5月1日と2日に2度目となる七尾市への災害ボランティアに行ってきました。
今回は、七尾市城山野球場内に設営されたテント村を活用しました。
4月30日の午後2時に三田を車で出発し、テント村に到着したのが、午後7時前で薄暗くなってきておりました。
うかつにも、ランタンを忘れましたが、いつも提供しているのか、「忘れました!」と言う前にスタッフの方がランタンの代わりとなるものを差し出してくれました。
その夜は、近くのコンビニで購入したお弁当を薄暗いテントの中で頬張り、ビール1缶を飲み干し就寝しました。
テント村の前には、大型でかまぼこ型の白いテントが張られており、ここは、長期滞在者の憩いの場となっているようです。(この夜も21時まで話し声が聞こえていました)
5時前には目が覚めましたので、野球場の内外を散策、ここは、球場だけではなく、プールや陸上競技場もあります。
野球グランドは、前日暗かったので分からなかったのですが、地震時にできたと思われる地割れが無数に走っています。
朝食を購入するために車で約3分ほどのコンビニエンスストア―へ出かけました。被災地の食はコンビニエンスストアーにも守られています。
七尾市災害ボランティアセンター(文化センターが拠点)には、午前9時前に受付予定です。
午前8時15分頃にテント村を出発。同じテント村に宿泊していた方が前を歩いており、行き先に不安な私は、この方に声をかけさせていただきました。
道すがら、いつから宿泊しているのか?など質問しながらボランティアセンターを目指します。
この方は慣れたもので、住宅地の生活道路を利用しておられました。
この方は、千葉市から2週間前にテント村に到着し、七尾市を中心にして珠洲市、穴水町などで活動してきたとの事です。
この方のお話を聞くと人生観が変わったかのような悟りを開いたかのような口調になっている。と感じました。
「私たちは、単に片付け屋ではないんです」「被災された方と心の交流をしに来ているんです」「頑張りましょう!はたやすい。共に頑張りましょう!」なんですよね。
この2週間の活動で随分、被災者の方々と少しの時間だとは思いますが、心の交流があったのではないかと思いました。
5月1日は、2か所の災害廃棄物(ごみではありません。廃棄物と呼びましょう!がボランティアセンターからのお達し)を運搬し、午後2時にはチームが解散しました。
もし、時間がつくれたら輪島市の現状を見たいな?と思っていましたので、この時間を利用して車で七尾市から自動車専用道路を使って輪島市、穴水町を経て七尾市へ戻るルートで車を走らせました。
自動車専用道路は、山間部を輪島へ貫きできている道路ですが、輪島市に近づくにつれ、山間部に設置されていた橋梁が陥落しており、迂回道路を幾度となく使うことになります。
当然ですが、舗装もフラットではなく、地割れが発生した道路は、車が走られるようにと緊急補修をしている箇所が何か所も出てきます。注意を払って運転しないと凸凹の道で車がバウンドしてしまうことになります。
さて、いよいよ輪島市に入ってきました。
街中に入ったと感じたその瞬間、目の前に現れたのが、1階と2階が完全に潰された倒壊家屋で歩道部に覆いかぶさるように倒れています。
その場面を見るだけでも、この中に人がいたのでは?どうなったんだろう?などの思いが巡り、涙が自然に湧いてきました。
車は、輪島市の中心市街地、そして朝市で有名だったエリアへ向かいます。
中心市街地は、車道は通れるようになっていますが、歩道の片づけ、倒壊家屋の撤去は一切進んでいない状況でした。
メイン通りから外れた家屋も道を塞いでいる家屋の撤去すらままならない状況です。
輪島には、初めて来た私です。
朝市、輪島塗で有名な場所であることは、私も知っていましたが・・・。朝市をしていたと思われるエリアも次の写真のように消失し、まるでウクライナへのロシアの侵攻を彷彿とさせる現場でした。ここもまだ何も変わっていませんし、言葉がでてきません。
輪島市内から穴水町へ向かう際に大きな薬局が営業しており、トイレを使わせてもらいましたが、ここもまだ水が来ていない様子で、屋外の簡易トイレを使わせていただきました。
