新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・問題の捉え方と解き方」

2020-04-19 16:36:40 | 認識論
これは、「問題の捉え方と解き方」の続編である。
続編とは言っても、今回も数学。幾何…の問題に関わる訳ではない。

事実的な続編であれば、当然に数学・幾何…の問題であろうが…
ここでは、論理的な関り・関係性を問題としたいので…


「今回は、先ずは『障害について』から始める事とする」と
書いて、記事を書き終えたら、以下のような結論を得た。


問題の捉え方で、その解き方が変わる。
解き方が変われば、その問題に対する認識が変わる。

問題に対する認識を浅いままで終わるか、
深くするか、は問題の捉え方次第である。





以下が、続編で考えた事である。

「発達障害」とは、
どのような「障害…」なのか?
そもそも、「障害」とは何か?

それは、私は、ずっと「発達障害とは何か?」を分かりたくて、
ネット・書物を視たり・読んだりして~
また、現実的に彼らと関わり続けてもきた~

にも拘わらず、今一つ、分かり得ない、からである。



当初からの疑問とは、以下のようなモノである。

発達障害とは、
正常・普通な発達の邪魔をする何か?
それとも、
発達の結果であり日常生活での障害として現象している何か?

そもそも…「障害」とは?
辞書を調べるなら、
「障害」とは、何かをする時に、それを妨げて、邪魔をするモノゴト。
と書かれていた。



そこで、「身体障害」を思い描いた。

例えば、交通事故で右腕を失っていたなら、

右手で何かを持とうとする時、その右手がない事が「障害」となる。

でも、初めから「右手」を使おうという意識がないなら、右手がない事は障害とはなり得ない。
それでも、両手のある健常者同様な生活を欲するなら、右手なしは障害となり得る。

この時、右手を失って無くても、事故で神経が切断されて、使用不能なら
「右手なし」、と同様な障害が生じるだろう。

また、右手あり、神経の切断なし
それでも、何らかの理由で、右手が使えない場合…


これを足指の例で説くなら、私の知り合いに、
足指を手の指と同様に広げられて物を掴めたり、
足指を握って拳を作り、物を足指拳で殴れる者がいる。

このような事が、出来る事は、普通ではないが…
もし仮に、彼のような者が大勢であれば、
彼のように足指を駆使できない人は、障害者と言えよう。


現実的に、五体満足に誕生した人間には、
両足を両手と同様に駆使できる可能性を持っている。

でも…現代の社会生活では、その両足の発育・発達を阻害している。
もし…現代人が猿の同じように樹々でも生活を強いられていたなら、
両足を、両手同様にに駆使出来ない者達は「発達障害者」となり得る。

ここで、障害には、
①  身体・実体障害、
②  認識・機能障害、二つに分けられる。

大人なら、上記の二通りであろうが…
小人とくに、成長期の子供なら、
ここに「発育・発達障害」が加味される、から…

改めて書き直すなら、

五体満足の人の障害なら、

①  身体・実体の発育障害。
②  認識・機能の発達障害。


または、一般的な障害なら

①  身体的欠損による障害。
②  機能不作動による障害。




ここで、「認識の障害」が、
結果的に「実体の障害」(変形になり得る)


私の父親は、子供の頃から、洋裁店に小僧として見習いにいっていたそうである。
子供の頃から、洋裁ばさみを使用したからだろう…
父親の右手の小指は、変形していた。

(この説き方は、事実とは逆である事に気付いた。)

