強い雨の一日でした。
夕方やっと上がって、ひめちゃんと小次郎パパは、南の方にお散歩です。
知らない子とすれ違います
ひめちゃんは、臨戦態勢です
女の子だね、バイバイ
パパは静かに見送ります。
振り返ると、赤城山は、東半分だけ姿を現しています。
田植えの準備が進んでいます。
紫陽花も咲き進んでいます。
ヘメロカリスも、咲き進んでいます。
沙弥道羸寄進状案(しゃみどうるいきしんじょうあん)という、長楽寺文書があります。
沙弥道羸寄進状案
上野国山上保窪井村善昌寺事、依其志候、為現当二世之世良田長楽寺塔頭大通案末寺、奉寄進永代之處也、然者弥々造営御興行段、可為本意候、若於子々孫々中、違儀申輩候者、可為不孝之仁候、仍為後日状如件
応安六年二月九日 沙弥道羸 在判
大通庵主妙珪都寺禅師
この文書によれば、上野国山上保窪井村善昌寺は、応安6年(1373)に、長楽寺に寄進されています。
新田中江田の旧来迎寺跡には、その応安年間の宝篋印塔があります。
江田の池から、堀ノ内・本郷を経て、旧来迎寺に寄ってみます。
来迎寺には去年お邪魔して、御朱印をいただいいています。
来迎寺が移転して墓地だけが残されたのです。
向こうにみえるのは、国道17号線(上武道路)です。
北面の文字は分かりません。
西も文字はありそうだけど、よく分かりません。
南の面の文字はわかります。
応安三天六月十五日とはっきり見えます。
確かに、ここは新田なのに、北朝の年号です
宝篋印塔というと、墓石のイメージですけど、中世に於いては、人々の願いのこもったものだったようです。
『新田町誌基礎資料 第四号 新田町の石造物と金工品』に、新田町の宝篋印塔がまとまってます。
宝篋印塔は、中国の密教を大成させた唐の沙門不空三蔵の訳による「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」の教えの中から出た名称で、「若し、人この経を書写して塔中に置かば、この塔は一切如来の金剛蔵の卒塔婆となり、また一切如来陀羅尼秘密加持の卒塔婆とならん。(中略)・・・・・・この塔に一香一華を備え礼拝供養すれば、八十億却生死重罪が一時に消滅し、生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わる・・・・・・」、といった功徳が説くかれている。
すごい御利益の塔です
元は、墓石ではなく、御利益の塔だったのです
鎌倉時代と南北朝時代の宝篋印塔は、違います。
初期のものは経典供養の目的をもった、本来的な宝篋印塔として造られたと思われる。~(中略)~宝篋印塔は時代が下がるにしたがって、型もくずれ細長くなり、江戸初期のものが墓石として各地の墓地に造立されている。
この旧来迎寺の宝篋印塔は、経典供養で御利益を願うものだったのです
なくなったパーツもありますね。
本来はもっと背の高いものだったのでしょう。
さきの町誌資料によれば、
この宝篋印塔は、昭和10年に金子規矩雄氏が現在地の東側、松林より発見した者で、現在塔身部には別のものが組み込まれている。
銘文は、基礎部の四方に刻まれ、僧侶や土豪と思われる18人の名前がある。結衆等による造立の功徳によって、成仏を願った供養塔である。
そうだったんですか
前回の訪問では、そんなこと思ってもみませんでした
さらに、沙弥道羸寄進状案とほぼ同じ時代の宝篋印塔だったのです
応安年間(1368~1375)とは、どんな時代だったのでしょう?