初めは事実から~
前回、「障害」について書いた。
今回は、「障害」についての身近な事実について書く事にした。
身近も身近も身近、それは生誕直後の息子の話である。
今から、18年前、息子は無事に東北・福島の病院で誕生した。
その時、彼の足には「内反足」という障害があった。
「内反足」-
赤ちゃんの先天性内反足とは?原因・症状・治療・ケア …
https://childsapuri.com/posts/479/
まだ、歩けない彼の場合、その内反足状態での足は、
歩く為の障害とは、ならない
それでも、足首の無自覚的な自由運動の障害となり得るのだろう。
病院で誕生したのだから、
担当医師には、その内反足を障害だと認識でき、
直ぐに治療方針の提示があった。
これが、もし仮に、
現代でなく、遠い過去に、
医者ではなく、信心深い助産師の手で、
息子が生まれていたなら…
もしかして、その助産師は、
「まあ~素敵!なんと個性的な内向きの足なの♪」
なんて思い…
家内も私も、『この個性を大切にしないと!』なんて共感して、
結局、息子の内反の足を、「あるがままに」受け入れていたら…、
今の息子の姿には出会えなかったのだろう。
治療法は、ギブスで固定、週一で病院に行って、
ギブスの巻きなおし…で、
それが一年間続いた。
風呂は、ギブスの上からビニール袋を被せて入り、
七月・八月の真夏でも、ギブスのままで過ごした。
それは、一年間右足裏の神経刺激が殆どない状態の継続であった。
それが理由か、どうかは、不明だか…
息子は、偏平足気味の足をしている。
それでも、そのギブスの成果は絶大であった。
なんと、誕生時内反足であったにも関わらず、
小学生高学年から。息子はリレーの選手に選ばれ、
中学では、1年生と2年生の運動会では、
他のリレー選手と三人で大会新記録を出し、
運動会のプログラム表に、他の二人と一緒に名前が載った、のである。
以上が。今回の身近な「障害」の事実的記述である。
もっとも、正確には、「障害と克服」の事実であろうが…
「克服」といっても、零歳の息子に「克服」という
大変な意志・認識は皆無であっただろうが…
あるとするなら、それは親である私達が、
私達自身の「不安」という認識の「克服」であった、だろう…
「不安」は、あっても、医師の言葉を信じて、
「息子の足は良くなる」と信じて、
一年間、清瀬の小児病院へ毎週、通っていた。
とても…可哀そう・気の毒に思ったのは、
(もつとも…息子には、このような感情はなかっただろうが)
夏休みに家内が実家に帰った時、
息子を入れて年齢の近い従兄弟3人が集まった時である。
他の二人は、素足で、涼しそうに、自由に足をバタバタ動かしている…
しかし、息子は、暑苦しいギブスの装着で、左足だけバタバタ自由であった…
さて、ここからは事実から見て取った「論理」である。
それも、「障害・克服」の論理である。
「障害」の二重性、
① 当人に障害・邪魔、認識のないモノ。
② 当人に障害・邪魔、認識のあるモノ。
更なる二重性、
㈠ 当人になく、周囲にもない。
㈡ 当人になく、周囲にはある。
息子の場合は、
「当人になく、周囲にはある」障害だったが…
幸いに、零歳児の息子は、問題なく、ギブスに耐えた。
(零歳児ではないなら当人の意志の問題が…)
今回の息子のような、
実体・身体の目に見えるような障害の場合、
過去から現代までの医療の進歩・発達・発展の結果、
医者が確信をもった治療法の存在がある。
しかし、「発達障害」は、
過去には、殆ど問題視されない障害。
更には、目に見えない認識の障害。
なので、
医師が自信を持って進められる、
確実な治療法が、まだないようである。
しかし、
論理的には、実体・身体と同様に「ギブス」(ような認識)で、
強制的に変える(型に嵌める)方法であろう。
例えば、
自閉症スペクトラムでは、
当人は「自自閉」という殻に籠り、
嫌な現実から避難・逃げている、と考えられる。
こう考える理由は、
私の関わった自閉症スペクトラム児達は、
自分が、楽しい時は、普通に遊んでいる。
しかし、何か起こると、自閉的に変化する。
もっと具体的な例なら、
私が関わった、「場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)の児童は、
友達と楽しく遊んでいる時や自分の好きなアニメ・ゲームの会話には、
積極瀧に話の輪に入ってくる。
しかし、
国語の音読や学習発表会…では、
緘黙して、先生が何を言っても・しても、絶対に口を開かない。
私の関わって来た、殆ど全ての発達障害児達は、
「自己の意志が強い」、「自己主張が強い」…
この事は、特に問題はないが…
問題は、彼らの、その意志・主張が通らなかった時の
その表現方法・手段にある、と言える。
飛び飛びの結論であるが…
「発達障害」の子供達自身は、その事を「障害」とは感じていない。
でも、学校・教員は、彼らは、スムーズな一斉授業の「障害」と感じる。
親は、親が子供が嫌がるような事をやらせようとする時、「障害」と感じる。
私は、どう感じているか?
