「邪馬台国近江説」後藤総一著 サンライズ出版 2010年の概要は次のようである。以下 青い字は後藤氏が一人称。
纏向遺跡は邪馬台国ではない
纏向遺跡がヤマト王権の首都だったという通説には賛同するが、纏向遺跡が邪馬台国だったという説には賛同しかねる。同じ纏向遺跡でも、その前期(2世紀後半―3世紀後半)と後期(3世紀後半―4世紀なかば)では、墓の形が違うし、出土する土器も異なる。前期は庄内式が主流で、後期は布留式が主流である。集落の形態や規模も前期と後期では大きく異なるので、後期になって纏向の人口は急増した可能性が高い。すなわち、3世紀後半に支配者が交代したと思われる。破壊された銅鐸が大量に発見されていることも、支配者の交代と価値観の転換を意味すると言えよう。したがって、邪馬台国がヤマト王権に継承されたとは考えにくい。
邪馬台国とヤマト王権の継続性を疑う根拠はもう一つある。それは、卑弥呼が「記紀」では王(女王)とされていないことである。もし、アマテラスが卑弥呼であるなら、卑弥呼を初代天皇にしたはずである。「紀」の神功皇后の章は「倭人伝」を引用しており、倭国女王が晋の武帝に朝貢したと述べているから、「紀」の編纂者は卑弥呼の存在を知っていたはずだ。それにもかかわらず、卑弥呼を抹殺してしまったのは、存在が知られると困るからではないか。換言すると、ヤマト王権は邪馬台国を継承したのではないことになる。
考古学の立場
滋賀県守山市の伊勢遺跡では、平成4年以降つぎつぎと興味深い建物がみつかっている。床面積185平米という大型竪穴建物含め弥生時代後期の大型建物が13棟見つかっている。これらの建物は円周部に等間隔で配置されており、建築様式からして、これらの建物は祭殿だろうと思われる。祭殿ばかりでなく、50-60平米ある集会場のような建物もみつかっており、数百人が住んでいたと推測される。また、伊勢遺跡周辺にもいくつかの遺跡が発見されている。
近江の地政的位置
§伊勢遺跡がある守山市周辺は交通の要衝であり、古代の物流拠点だった。琵琶湖は北陸方面、山陰方面への水路として利用された。朝鮮半島から若狭湾を経由して、ヤマトへ行く道筋でもあった。
§市の東に流れる野洲川やその他のいくつかの河川は肥沃な大地を育み、近江は日本有数の米の産地である。
§現在の守山、栗東、草津、野洲などは古代における都市圏だった。
§守山市南部は、かつて物部郷と呼ばれた。物部氏はニニギノミコトに先だって、ヤマトに天下ったニギハヤヒを祖先とする。
結論:琵琶湖周辺は日本の古代文明の発祥地である。
伊勢と邪馬台国の関係
弥生時代前期、朝鮮半島の伊西国(現在の釜山の北西50キロにある伊西面という集落がある)からやってきた渡来人集団が琵琶湖畔に建設したのが伊勢遺跡だろう。そして、それが邪馬台国である。卑弥呼の時代の遺跡で、規模においても特殊性においても伊勢遺跡を超えるものはない。倭国大乱ののち180-190AD前後には、伊勢遺跡は周辺国を束ねる地位にあったと推測する。2世紀後半に、纏向はまだ淋しいムラにすぎなかった。
伊勢遺跡は3世紀前半に、最盛期を過ぎていたことは認める。しかし、政治の中心地が纏向に移ったのちも、琵琶湖畔の伊勢は祭祀の中心地として残ったと考える。
卑弥呼の死後、台与があとを継ぎ、その次にナガスネヒコが邪馬台国の後継者となった。そして、ナガスネヒコが神武(イワレヒコ)に敗れ、邪馬台国は滅び、ヤマト朝廷が王権を樹立したのである。ヤマト朝廷は、先住者だった卑弥呼を祖神アマテラスに祀りあげ、先住者を納得させたのではないか。ニギハヤヒがナガスネヒコを裏切ったのは、彼も神武(イワレヒコ)も渡来人だったからであろう。
「魏志倭人伝」と伊勢遺跡の関係
魏使が朝鮮半島から対馬・壱岐を経て、唐津(末蘆国)に上陸したという通説はその通りであろう。奴国、不弥国までは方角の距離もきちんと記されているが、そのあとは曖昧になる。「南、投馬国に至るのに水行二十日」、「また南、女王の都するところ、水行十日、陸行一月」に関して、畿内説の通説通り、南ではなく東と考える。「水行十日」で若狭湾に至り、「陸行一月」は若狭湾から琵琶湖東南部に至る日数と解釈する。
後藤氏は伊勢遺跡に造詣が深く、その特殊性と規模に感銘して、これこそ邪馬台国に違いないと主張する。邪馬台国と纏向遺跡の文化の相違を指摘して、纏向は邪馬台国ではないと断定している点は卓見である。ナガスネヒコが邪馬台国を継承し、その邪馬台国をイワレヒコ(神武)が打ち破ったという推測はユニークで、説得力がある。