったのは、
山本隆・歳森康師の『BSとの仮契約事件』だったのだが、
その時点では私はレースには殆ど関係はなかったし、
二人と話をしたこともなかったのである。


    




★1990年代には、直接レースの世界にはいなかったのだが、
 Team Green の重本・野村コンビを応援して、それなりの成果を挙げたし、
 
 その当時のライダーたち
 多田・杉本・宗和・塚本・鶴田・北川くんなどは、今もFacebook で繋がっているし、
 
 従野孝司くんも、増田耕くんも、カワサキにいたこと、ご存じだろうか?
 

    

 
 

★カワサキの有名人『平井稔男さん』が、そのブログにこんなことを書いている。 

1984年にKHI(川崎重工業)がレース活動を凍結した時、私はコリャイカン、オートバイメーカがレースを忘れたらアカン、せめてJAPANだけでもと当時のカワ販古谷常務とKHI実験研究部武本部長(ル・マン24時間の総監督故武本 晃)に食い下がったのである。・・・・・・・・
前記のお二人に縋りメーカーの凍結との重なりもあり、TEAM GREENとTEAM38のコラボがロードレースに立ち上がったのである。
時まさに1985年ロードレースを加えNEW TEAM GREENが誕生したのである。


ちょっとだけ訂正させて頂いて、
もう少しこの時の経緯をお話しすることにする。

1984年は私はカワ販から川重企画部長に既に異動していた頃で、
カワ販常務ではなかったが、平井さんとお話ししたのは間違いない。
むしろ私の方からのお願いだったかも知れないのである。

この時期は『川重単車事業本部』の存続がムツカシイなどとも言われた危機的状況の時代で、カワ販から私は企画に呼び戻された翌年なのである。
レースはヨーロッパGPなどでKRが華々しい時代だったのだが、
とてもレースを続けられる状態ではなかったので、
GPレースの凍結』を提言したのは私で、髙橋鐵郎さんが決断されたのである。

ただ、すべてを消してしまうのは? ということで
それまでは『神戸スーパースポーツ』として活動していた平井稔男さんに
Team Green の創設』をお願いし、
それなりの運営費もお渡しして、
この時初めて日本にもTeam Green が生まれたのである。



★さて1990年代に話を戻すと、
 この時代の国内販売活動の状況や考え方を、 
 事業本部の部課長の人たちに話した講演会の記録の中から


     

    
    1990年の夏の鈴鹿8時間耐久なのだが、
 
 カワサキのイメージキャラクター風太』が登場していて、
 NHKの衛星放送が非常に多くの時間を『風太』を映し出してくれました。

 とあるがKAZEギャルと一緒に歩いているのが『風太』なのである。

  写真が小さくて解り難いと思うが、


       


  
 ひょっとしたら日本で初めて
 『大舞台に登場したイメージキャラクター』のはずである。
 
 そうでなければNHKが長時間一メーカーのキャラクターなど、
 追っかけまわしたりはしないのだが、
 確かにこの時のNHK衛星放送は『カワサキのイメージキャラクター 風太』を 
 執拗に追っかけまわしたのは、まさに珍しかったに違いない。

 くまモンが登場したのは2010年だから、それよりも20年も前の話なのである。


   


 カワサキのレース活動も広報活動も 
 『時代の先端』を走っていたと言えるだろう。



★1990年代のその時代、
 新しいソフト会社『ケイ・スポーツ・システム』      南昌吾
 TEEM GREEN を中心のレース活動         重本修次郎
 それを纏める 広報活動               小林 茂

 このメンバーが担当していて、この3人と私が講演者だったのである。

 
 『7万台の販売目標を達成』するために、
 直接的な販売活動そのものよりも、その周辺分野での
 『新しいカワサキのイメージ創造』を目指した展開があったから
 現実に『7万台の販売』が達成できたのだと思っている。

 このあたりの発想は、私独特なのかも知れない。
 部下たちは結構自由に動いているし、特にKSSは派手な動きで金も使うが、
 独立会社としてその金は自らがアタマを使って産み出してきていたのである。
 
