黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

久留川境い高津戸山の先古城を取り立つべし(高津戸城取り立ての事、付けたり、城主の事 ・ その2)

2024-10-29 22:51:13 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、赤堀(伊勢崎市赤堀町)の小菊の里に行ってきました

ひめちゃんちの小菊がやっと咲き始めたので、咲いているかなと期待して行ってきました。

残念ながら、まだ堅いつぼみが多くて、咲いているのは、ほんのわずかでした。

捲土重来を期して、またそのうちに行ってきます

 

高津戸の要害山の写真を探していたら、2022年2月にタバサねーちゃんと行っています。

タバちゃん、お出かけ大好きな元気いっぱいの熟女です

 

 

 

高津戸城取り立ての事、付けたり、城主の事 ・ その2(久留川境い高津戸山の先古城を取り立つべし)

扨て、住居の相談に久留川境い高津戸山の先、古城を取り立つべしと、是は先年細川院の山田七郎平吉之という者在城在有り子孫連続して、後醍醐天皇の御宇に当って、平の則行と云う者、七郎が末葉なりしが、観応二庚卯年(1351)、桐生国綱の為に亡ぶ。

それより年月経るといえども、石垣も崩れず、空しく兼ねて要害なり。

よって久留川両家老、飯田、多井両奉行にて、天正五年九月より翌春まで普請、成就して、兄弟奇異の思いをなし、直ちに籠城なし、武具・兵糧を堅固に在城せられ、暫く安堵の思いをなし、爰にまた先年、桐生の家中安西播磨という者は、上総入道が妻の弟なれば、今里見兄弟には母方の伯父なり。また飯篠長閑という者は、先年里見が舅、今の妻は謙信の家臣荏田(えだ)備後守が妹なり。然るに先年桐生より細川攻めの時、津布子、山越が讒言に依って軍功を立てざるを悔やみて、播磨も長閑も友に桐生を退き、西常州小幡の城主尾張守に隨身す。縁者のよしみ、この度兄弟が帰国に力を添えんが為、桐生の家中、小曽根安芸の方へ兼ねて内通有り。先年朋友より兄弟へ、万事合力あり由を、頼られければ安芸これに同心して、先年の朋友に回文致されけり。


あらすじです。

里見兄弟は、松嶋・阿久沢両氏から、高津戸の先の古城を使うようにアドバイスされる。
ここは山田氏が居城していたけれど、観応2年(1351)に桐生国綱に亡ぼされた。
それから長い年月がたったけれど、石垣も崩れず要害である。
黒川衆の協力で、天正5年9月から翌春まで普請して完成した。
兄弟は直ちに籠城し、武具や兵糧もしっかり準備した。
また、桐生家中だった安西播磨は上総入道の妻の弟で、里見兄弟には母方の叔父である。
また、飯篠長閑は、里見の元舅で今の妻は謙信の家臣荏田(えだ)備後守の妹である。
先年細川攻め時、津布子・山越の讒言に依って軍功が立てられなかったことを悔やんで、共に西上州小幡の尾張守に仕えた。
縁者の誼(よしみ)で今回の兄弟の帰国に力を添えるため、桐生家中小曽根安芸に内通した。
安芸も同心、先年の朋友に回文をまわした。



里見兄弟が、高津戸城に入った理由が語られます。
要するに、少し手を入れれば使用可能な状態の古城があったのです

右下の中央にPがある山が、高津戸城のある要害山です。


度々出てくる久留川とは、黒川で渡良瀬川のことです

Pに駐車して、山頂の要害神社に行ったこともありました。




史実としての高津戸城についてはよく分からないようです


上杉方が築いたのではとも云われているようですけど


縁者の誼(よしみ)で、兄弟の帰国を援助する人々も登場します。
桐生家を去り、小幡の城主に仕えることは、可能なのでしょうか
ちょっと遠いし、行く途中に、いろいろな勢力がありそうです
でも、道としてはさほど難しくはなさそうです
実は、妙義神社に行った事があります。
小幡をちょっとだけかすめて通りました
国道50号に出て、小島田(前橋市)の信号から南西に、ほぼ道なりで行けました
中世・近世の道は現代とは違うでしょうけど、付近に小幡に行く道(その先は信州)があったかもしれません

 

初稿  2019.11.15  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.29

 

(つづく)

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