彼らに合わせている時は、普通で特に問題ない。
普通とは、同学年の児童と同様な抵抗は多少ある事。
でも、彼らに教育・指導しようする時、「障害」を感じる。
さてさて、ここでの「問題の捉え方」であるが…
「発達障害」を問題と捉えたなら、
「『発達障害『はある!』と、捉えるのではなく、
先ずは、
「『発達障害』とは?』を求める・解く事から始める。
発達とは?
障害とは?
発達も障害も、人間の発達・障害である、から
人間とは?
人間の発達とは?
発達の障害とは?
と考えて進めるなら、
人間は認識的実在、
人間は社会的実在、
人間には感情・理性的存在、
人間は創り創られる存在、
人間は生活していく存在、
人間は゜生命の歴史を背負っている存在、
人間にとっての最重要課題は、
生き続ける事。
自分活かし生き続ける事。
自分の満足・納得を求めて生き自分を活かしていく事。
自分の幸福を求めて生活し続ける事。
上記のような、基礎的問題を説きつつ解き続けていく中で、
「人間の子供の「発達障害」を解決する方法を求めてゆく、のだろう。
ここで、
「説く」とは、このブログに「書く」「箏。
「解く」とは、その実態・実体を求め考える事。
その実体・実体とは?、
私という、「悟りを求めて」いる実体。
ブログを書いている私という実態。
前回、「障害」について書いた。
今回は、「障害」についての身近な事実について書く事にした。
身近も身近も身近、それは生誕直後の息子の話である。
今から、18年前、息子は無事に東北・福島の病院で誕生した。
その時、彼の足には「内反足」という障害があった。
「内反足」-
赤ちゃんの先天性内反足とは?原因・症状・治療・ケア …
https://childsapuri.com/posts/479/
まだ、歩けない彼の場合、その内反足状態での足は、
歩く為の障害とは、ならない
それでも、足首の無自覚的な自由運動の障害となり得るのだろう。
病院で誕生したのだから、
担当医師には、その内反足を障害だと認識でき、
直ぐに治療方針の提示があった。
これが、もし仮に、
現代でなく、遠い過去に、
医者ではなく、信心深い助産師の手で、
息子が生まれていたなら…
もしかして、その助産師は、
「まあ~素敵!なんと個性的な内向きの足なの♪」
なんて思い…
家内も私も、『この個性を大切にしないと!』なんて共感して、
結局、息子の内反の足を、「あるがままに」受け入れていたら…、
今の息子の姿には出会えなかったのだろう。
治療法は、ギブスで固定、週一で病院に行って、
ギブスの巻きなおし…で、
それが一年間続いた。
風呂は、ギブスの上からビニール袋を被せて入り、
七月・八月の真夏でも、ギブスのままで過ごした。
それは、一年間右足裏の神経刺激が殆どない状態の継続であった。
それが理由か、どうかは、不明だか…
息子は、偏平足気味の足をしている。
それでも、そのギブスの成果は絶大であった。
なんと、誕生時内反足であったにも関わらず、
小学生高学年から。息子はリレーの選手に選ばれ、
中学では、1年生と2年生の運動会では、
他のリレー選手と三人で大会新記録を出し、
運動会のプログラム表に、他の二人と一緒に名前が載った、のである。
以上が。今回の身近な「障害」の事実的記述である。
もっとも、正確には、「障害と克服」の事実であろうが…
「克服」といっても、零歳の息子に「克服」という
大変な意志・認識は皆無であっただろうが…
あるとするなら、それは親である私達が、
私達自身の「不安」という認識の「克服」であった、だろう…
「不安」は、あっても、医師の言葉を信じて、
「息子の足は良くなる」と信じて、
一年間、清瀬の小児病院へ毎週、通っていた。
とても…可哀そう・気の毒に思ったのは、
(もつとも…息子には、このような感情はなかっただろうが)
夏休みに家内が実家に帰った時、
息子を入れて年齢の近い従兄弟3人が集まった時である。
他の二人は、素足で、涼しそうに、自由に足をバタバタ動かしている…
しかし、息子は、暑苦しいギブスの装着で、左足だけバタバタ自由であった…
さて、ここからは事実から見て取った「論理」である。
それも、「障害・克服」の論理である。
「障害」の二重性、
① 当人に障害・邪魔、認識のないモノ。
② 当人に障害・邪魔、認識のあるモノ。
更なる二重性、
㈠ 当人になく、周囲にもない。
㈡ 当人になく、周囲にはある。
息子の場合は、
「当人になく、周囲にはある」障害だったが…
幸いに、零歳児の息子は、問題なく、ギブスに耐えた。
(零歳児ではないなら当人の意志の問題が…)
今回の息子のような、
実体・身体の目に見えるような障害の場合、
