立石凉子さんの声が、記憶に残っている。
声質の問題ではない。
声、言葉といったものは、必ずしも、誰かから「発される」ものとして、まとめきれるものではない。
人間が、喋っている、のではない。
意識が、認識が、知覚が、その人の存在、身体の中を、通っていくのである。
本人もそれを感じながら、である。
せりふを伴う演劇という表現は、その機能を使っている。
ホーミーを学んだ後の立石さんは、感じることと発することの両立に於いて、ずば抜けたキャパシティを獲得していた。
声から伝わってくるのは、具体的な、その人の呼吸のあり方である。
彼女は亡くなったが、その呼吸は、独自の「仕組み」のあり方として、私たちの中に共有されて、残っている。
それを伝えるための手段としての、声がある。
身体、時間、空間に刻む機能としての声である。
本人が消えても、そのコードは、受容した人たちの中に、残っている。
その人の呼吸をリアルに知っている者みんながこの世から去ったとき、本当の意味でその人の生身の身体性は、この世界から、消えてしまうのであろう。
写真は、燐光群『上演されなかった三人姉妹』。2005年、紀伊國屋ホール。