★20歳の頃から日記を書いているので、
何年前であろうが、その日に何をしていたかは、日記帳をめくりさえすれば解る。
最近は閑に任せて昔の日記を読み返したりしているので、
「何年前の今日」何をやってたのか。
その頃は、どんなことをやり、どんなことを考えていたのか。
意外に覚えていることも、忘れてしまっていることもあるので、
「何年前かの今日」ということで、1週間に1度ぐらいの頻度で、
ご紹介してみることにする。
まずは50年前の今日、38歳の1月13日の日記である。
「サンフランシスコ2日目、デーラー訪問。
そのあとは市内観光、ゴールデン・ブリッジ、美しい眺めである。
本土最後のナイトツアー、日本では流行語のポルノ、
米国では映画も写真も本も公然と販売され、上映されている。
すごい世の中になっている。」
などと書いている。
まだ日本とアメリカではいろんなことで格差のあった時代なのである。
★実はこの年1月8日から1月15日まで、
カワサキの販売店100人ほどのアメリカ本土・ハワイへの招待旅行を実施して、
ロス・サンフランシスコでの市場調査などをやっている。
まだこの時代海外旅行など一般的ではなかった頃で、
参加者全員が『初めての海外旅行』だったのだが、
当時、カワサキは業界に先駆けて、二輪専門の販売店網、特約店制度を起案中の時期で、
そんな二輪専門店を目指す東京・大阪・名古屋の販売店を
先進的なアメリカの販売店がどのようなものか、
実地に見学しようというそんなツアーだったのである。
当時私は大阪・近畿二府4県の母店長をしていたのだが、
このツアーの企画もやった関係で、調査団の団長を仰せつかっていたのである。
★ 当時のアメリカのKMCはサンタナに本社があった時代で、
カワサキの二輪事業をアメリカ市場が引っ張っていた時代であった。
車でいえば250A1や、マッハⅢの時代で、
Z1が出る「ちょっと前」の時代だったのである。
日本人とともにアメリカ人がその経営の中心にいた
KMCが現地主義という方針を摂り、トップは浜脇さんだったが、
その具体的な経営は、二輪に詳しいアメリカ人がやっていた。
逆に言うと、川崎航空機工業にはまだ販売会社の経営など経験のある人はいなくて、
日本でも第一線の経営はメグロや明発の人がやっていた。
私などは川崎航空機からそんな販社に出向していたほんとに数少ない中の一人だったのである。
一番左は当時の杉沼浩さんで、後年MFJの常務理事もされたから、
面識のおありの方も多いと思うが、
当時英語を喋れた唯一の日本人だったのである。
杉沼さんをMFJの常務理事に推したのは私だが、その時の理由も「英語が喋れる人」だったのである。
いまと違って英語などは通訳が喋るものという、そんな時代だったのである。
そんなサンタナのKMC本社も訪問して、
浜脇社長からいろいろと説明を伺ったりしたのである。
★50年前だから、私も50年も若くてまだ38歳の若さなのだが、
カワサキの二輪事業も若かったので、
各営業所のトップは私以上に若い人たちが担当していた時代なのである。
当時の販売店で今も残っているところは少ないが、
大阪でいえば船場の岡田博社長時代で、株・忍者の伊藤さんがまだ本当に若かった頃のことなのである。
当時の二輪業界はまだ販売店は自転車屋さんが主力で、
販売機種も50ccのモペットが主体で、
カワサキだけがモペットを持たずに、中大型のスポーツ車が主体だったのである。
そんなことから、大阪でも二輪専門の販売店を目指す25店を中心に
カワサキ協栄会を組織していたころで、
翌年、Z2の発売とともに特約店制度がスタートしたのである。
ちょうどその1年前の「アメリカ市場視察団」だったのである。
★この視察旅行では、二輪業界以外のことで世界には日本と異なる文化がいっぱいあることも体験した。
ホテルのロビーでは静かにしていないといけないこと、
ロビーで日本語で大声で喋っていたら、警官が来たりした。
食事などあてがえられたものを食うものだと思っていたら、
各自が注文しなければならないのである。
「ビール」と言えば「どこのどんなビール?」と聞かれて大変だった。
ツアーの最後がハワイだったのだが、
ハワイでは「日本式」が結構通じて、みんなホットしたのを覚えている。
50年前の日本は、やはり今とは全然違った社会だったのである。