過去から現代までの医療の進歩・発達・発展の結果、
医者が確信をもった治療法の存在がある。
しかし、「発達障害」は、
過去には、殆ど問題視されない障害。
更には、目に見えない認識の障害。
なので、
医師が自信を持って進められる、
確実な治療法が、まだないようである。
しかし、
論理的には、実体・身体と同様に「ギブス」(ような認識)で、
強制的に変える(型に嵌める)方法であろう。
例えば、
自閉症スペクトラムでは、
当人は「自自閉」という殻に籠り、
嫌な現実から避難・逃げている、と考えられる。
こう考える理由は、
私の関わった自閉症スペクトラム児達は、
自分が、楽しい時は、普通に遊んでいる。
しかし、何か起こると、自閉的に変化する。
もっと具体的な例なら、
私が関わった、「場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)の児童は、
友達と楽しく遊んでいる時や自分の好きなアニメ・ゲームの会話には、
積極瀧に話の輪に入ってくる。
しかし、
国語の音読や学習発表会…では、
緘黙して、先生が何を言っても・しても、絶対に口を開かない。
私の関わって来た、殆ど全ての発達障害児達は、
「自己の意志が強い」、「自己主張が強い」…
この事は、特に問題はないが…
問題は、彼らの、その意志・主張が通らなかった時の
その表現方法・手段にある、と言える。
飛び飛びの結論であるが…
「発達障害」の子供達自身は、その事を「障害」とは感じていない。
でも、学校・教員は、彼らは、スムーズな一斉授業の「障害」と感じる。
親は、親が子供が嫌がるような事をやらせようとする時、「障害」と感じる。
私は、どう感じているか?
彼らに合わせている時は、普通で特に問題ない。
普通とは、同学年の児童と同様な抵抗は多少ある事。
でも、彼らに教育・指導しようする時、「障害」を感じる。
さてさて、ここでの「問題の捉え方」であるが…
「発達障害」を問題と捉えたなら、
「『発達障害『はある!』と、捉えるのではなく、
先ずは、
「『発達障害』とは?』を求める・解く事から始める。
発達とは?
障害とは?
発達も障害も、人間の発達・障害である、から
人間とは?
人間の発達とは?
発達の障害とは?
と考えて進めるなら、
人間は認識的実在、
人間は社会的実在、
人間には感情・理性的存在、
人間は創り創られる存在、
人間は生活していく存在、
人間は゜生命の歴史を背負っている存在、
人間にとっての最重要課題は、
生き続ける事。
自分活かし生き続ける事。
自分の満足・納得を求めて生き自分を活かしていく事。
自分の幸福を求めて生活し続ける事。
上記のような、基礎的問題を説きつつ解き続けていく中で、
「人間の子供の「発達障害」を解決する方法を求めてゆく、のだろう。
ここで、
「説く」とは、このブログに「書く」「箏。
「解く」とは、その実態・実体を求め考える事。
その実体・実体とは?、
私という、「悟りを求めて」いる実体。
ブログを書いている私という実態。
それで、私なんかが「事実と論理」と言われて想起するのは、この場合の「ギプス固定で行こう」と判断した医師の診断・治療の論理なんですよ。
私も少し調べてみたらギプス固定で矯正されるのは内反足の中でも軽度のものみたいで重度の内反足は手術で切開しないといけないみたいなんですね。
だから、その内反足がそのままでいたなら将来どうなるのか、どうすれば矯正されるのか、矯正されるまでどのくらいの期間が必要なのか、とか医師から自由びと氏らに説明があったことと思われるんですわ。
そうした内反足への対応の形式だけを見たとしても患者の乳児個々の状態によって対応が変わっていなければならないみたいですし、場合によってオペで肉体を切り開く必要もあるという形式を踏襲したならば「発達障害も同じであって軽度のものは保存療法で済むが重度のものは頭蓋を切り開いてオペをする必要がある」なんて判断にもなるはずでしょう。
ま、そうした判断は過去において「現象論」だとか「経験主義」といわれて対象自体の内容・性質を顧みることなく形式だけを似せていると批判されてきたものでしょうから、そんな判断を「論理」なんて名のもとに提出してくる自由びと氏は、やはり冤罪裁判で疑似科学的な方法を用いたと検察から非難された本田なにがし氏の一派だと思わざるを得ませんね。
↑
相も変わらない長文コメントですね。
「長文」その事自体は、悪くも良くもなく、
特に問題ではない、のですが…
でも、この弥生長文の問題点は~
他人の自由びとの個人ブログで、
その記事内容をよく読み取れていないにも関わらず…
持論・自己主張の「長文」だから、です。
以下のネット情報を読みなさい!
