邪馬台国への行程に関し、ほとんどの研究家は末蘆国を現在の東松浦半島に比定し、唐津を上陸地点としている。そして、次の行程の伊都国を糸島半島に比定している。一方『倭人伝』によれば、末蘆国から伊都国への陸路で難渋したという。それなら最初から壱岐から伊都国を目指す方がいいように思われる。伊都国には一大率という監察官が常駐する重要な場所ということだから尚更である。なぜ末蘆国に上陸したのか。『魏志倭人伝2000字に謎はない』(相見英咲著 2002年講談社)はこの疑問に答えている。
同書の本論を検討する前に、邪馬台国にいたる魏使の旅程を復習しておこう。
① → 対海国 始度一海…千余里
② → 一大国 又南渡一海…千
③ → 末蘆国 又渡一海…千余里
④ → 伊都国 東南陸行…5百里
⑤ → 奴国 東南…百里
⑥ → 不弥国 東行…百里
⑦ → 投馬国 南…水行二十日
⑧ → 邪馬台国 南…水行十日陸行一月
⑨ → 邪馬台国以下21カ国 次有…此女王境界所尽
⑩ → 其南有狗奴国….自郡至女王国万二千余里
相見氏は「『倭人伝』は3-4世紀の中国人を対象とする旅行ガイドブックであるから、だれでも簡単に理解できる内容であるはずだ」と主張する。この意見には賛同できる。
以下、青字は相見氏の主張の要約である。
(1) 倭人伝の記述を見れば、2-3世紀の中国人ならだれでも③の末蘆国までは連続式行程であり、それ以降は末蘆国を起点とする放射線式行程であることに気付くはずだ(下線の部分が重要)。すなわち、次の図のようになる。
(2) 地図(A)を見ると、伊都国は奴国や不弥国よりも末蘆国に近い。だが、(1)の図では奴国と不弥国の方が伊都国よりも末蘆国に近い。なぜこういう矛盾が生じたか。
それは、壱岐国から伊都国へ渡り、伊都国を起点とすることが通常の行程であったが、たまたまその航海の時は、天候とか戦乱など、なんらかの理由で末蘆国に上陸せざるを得なくなり、そこから陸路を伊都国へ向かうことになったからであろう。そのために、情報提供者の報告に感違いが生じて、陳寿は通常行程のままで臨時行程を記述したのである。
(この説明はやや苦しいが、相見氏の詳しい解説を読むと、ある程度説得力がある)
(3) 魏使の最終目的地は伊都国だった。その先の国々への行程は、魏使が倭人から得た伝聞である。10にある「女王国」は倭国であって邪馬台国ではない。したがって、帯方郡から女王国(倭国)まで一万二千余里とは、伊都国までの距離を意味する。伊都国から邪馬台国までの行程「水行十日陸行一月」は両路併記ではなく、「および」である。もし、両路併記であるなら、投馬国への所要日数も両路併記でなくてはならない。魏使は邪馬台国へも投馬国へも行っていない。この2国への所要日数も南という方角も、倭人からの伝聞である。里数を記載していない理由は、行く気がない彼らにとって重要な情報でなかったからである。倭人としても、来てもらいたくないために、実際より長い所要日数を教えた可能性がある。
(4) 『倭人伝』によれば、邪馬台国は伊都国から見て南にあり、「水行十日」プラス「陸行一月」という位置にあるのだから、南北に長い島ということになる。さらに「当在会稽東冶之東」という記述があり、会稽は浙江省内の地名、東冶は福建省内の地名であるから、倭国島は沖縄県あたりということになる。一方、諸々の文献によれば、当時の中国人は倭国島が南北に長いと理解していたことがわかる。邪馬台国も投馬国も、伊都国から南方向にあるという点については、倭人からの伝聞と思われる。
(5) 情報提供者も編者の陳寿も、倭国は南北に長い島だという誤った認識を持っていた。そこに、倭人から方角も所要日数も間違った情報を提供され、それが彼らの認識と合致したから、なんの不審も抱かなかったのである。
(6) 要するに、『倭人伝』の記述は、邪馬台国、投馬国など周辺国が九州島にあるということに関しては、誤りだった。九州島ではないのだから、邪馬台国は大和にあったことになる。考古学で得られる資料からも、大和説が裏付けられる。
相見氏の見解は、(1)~(5)に関しては、ある程度説得力があるが、(6)の「九州ではないのだから、大和だった」とは論理の飛躍だ。九州ではないなら、大和だったかも知れぬが、出雲、四国、吉備であった可能性も考えられる。また、倭人から邪馬台国や投馬国が伊都国よりも南方向にあるという間違った情報を得たという点も、独断にすぎる。
タイトルの「魏志倭人伝2000字に謎はない」は誇大な表現であると言わざるをえない。