風の冷たい朝でした。
ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内の西の方を歩いてきました。
タバサねーちゃん、帰道はとても速く歩きます
15歳半、緑内障ですけど、まだまだ元気に歩けます
この元記事の頃、2020年の4月、ひめちゃんと獅子丸です。
雨の日も、貧乏カッパでお散歩で、元気にお散歩してました
菜の花の咲く、葉桜の川縁も楽しくお散歩しました
獅子丸、実家に帰って、初めての春です。
日光裏街道周辺の文化財等、87番が奥沢の石造大日如来坐像、88番が奥沢の木造大日如来坐像です。
88番の右下の神社は奥沢神社、その右(東)の寺は東昌寺です。
由良成繁(ゆらなりしげ)は、「奥沢」と言わずに、「奥沢と号する地」といいました。
号するとは、「自ら言い広める。表向きにもっともらしく言う。」という意味です。
そうすると、ここ奥沢は地名がなくて、この戦いのころに由良成繁が名付けた事になります
由良成繁が、「奥沢と号する地」と言った場所はどこか?
候補の一つとして、奥沢の大日如来立像のあたりも考えられます
付近をウロウロしましたけど、見つかりません
先日(2018年9月7日)知人の案内で、やっとたどり着きました
脇道に入り、更に折れて、やっとたどり着きました
登るというほどではないけれど、ちょっと高台になります。
この時期は、あちこちが超・浅茅生の宿(あさじゅうのやど)状態なのに、付近はきれいになってました
落ち葉ではないけれど、「落ち葉踏み分け」という感じで歩きました
石造物もあります。
桐生市のHPによると、
作られた年代は定かではありませんが、室町時代(1338~1575)に奥沢の人々により勢戸林に社寺を建てたといわれることから、その頃のものと考えられます。その後、明治初期の神仏分離の時に、天台宗東昌寺へ大日如来を移しました。しかし、明治20年に奥沢の集落に大火があり、大半が焼けてしまったと伝えられます。その原因は、大日如来をよそへ写したための災難であろうということになり、再び元の地へ安置した、といわれています。
永禄10年(1567)に、由良成繁は「奥沢と号する地」といいました
たぶん、この時が、奥沢という地名が文書に初出です
神仏分離の時に大日如来を東昌寺に移したということは、ここは神社ですか
鍵を開けてもらいます
思ったより小さいです
これくらいならば、厨子ごと、東昌寺に運べます。
かなり古いもののようです。
脇に小さな板碑のようなものがあります。
ここは、現在5軒の人々によって、維持されているそうです。
冬のある日が祭日で、お赤飯をあげるのだそうです。
大日如来ではなく、阿弥陀様ではないかという説もあるそうです。
どの印を結んでいるかちょっとわかりません。
ここはさほどの高地でもなく、川沿いに人家があります。
戦国時代、戦いの犠牲者を供養するために建てられた可能性も十分考えられます
今維持している5軒は、それぞれ別のお寺の檀家になっているそうです。
普段は閉まっています。
わざわざ鍵を借りてきて開けていただききました。
ありがとうございます
この付近は奥沢と号する地で、戦いが行われた可能性がおおいにあります
初出 2020.04.18 奥沢の木造大日如来坐像 カテゴリー 旧勢多郡とその周辺・総集編
改稿 2023.12.17
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