 『プロのレベル』で動かない限り、金など産み出せないのだが、
 『サラリーマンからプロへ』の脱皮は、部下を信じて『自由を与えない限り
 ムツカシイのではと思ったりもする。


 『レースの世界』で優勝するのは一番だが、
 たとえ優勝は出来なくとも、それなりの価値がある運営が出来ればいい。
 それは総合的な仕組みの構築から生まれるもので、
 この時代は、『遊んでいたら自然に売れる』そんな仕組みの創造を目指していた。

 そんな『総合的な仕組み』の中に
 末端を巻き込んだ『ネットの世界』を加えて、末端のユーザーと直接繋いだら、
 『二輪の販売量の倍増』などそんなにムツカシクはないと思うのだが・・・


 世の中全てが『ネット時代』なのに
 幾ら上手に大量に使っても『無料』のネットを使わぬ手はないと思うのだが、
 
 いつまで50年も前の販売網をベースの展開に執着しているのだろうか?
 四輪などでも世界の趨勢は『ネット販売』になりつつあるようだ。
  
 
   

  
 
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今年はどんな年になるのだろう?

2020-07-04 05:18:12 | 発想$感想

★ 今年も前半は終わった。

       最近話題になっているニュースは

  ● 東京のコロナ問題
  ● 香港問題
  ● ロシアの憲法改正
  ● 安倍政権の凋落
  ● 南北朝鮮問題

  などなど、世界が変わりそうな話題が多い。


★ 閑に任せて 『今年はいい年か?』
 とGoogle で検索してみたら、こんなページが並んだ。
 昨年末に『占い師』の人たちなどが、『2020年を予想』しているのである。
 



 いろいろ並んだが、全く当たっていないことはない。
 こんなのもあったし。



 これなどは『200年に一度の大きな運気の曲がり角』などと言っている。
 興味・関心のある方はお読みになってみてください。

  


確かに世の中全体では、『大変な目』に会われた方も多いだろうし、
個人だけでなく、事業経営などでは殆どの企業が影響を受けたと言えるのだろう。



★ 私個人の今年の前半はどんな年だったのか?

 確かに『コロナ問題』で影響は受けたが、そんなに大きな変化も影響も、
 受けてはいないような気がする。

 昨年の前半と比べてみても、そんなに今年が悪かったとも思えないのである。
 人生87年生きてきて、もっと大変だった年は、もっとあるような気がする。

 コロナのお陰で、生活態度が変わったのは間違いないのだが、
 一言でいうと、1日の生活態度が『規則正しくなった』し、忙しくなった。

 不思議に思われるかも知れぬが、
 出来るだけ外出するなとか人に会うななど言われて、
 やることが制約されたので、そっれを『きっちり』とやるようになったと言っていい。

 午前中は基本的に
 ブログをアップし、防災公園に運動をしに行くのがベース。
 そのほかには『金魚とメダカの餌やり』と『ブログのコメントの返事』ぐらい。

 午後は
 一番時間を使っているのは『このブログを書くこと
 15年以上続いているブログだが、今年が『一番ちゃんと書けている
 これは午後に間違いなく『書く時間』があるからで、
 そのほかに『庭仕事』とか時間があれば『パンダ碁』を打っている。

 お蔭様で家の中のことは家内が全てやってくれるので、
 私が手伝うのは『洗濯物を2階に上げること』と
 週1、2回、 買い物に行くときの運転手を務めることだけである。

 夜は『パンダ碁』を打ってるか、テレビを観たりして、10時就寝である。

 
★こんな生活、結構満足で、退屈などしないのは、
 やはり『ネットの世界』があるからで、
 パソコンを覗くとコメントなどの対応が結構あるからだと思う。

 なかなか健康的ないい生活で、このままずっと続けたいと思っているが、
 『今年後半、果たしてどんな年になるのだろう?』
 



 
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