内反足の治療|滋賀県ホームページ
https://www.pref.shiga.lg.jp/mccs/shinryo/sekegeka/shikkan/301351.html
内反足の治療
…治療はまず保存的(手術をしない方法)に行います。
年齢が低ければ足の骨周囲の靱帯や関節包などがまだ軟らかいので矯正効果は大です。
↑
専門医の公式見解が上記のモノです。
「年齢が低ければ…矯正効果大…」ですよ。
弥生お宅の羅列している「内反足」対する治療法は、
息子の状況・条件を無視したモノです。
そんな個々・個別の状況・条件を無視した治療法を書き出して、
私達が、息子の状況・条件に従って採用した治療法に、
ダメ押しする事自体、間違っている・正しくない…とは、
認識出来ないようですね。
他人事の事実に、直接に自分が体験・経験した事実でもって
反論・否定するなら…まだしも…
自己の未体験事実、ブログの記事から読み取った事実、
しかも↓自分が信じていない・疑っている事柄↓
>当に息子さんが内反足だったかも私には疑われます疑いを持っている<
そんなモノに、弥生お宅のように、関わって何の意味があるのだろうか?
それは、弥生お宅の暇つぶしの遊び、楽しみなのでしょうね。
そんな・こんな弥生お宅だから~
以下のような頓珍漢なコメントになるのです。
>そうした判断は過去において「現象論」だとか「経験主義」といわれて対象自体の内容・性質を顧みることなく形式だけを似せていると批判されてきたものでしょうから、そんな判断を「論理」なんて名のもとに提出してくる自由びと氏は、やはり冤罪裁判で疑似科学的な方法を用いたと検察から非難された本田なにがし氏の一派だと思わざるを得ませんね。
↑~
↓大間違いです!
>…そんな判断を「論理」なんて名のもとに提出してくる自由びと氏は…
「判断」が「論理」ではなく、
「論理」とは、「その判断に至る道筋・筋道・筋」です。
判断とは、論理的に思考・思惟した「結果」であり、
論理とは、その判断に至る「過程の道」なのです。
こんな簡単な言葉の概念、区別と連関が分かっていないから…
このブログ記事の記述内容が分からない、のですね。
いや~いや~
実感・超実感です!
折角の弥生お宅のダメ出しコメントなので…
ここで自由びとは、良い出しコメントを書く~
「内反足」について~
弥生お宅は、コメントで、いくつかの事実・治療法を提示している。
当然に、それら治療法には様々な個別の状況・条件がある。
治療法が「事実・事柄」とするなら、
患者の状況・条件を的確に見て取って、
的確な治療法を判断・決める過程が「論理」と言える。
私の記述が「事実」(書かれたモノ)とするなら、
弥生お宅が、その記述・文字・言語から私の事実を読み取って、
彼の頭脳内に、観念的な事柄(障害・内反足)として創像する過程が「論理」である。
その結果、想像できた観念的事柄の現実的な条件・状況(他人の息子)を加味・考慮・して、
私達の採用した治療法の合否を判断する過程が「論理」となる。
今回のコメントから言える事は、
結局~
弥生お宅には、事実・事柄・物事の羅列は可能でも…、
それらを状況・条件に合わせて区別と連関で整理整頓して、
時々の目の前の事実に即して、的確に書く・述べる事は
無理無理だ、というコトですかね。
上記の論理的・結論的・事実から、
想い出すのは、
過去に、「京都弁証法弁証法研究会」ブログに
書かれいたコメントである。
それは、当人の依頼で、そく削除されたが…
自称・哲学者×××のコメント、
その一つ一つは短文でも、
その数といったら、、
超・超・超~多かったコメント…
それは、文章があった!という事実と、
その羅列の多さ・事実は、記憶できていても…
その内容は、全く想起不可能なコメントでした。
弥生お宅も、きっと心の中で、自分の事を
×××のような哲学者だと思って、
嫁さんに、自信たっぷりに、
「僕って凄いでしょう!」
「僕って『哲学者見みたい!』と思わない?」と、
言っている…のでしょうね♪♪♪
↑~こんな弥生お宅の姿が、
浮かんできてしまう…のは何故だろうか?
この像も論理的結果だろうか?
それとも、単なる私の妄想だろうか?
これが、上記の結論が事実なら、それは正しい論理的結果
しかし、間違いであれば、これは私の単なる妄想となろう。
ネット界・ネット情報の
事実は、妄想・幻想と共に…
事実は、妄想・幻想・夢想から生まれる…