臼田篤伸氏の『銅鐸民族の謎』の要旨を紹介する。同氏は歯科の医学者であるが、かたわら古代史を研究し、きわめてユニークな説をとなえている。その題名にあるように臼田氏は銅鐸を中心に研究し、そこを原点として大きな歴史の流れを説明しているので、まず銅鐸について確認しておきたい。
大きさ:最小 13 cm、最大 144 cm 重さ 45kg (滋賀県野洲市大岩山で出土)
製作:2世紀から3世紀
用途:最初は連絡用だったが、その後祭祀用へと変化した。
不可解な点:
① なぜ『記紀』に銅鐸に関する記述がないのか。
② 弥生時代末期(3世紀半ば)に忽然と消えたのはなぜか。
③ 山中や谷間に埋納されたのはなぜか。
臼田氏はこれらの謎を『銅鐸民族の謎』において解明している。
紀元前4世紀ごろ、中国の戦国時代に大陸を追われ、東シナ海を経由して日本列島にやってきた民族がいた。かれらは青銅鋳造技術を持っており、青銅で作られた銅鐸を民族の連帯感・アイデンティティーの象徴とした。この民族を銅鐸民族と呼ぶことにする。「銅鐸民族」は北九州と出雲・近畿を中心とした連合国家を形成していた。
そこに朝鮮半島から天孫族が侵入し、銅鐸民族から北九州博多湾沿岸を奪った。これが中国の史書に記述された「倭国大乱」である。その後、天孫族は卑弥呼を首長とする邪馬台国を樹立した。その最初の首都は大宰府で、今でも都督府、紫宸殿、都府楼、内裏、朱雀門などの固有名詞が大宰府周辺に残されている。「倭の五王」の朝貢とは大宰府にあった九州王朝の事跡である。
その後、天孫族は奈良盆地に攻め入り(神武東征)、そこに居住していた銅鐸民族を滅ぼしてヤマト朝廷を樹立した。奈良盆地を制圧したのち、銅鐸民族の密集地である大阪平野に向かった。『記』によれば、崇神天皇が率いる軍勢が、東鯷国(銅鐸民族・河内の建波邇王)の軍勢と木津川を挟んで行われたとあるが、これは天孫族の大阪平野侵入を示す。その後、大阪平野を南下し、次々と銅鐸民族の環濠集落を滅ぼした。そこにも奈良盆地と同様、巨大古墳が築造され、捕虜となった銅鐸民族の居住地となった(北から南へ、古市古墳、四つ池遺跡、下田遺跡、百舌鳥古墳、池上曽根遺跡)。
ヤマト朝廷は銅鐸民族の事跡を受け継いで、『記紀』に編纂した。ただし、都合のいい部分だけを受け継いだから、『記紀』には邪馬台国も倭の五王も記載されていない。『記紀』には天津神と国津神が登場するが、前者は天孫族であり、後者は征服された銅鐸民族である。銅鐸民族の代表は大国主命で、その別名「大穴牟遅」(おおなむち)とは穴に住むムジナであって、蔑称である。『記紀』に何度も記述がある土蜘蛛も、空堀に横穴を掘って居住した銅鐸民族であろう。
臼田氏はこうした歴史の流れを文献と考古学から実証しようと試みている。
●巨大古墳が墳墓としてのみ使用されたのであれば、それほど巨大にする必要はなかった。古墳築造の本来の目的は銅鐸民族によって報復されぬよう徹底的に痛めつけ、エネルギーを奪うことだった。だから、空墓も数多くある。巨大古墳の副葬品は少なく、実力者の墓としては貧弱である。
●前方後円墳の分布がアンバランス。奈良県の233基はわかるとして、茨城県に350基も存在するのは不自然だ。国家権力の象徴ではなかったのである。
●男性は殺されるか隔離されて、古墳築造のための奴隷とされ、美しい女性は天孫族の所有となった。『魏志倭人伝』には、卑弥呼の宮殿には千人ものがいたとあるが、それは女性の奴隷の収容所で、中国皇帝に献上された生口もその中から選ばれた。また『倭人伝』には上流階級の男性は複数の妻を持っていたとあるが、これも銅鐸民族の男性が隔離されて、女性が余っていたからではないか。『旧唐書』にも「倭国では女多く、男少なし」とある。
●前方後円墳の考古学的考察:
§北九州各地に現存する神籠石(こうごいし)は、633年に白村江で唐・新羅の連合軍に大敗したのち、列島にまで攻め込まれるのではないか懸念して築造されたとする説が有力だが、臼田氏は築造年代からして、2世紀から3世紀に作られた女性収容所だったと主張する。
§兵庫県高砂市の生石(おういし)神社にある「石宝殿」は石槨(棺の外側)を製造した跡である。石のサイズは縦・横・高さがそれぞれ5-7メートルに達し、製造・輸送の作業は非常に苛酷だったと思われる。
§古墳周囲にある掘は、建設当初は水がたたえられていなかったと推測する。その物的根拠もある。空堀は銅鐸民族の居住地だった。水がたたてられるようになったのは、そのいくつかが陵墓指定されてからであり、農業用水として利用された。
§奈良の唐古・鍵遺跡、佐賀県の吉野が里、大阪八尾の跡部遺跡、壱岐の原の辻遺跡などでは、集落周囲の堀や溝の中から大量の土器などの家財道具が出土している。唐古では青銅の鋳造設備が発見された。天孫族が銅鐸民族を滅ぼしたことを物語る。
§誉田御廟山古墳と百舌鳥古墳群(堺市)には巨大古墳の上位三基があり、上位十基のうちの六基が存在する。これは大阪平野における奴隷収容所の規模がいかに大きかったかを示し、さらに銅鐸民族の人口が多かったことを示す。
§池上遺跡からは銅鐸の破片が出土した。これは銅鐸が破壊されたことを示す。また銅鐸の鋳型も出土している。多くの銅鐸は持ち去られ、銅鏡が作られたのではないか。
§現在でも被差別は巨大古墳の近くに存在する。これは当時の銅鐸民族の生き残りである。
≪池澤康所感≫
臼田説の「銅鐸民族とは紀元前4世紀ごろ、中国からやってきていた民族で、その銅鐸民族はあとから侵入した民族(天孫族)によって滅ぼされた」は目新しい説ではない。しかし、巨大古墳が被征服民族を虐げることが目的で築造されたという主張はユニークであり、異論があるのではないか。それにしてはその異論が出てこないのはなぜなのか。臼田氏の説が想像によって構築された部分が多く、反論する物証がないためなのか。