2月13日(月)に沖縄県久米島町で義父の7回忌法要が執り行われました。
義父が他界し、もう7年とります。コロナの感染も落ち着いている中、4年も会えていない久米島町の老人ホームに入所している義母に会えることが一つの楽しみでもありました。
施設では、外出する際のルールが厳格(発熱がない等)で、義母が実家に帰って来ることができるかどうかは、義父と義母の間に生まれた妻を含む6人の姉妹の間では、おそらく誰も声を出さないまでも誰もが心配することだったと思います。
私も、義母は必ず帰って来る!と念じながら13日の朝を迎えました。
午前10時施設の送迎車が実家の前に停車し、担当者が「義母をお連れしました」との声がかかるとこれまで関西に居て会えていなかった義姉や義兄、妻、私、そして東京から夫婦で帰省した義妹夫妻が家を飛び出しました。
「かーちゃん」「かーちゃん!」。母からも「よく会いに来てくれたね」の声が・・・・・。そして、皆さんの目には、涙が流れています。
私も、その光景に涙がこぼれ落ちます。
義父の他界後、義母の生活は単身となりました。その生活の中で骨折し、2度も手術を受け今では車いすでの生活が中心となってしまった義母ですが、皆の前で明るくふるまう姿は、元気だった義母と何にも変わりません。
義父の法要が15時~行われ、その後、近隣に住んでいる親戚筋の方々が父を偲んで訪れてくれました。
20時頃から義母の使っていた三線を取り出し「アサドヤユンタ」を私がつま弾くと義母が「三線貸してごらん」とこれまで培った耳で三線をチューニング。
義母の三線の音色で近くにいた皆さんと合唱する場面となりました。・・・沖縄の夜は、三線の音色がやっぱり似合います。
法要の日は、義父を偲び、義母との再会で喜び合う特別な一日となりました。
皆を集めてくれたのは「とーちゃん」のお陰だね。と姉妹6人とその連れ合いの皆様の談義は夜遅くまで続くのでした。
義父が他界し、もう7年とります。コロナの感染も落ち着いている中、4年も会えていない久米島町の老人ホームに入所している義母に会えることが一つの楽しみでもありました。
施設では、外出する際のルールが厳格(発熱がない等)で、義母が実家に帰って来ることができるかどうかは、義父と義母の間に生まれた妻を含む6人の姉妹の間では、おそらく誰も声を出さないまでも誰もが心配することだったと思います。
私も、義母は必ず帰って来る!と念じながら13日の朝を迎えました。
午前10時施設の送迎車が実家の前に停車し、担当者が「義母をお連れしました」との声がかかるとこれまで関西に居て会えていなかった義姉や義兄、妻、私、そして東京から夫婦で帰省した義妹夫妻が家を飛び出しました。
「かーちゃん」「かーちゃん!」。母からも「よく会いに来てくれたね」の声が・・・・・。そして、皆さんの目には、涙が流れています。
私も、その光景に涙がこぼれ落ちます。
義父の他界後、義母の生活は単身となりました。その生活の中で骨折し、2度も手術を受け今では車いすでの生活が中心となってしまった義母ですが、皆の前で明るくふるまう姿は、元気だった義母と何にも変わりません。
義父の法要が15時~行われ、その後、近隣に住んでいる親戚筋の方々が父を偲んで訪れてくれました。
20時頃から義母の使っていた三線を取り出し「アサドヤユンタ」を私がつま弾くと義母が「三線貸してごらん」とこれまで培った耳で三線をチューニング。
義母の三線の音色で近くにいた皆さんと合唱する場面となりました。・・・沖縄の夜は、三線の音色がやっぱり似合います。
法要の日は、義父を偲び、義母との再会で喜び合う特別な一日となりました。
皆を集めてくれたのは「とーちゃん」のお陰だね。と姉妹6人とその連れ合いの皆様の談義は夜遅くまで続くのでした。