穴水町へ向かう途中の山は土砂崩れしており、もう少しで民家を飲み込むところまで迫っていました。
穴水町も能登湾に位置しており、車窓から見える民家もいたるところで倒壊している状況でした。特に海岸線は、液状化が激しく、耐震化出来ている家屋も液状化で傾いている家が多いと聞きます。
穴水町から七尾市に入るルートは、「のと電道」のルートと併走して走る道です。少し復興を感じたのは、「のと鉄道」も復旧し、穴水駅から七尾駅まで走っていると聞きます。公共交通が復旧することは、地元の方々の力にもなるのではないかと思います。
穴水町を見て感じたのは、被災エリアが広く、点々と存在していることでした。
私たちテント村のボランティアは、どちらかと言うと中心市街地への作業依頼が多いのです。今後は、ボランティアセンターから遠く離れた場所での活動も入ってくると思われます。
2月は金沢市内からボランティアバスに乗り込み活動したのですが、活動時間を多くとるためには、今回のようにテント村などを拠点にした活動の展開が欠かせないと感じます。
初日、二日目を通して合計9軒の依頼を受けて毎回10名近いスタッフと共に一期一会チームで活動してきました。
2階部分が大破しているお家の方は「年金生活者には、この家はもう建て替えることは出来ません」との思いを聴くことができました。
能登半島で被災された方々は、家屋の被災状況に差はありますが、多くの方は希望を失いかけているのではないかと感じます。
私は、被災者の方々の支えにも、寄り添うことも何にもできていないと実感していますが、私にできることと言えば、時間がある時にこうしてボランティアに参加することしかありません。
今後もできる限り活動して行きたいと思います。
(今回のブログに輪島市内の写真を使わせていただきました。この写真を見て特に関係者の方は、お気持ちを害する方がおられるかも知れません。ご了承くださると嬉しい限りです)
今回は、七尾市城山野球場内に設営されたテント村を活用しました。
4月30日の午後2時に三田を車で出発し、テント村に到着したのが、午後7時前で薄暗くなってきておりました。
うかつにも、ランタンを忘れましたが、いつも提供しているのか、「忘れました!」と言う前にスタッフの方がランタンの代わりとなるものを差し出してくれました。
その夜は、近くのコンビニで購入したお弁当を薄暗いテントの中で頬張り、ビール1缶を飲み干し就寝しました。
テント村の前には、大型でかまぼこ型の白いテントが張られており、ここは、長期滞在者の憩いの場となっているようです。(この夜も21時まで話し声が聞こえていました)
5時前には目が覚めましたので、野球場の内外を散策、ここは、球場だけではなく、プールや陸上競技場もあります。
野球グランドは、前日暗かったので分からなかったのですが、地震時にできたと思われる地割れが無数に走っています。
朝食を購入するために車で約3分ほどのコンビニエンスストア―へ出かけました。被災地の食はコンビニエンスストアーにも守られています。
七尾市災害ボランティアセンター(文化センターが拠点)には、午前9時前に受付予定です。
午前8時15分頃にテント村を出発。同じテント村に宿泊していた方が前を歩いており、行き先に不安な私は、この方に声をかけさせていただきました。
道すがら、いつから宿泊しているのか?など質問しながらボランティアセンターを目指します。
この方は慣れたもので、住宅地の生活道路を利用しておられました。
この方は、千葉市から2週間前にテント村に到着し、七尾市を中心にして珠洲市、穴水町などで活動してきたとの事です。
この方のお話を聞くと人生観が変わったかのような悟りを開いたかのような口調になっている。と感じました。
「私たちは、単に片付け屋ではないんです」「被災された方と心の交流をしに来ているんです」「頑張りましょう!はたやすい。共に頑張りましょう!」なんですよね。
この2週間の活動で随分、被災者の方々と少しの時間だとは思いますが、心の交流があったのではないかと思いました。
