ひめちゃんちの近所で、稲刈りが始まりました
ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出て、新沼&童沢貯水池を目指します。
途中の牧場、乳牛の皆さんは、朝ご飯中でした
新沼には、誰もいません。
隣の童沢貯水池はどうかな?
あれ、ミドリ沼が解消に向かってる
澄んだ水の向こうに、カモさん達がいます。
サギさんたちの姿はありません。
テリトリーのパトロールに行ったかな?
かわいい十二支とお地蔵様にさようならして、奥へ進みます
ここは墓地を整理したようです。
古い石造物の間を通って、山門へ行きます。
実は、『上野国志』(安永3年1774刊)の著者、世良田の毛呂権蔵(もろごんぞう)もやって来ています
勢多郡 善勝寺
端気村にあり、天台宗長楽寺の末寺なり、太治四年聖慶法師と云もの、醫王善逝の像をこゝに安置す、當寺未だ寺院あらず、只堂守の僧のみ、正嘉二年天台僧覚心、堂に主たり、曾平時賴この所に来りて談話して、甚だ相諧ふ、便田壹町を寄附す、永享三年僧圓祐再造寺院、得聚山慧雲隠自親寺と號、従此寺主相続す、天文年中厩橋城主長野左衛門尉名を善勝寺と改む、永禄五年、厩橋城代北條高廣艮場山と名づく、堂前に櫻樹二株あり、巨木なり愛すべし、斎田参拾伍石、
世良田・長楽寺の末寺だったのです
「太治四年聖慶法師と云もの、醫王善逝の像をこゝに安置す」、大治4年(1129)聖慶法師が、醫王善逝(いおうせんせい・つまり薬師如来)像を安置した事が、この寺の始まりと書いてます。
鎌倉幕府の執権・平時賴(北条時賴)がやって来たともあります。
天文年中(1532~1555)に、厩橋城主・長野左衛門尉が名を善勝寺と改めたとあります。
そして、永禄五年(1562)、厩橋城代・北條高廣が艮場山と名づけたとあります。
大きな櫻の木が2本あって、「愛すべし」といいました。
まだあるかな?
古い石造物の間を散策です。
古い石造物は、この一角だけのようです。
毛呂権蔵『上野国志』の記憶は、ここら辺だけのようです
山門を目指します。
途中は観音様の道です
古くはないけれど、みなさん慈悲深くたたずんでおられます
出口付近には、かわいい六地蔵です
出口には、ドデンと大きな観音様です
蓮の花をお持ちなので、聖観音かな?
観音様の道を振り返ります。
合掌
さあ、山門です