邪馬台国四国説は、08年3月の「新説!?みのもんたの日本のミステリー」で取り上げられて一般に知られるようになったが、1970年代から四国在住の郷土史家が唱えていた(1975 郡昇著「阿波高天原考」自費出版、1976古代阿波研究会著「邪馬台国は阿波だった」新人物往来社)。そして、その集大成は1992年に出版された郷土史家の大杉博による「邪馬台国は間違いなく四国にあった」である。大杉の主張の要旨は次の通り。
邪馬台国は四国の山上にあった。幹線道路は山並みを縦走し、集落はそこからやや下った段丘上にあった。現在でもそのような所に集落がある。この道路は変な馬の背中を歩いているような感じであったので、邪馬台と名付けられた。山上には今でも人工の池の跡が200ヶ所ほどあるが、これが飲料水の源だった。
『倭人伝』に記されている斯馬国(淡路島)以下の21ヶ国は『倭人伝』に記述されている通りの順番で、邪馬台国を囲むように並んでいた(図1参照)。『倭人伝』には北九州の不弥国(福岡県宗像市あたりに比定する)から「南に水行二十日すると投馬国に着く」とあるが、この投馬国は高知県宿毛市・中村市あたりに比定する。「邪馬台国はそこから水行十日陸行一月」とあるが、これはand ではなくorであって、船なら10日、陸上を行くなら1月という意味である。
図1
邪馬台国の入り口は徳島市日和田辺り。この地域は気候が温暖で、「倭地は温暖で、冬でも夏の生菜を食べる」という記述に適合する。「女王国から東へ千里ほど海を渡るとまた国がある。みな倭種である」という記述も徳島周辺に適合する(畿内説では、伊勢湾まで遠いので、この記述に適合しない)。
「真珠・青玉を産出する」という記述に関しては、徳島県で昔真珠が取れたことは水産関係者が証言しており、青玉とは徳島県南部から産出する青い角岩のことである。「その山に丹あり」とは、辰砂のことで、弥生時代の辰砂採掘遺跡が発見されたのは、阿南市の若杉山遺跡だけである。
徳島市国府町の天石門別八倉比売神社のご神体は径70メートルの前方後円墳で、これが卑弥呼(天照大神)を祀ったとされる塚である。阿波では昔から山の住人を「山人(やまと)」と呼んだ。神武天皇はこの山人を率いて東征し、畿内に山人の国をつくった。これが後年大和とよばれるようになった。
記紀にある神話はすべて阿波でおきた実話であり、それにまつわるすべての神社が現存する。例: 美馬町の伊射奈美(いざなみ)神社(『日本書紀』の伊弉諾命);徳島市内の事代主神社(事代主命は大国主命の子)。
但し、大杉は『倭人伝』に記述された魏の使節の行程に関して方向を間違えているとして、編纂者の陳寿は図2のように九州が日本列島の北端で、本州は南方向に垂れ下がっていたと認識していたのだろうと推測する。その根拠は、15世紀につくられた混一疆理歴代国都之図(2010年12月9日付の「邪馬台国の謎を解く(1)」を参照)以前の地図が正しかったはずがないというもの。邪馬台国畿内説も同じ前提に立っており、大杉の推測は否定できない。
ここで疑問が生じる。卑弥呼とは天照大神であり、その子孫の神武天皇が四国から畿内に東征したのであれば、なぜそのように記紀に書かれていないのかという点である。これについての大杉の説明は次の通り。
当時、大陸文化が渡来人とともに流入し、民衆の心が大陸文化に奪われたこと、日本と百済の連合軍が白村江で唐と新羅の連合軍に惨敗したこと、壬申の乱があったことなどにより、大和朝廷の威信が低下していた。そこで、朝廷の威信を高めることが必要となり、事実を歪曲した歴史が編纂された。
大杉は『倭人伝』や他の古書に見られる邪馬台国の特徴を克明に調べあげ、すべて阿波に適合すると主張する。そして、高名な学者・研究家に手紙で論争を挑み、論破されたことがないとして、それが邪馬台国四国説の正しいことの証明であると主張する。この論争の顛末については、大杉博著「邪馬台国の結論は四国山上だった、ドキュメント邪馬台国論争」(1993年たま出版)にまとめられている。
大杉説はユニークであり説得力がある。しかし、だからといって四国山上説をもって邪馬台国論争にピリオドが打たれたということにはならない。邪馬台国論争のどの説も多分に推測を含んでおり、その点では大杉説も同様である。確たる物証が見つかるまでは、どの説を正しいと認定することはできないのである。
終