5月1日は、2か所の災害廃棄物(ごみではありません。廃棄物と呼びましょう!がボランティアセンターからのお達し)を運搬し、午後2時にはチームが解散しました。
もし、時間がつくれたら輪島市の現状を見たいな?と思っていましたので、この時間を利用して車で七尾市から自動車専用道路を使って輪島市、穴水町を経て七尾市へ戻るルートで車を走らせました。
自動車専用道路は、山間部を輪島へ貫きできている道路ですが、輪島市に近づくにつれ、山間部に設置されていた橋梁が陥落しており、迂回道路を幾度となく使うことになります。
当然ですが、舗装もフラットではなく、地割れが発生した道路は、車が走られるようにと緊急補修をしている箇所が何か所も出てきます。注意を払って運転しないと凸凹の道で車がバウンドしてしまうことになります。
さて、いよいよ輪島市に入ってきました。
街中に入ったと感じたその瞬間、目の前に現れたのが、1階と2階が完全に潰された倒壊家屋で歩道部に覆いかぶさるように倒れています。
その場面を見るだけでも、この中に人がいたのでは?どうなったんだろう?などの思いが巡り、涙が自然に湧いてきました。
車は、輪島市の中心市街地、そして朝市で有名だったエリアへ向かいます。
中心市街地は、車道は通れるようになっていますが、歩道の片づけ、倒壊家屋の撤去は一切進んでいない状況でした。
メイン通りから外れた家屋も道を塞いでいる家屋の撤去すらままならない状況です。
輪島には、初めて来た私です。
朝市、輪島塗で有名な場所であることは、私も知っていましたが・・・。朝市をしていたと思われるエリアも次の写真のように消失し、まるでウクライナへのロシアの侵攻を彷彿とさせる現場でした。ここもまだ何も変わっていませんし、言葉がでてきません。
輪島市内から穴水町へ向かう際に大きな薬局が営業しており、トイレを使わせてもらいましたが、ここもまだ水が来ていない様子で、屋外の簡易トイレを使わせていただきました。
穴水町へ向かう途中の山は土砂崩れしており、もう少しで民家を飲み込むところまで迫っていました。
穴水町も能登湾に位置しており、車窓から見える民家もいたるところで倒壊している状況でした。特に海岸線は、液状化が激しく、耐震化出来ている家屋も液状化で傾いている家が多いと聞きます。
穴水町から七尾市に入るルートは、「のと電道」のルートと併走して走る道です。少し復興を感じたのは、「のと鉄道」も復旧し、穴水駅から七尾駅まで走っていると聞きます。公共交通が復旧することは、地元の方々の力にもなるのではないかと思います。
穴水町を見て感じたのは、被災エリアが広く、点々と存在していることでした。
私たちテント村のボランティアは、どちらかと言うと中心市街地への作業依頼が多いのです。今後は、ボランティアセンターから遠く離れた場所での活動も入ってくると思われます。
2月は金沢市内からボランティアバスに乗り込み活動したのですが、活動時間を多くとるためには、今回のようにテント村などを拠点にした活動の展開が欠かせないと感じます。
初日、二日目を通して合計9軒の依頼を受けて毎回10名近いスタッフと共に一期一会チームで活動してきました。
2階部分が大破しているお家の方は「年金生活者には、この家はもう建て替えることは出来ません」との思いを聴くことができました。
能登半島で被災された方々は、家屋の被災状況に差はありますが、多くの方は希望を失いかけているのではないかと感じます。
私は、被災者の方々の支えにも、寄り添うことも何にもできていないと実感していますが、私にできることと言えば、時間がある時にこうしてボランティアに参加することしかありません。
今後もできる限り活動して行きたいと思います。
(今回のブログに輪島市内の写真を使わせていただきました。この写真を見て特に関係者の方は、お気持ちを害する方がおられるかも知れません。ご了承くださると嬉しい限りです)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます