黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

高縄の摩崖仏と上野国山上の念仏往生者

2021-08-12 19:59:14 | 群馬県・旧勢多郡

ひめちゃんは、獅子丸の用意が出来るのを待ってます。

2人は岩神沼に到着です。

カモさんが3羽います。

やっぱ、カモさんがいるっていいよね

赤城山は、全くその姿を見せてません。

 

沼の脇の田んぼに、雀よけのグッズ出現

効果があるといいね

 

沼の上の高縄の摩崖仏にも寄ります。

あれ、みんなのお姿がよく見える

 

ひめちゃんたちも、足下に気を付けて、摩崖仏の下まで行きます。

阿弥陀如来のお姿が浮かび上がっています

足下にも、仏様がいるような

半肉彫りですね

合掌

 

桐生市のHPに大きさがあります。

高縄の岩神沼から北へ約150メートルのところに、赤城山の泥流によって運ばれてきた大きな岩があります。最も大きなものは、高さ3.8メートル、幅は約4メートルもあります。その南面に阿弥陀如来(高さ56センチメートル)を中心に、脇侍として右に観世音菩薩(高さ50センチメートル)、左に勢至菩薩(高さ50センチメートル)が、半肉彫りされています。像が彫られた年代を明らかにする資料はなく、鎌倉時代頃と推定されています。岩の左側には、経文を納めた丸い穴が彫られています。

 

左側に経文を収めたという穴があります。

本日初めて中を覗きます。

けっこう大きいです

摩崖仏を彫り、経文を収める穴を掘り、かなりの信仰心がなければ出来ないことでしょう

もちろん、経文は自分で書写するんですよね。

 

 

ふと、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』の中の、上野国山上周辺の念仏往生者の存在が思い浮かびます

第卅四話 
(欠)六年五月之比。無其次俄来行仙房語云。為最期見参所参云々。其後臥病床。同五月廿一日。病者云。持仏堂仏。只今奉安極楽。看病不得意。同廿二日又云。明相弥現示。彼可還云々。既絶入。還生之時。人間云。見何境界。答云。聖人来言。行水可念仏云々。仍行水了。同廿三日又云。何聖御房遅来給哉。如此二反謂之。起居念仏。即逝去了。


この話の主人公は、(建長?)6年の5月、行仙房にアポなしで突然やって来て、「お会いするのは、今回が最後です。」と言いました。
そして、その後病に伏します。
5月21日に、病の彼は、「持仏堂の仏は、ただいま極楽に奉安しました。看病は望むところではありません。」
また「明相弥現示。彼可還云々。」と、22日に言いました。
(明相は意味が分かりません。でも、現示が啓示と同意とすると、仏の啓示があったのでしょう。
還(かえるべし)とは、まだ往生しないで俗世に帰るという事でしょうか?)
そして、気を失ったのです。
でも、彼は息を吹き返しました。
その、「還生之時」に、ある人が言いました。
極楽往生の世界の入り口で何を見てきましたか?
彼は答えました。
聖人が来て、「潔斎のために行水をして念仏を唱えなさい。」
行水を終わりました。
23日にまた言いました。
「どこの聖や御房様が遅れておいででしょう?だれも遅れてきたりしていませんね。みんな来てますね。」
二度こんな風に言って、起き上がって念仏を唱えて、往生を遂げました。

(テキストは『日本思想体系往生伝法華験記』、現代語訳はひめちゃんち流です。)

 

 

最初の部分に欠落部分があって、姓名等は分かりませんけど、山上周辺に住んでいて念仏往生を遂げた人の話です

行仙上人のところにやって来て、近々くる自分の念仏往生に立ち会ってくれるように頼みにきたのです

行仙さんはもちろん行ったことでしょう

 

行仙上人は山上の窪井にいたことがわかっています。

そこはたぶん、現在は山上ではなく新川の雷電山付近だと言います。

雷電山にも、中世の阿弥陀三尊の笠塔婆があります

 

 

この摩崖仏を彫ったのは、『念仏往生伝』の彼ではないでしょう。

けれども、彼の強い信仰心を受け継ぐ人によって彫られた可能性を感じます

みなさんに合掌

 

摩崖仏の裏を通って帰ります。

 

 

おかあさん、転ばないでね

そうだ、この間この坂で転びました

まだお尻が痛みます

 

アマビエさんの前を通って帰ります。

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