私が、子供の頃に、父の右手の小指の形が変な事に気付き
その理由を聞いたら、上記のようなに教えてくれた、でした。





ここで、今までに私が関わってきた「発達障害」児達を見るなら、
みんな五体満足・身体欠損はなかった。

初めの四年間は、知的障害がある「自閉症児」の「特別支援学級」勤務で、
その後二年間は、知的障害がない「情緒障害児」の「特別支援学級」である。


「知的障害」とは、
知能指数検査の結果が、70か60以下の児童で、
通常級での一斉授業について行けない児童達。

「情緒障害」とは、
知的障害はないが、集団・学級では
トラブル続きで一斉授業の妨げになり得る児童達。


「発達障害に」ついては、
自閉症スペクトラム・情緒障害以外にも、
様々な分類があるが、

現在、問題化している、子供達の「発達障害「の「障害」とは、

①  学校の一斉授業・集団活動の障害になり得るモノ、
②  その個人・児童の学習の障害になり得るモノ、

の二つが考えられる。


彼らの家庭生活を視るなら、
今の学級には、対照的な二人がいる。

一人低学年、賢く運動神経の抜群、母親は手に負えず、
よく担任に相談や話を聞いてもらっている。
学校では、彼がキレると、二十代の男性教員が二人係で抱きかかえ、
職員室へ連れていく程である。

本来は、説教・叱る…等の指導であるべきモノだが、
彼の場合、一度、キレると相手の学年にも関わらず、
我武者羅に向かって行き、蹴る・殴るの応酬…で
他の児童の怪我防止の為にである。

相手が逃げたり、その場にいない時は、周囲の机・椅子の蹴りまくり…
それは、もう大変なモノである。


もう一人は、高学年の児童で、
家では全く問題なく、良い子である。
ただ、その中身は、家ではいつも自分の好きな・やりたい事をやっていて、
両親は特に、その事に問題を抱いていない。

学校でも好きな教科は、積極瀧にり組むが、
嫌いだと、全くやろうとしない。

教師に対しても、好き。嫌いをハッキリ言うし、
いちいち彼の言い分目彼の理屈を主張し続ける。
知識は豊富だが、頭が固くね他人の理屈・言い分を売れ入れ難い、
運動神経もよくなく、走るのも遅く、真面目に走らない。

………さて~さて~………

長々と書き綴ってきたが、
ボチボチ結論的事を書かねばなるまい!

過去の今までの私は、仕事の対象であり、
自分が、知り分かる必要がある「発達障害」について、
ネット・書物に書かれた「発達障害」そのモノから分かろうとしていた。

しかし、それでは、日々私の目の当たりで展開している事実とは関連つけられず、
結局、書かれた言葉・記述は、役立たずに忘れ去られていく日々であった。


そこで、「発達障害」を「障害」から、
人間の障害から、考える事にした。

人間の障害を問題にするなら、
障害とは、

①  人間の目的達成の障害・邪魔のなるモノ、
②  自己の目的を達成できない人間・状態にするモノ、

ここの、
①  人間外部の環境・状況の問題
②  人間内部の発育・発達の問題

更には、
社会と、その目的との関係性?
そこから正当性・不当性…


で…取り敢えずは、

現代の日本社会で問題化している「発達障害」とは、
何の障害かと言えば、「集団活動・学校・学習」における「障害」だと分かった。
その理由は、単なる身体的障害なら、過去から現在までずっと問題視され続けているから…。


ここで、
新たな問題が、「発達障害」は、
薬を使用して、治せるモノだろうか?
薬の使用で、治してよいモノだろうか?


そもそも…
今、問退視している「発達障害」は、本当に「障害」足り得るのか?
その目的(学校での学習・集団生活)が変われば、
それらは、何ら「障害」として現象しないモノなのて゜は…


自閉症的ある児童、四六時中「自閉状態」ではない。
情緒障害であっても、いつもいつも暴れている訳でない。

彼らが、自閉的・暴れる…には、彼らなりの理由がある。
問題は、子供自身が、その理由・訳を自覚する事である。

仮に、どんなに、その理由・訳が正当・妥当であっても、「
だから、そこで「自閉する・暴れる」…では、

真の(自己の未来・将来に続くだろう)問題解決に至らない事を
自得・自覚する事であろうに…









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1 コメント

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この時から三年~ (悟得びと)
2022-07-16 12:40:38
この後、一年は特別支援学級の補助で、
2021から通常級の授業・学習補助員となった。
そして、今年で二年目…、
今年の新・一年生がいて、
去年の一年生が、今年は二年生になり、
去年の三年生が、今年は四年生になり、

子供達の変化・成長に。驚かされる日々である。
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