「道」とは?
道 (哲学) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/道_(哲学) には
以下のよう書かれている~
道(どう・タオ・Tao・みち)とは、中国哲学上の用語の一つ。人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。道家や儒家によって説かれた。
老子によれば、道とは名付けることのできないものであり(仮に道と名付けているに過ぎない)、礼や義などを超越した真理とされる。天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を天道(一貫道ともいう)といい、人間世界に関わる道を人道という。
孔子は天道を継承し、詩経、書経で人道についても語り、「子曰 朝聞道 夕死可矣」や「子曰 參乎 吾道一以貫之哉」(『論語』 巻第2 里仁第4)といった名句に道義的真理があり、天地人の道を追究した孔子の姿勢が窺える。
道教における「道」の概念は、神秘思想の上に取り入れられ、道家のそれとはかけはなれた概念となっているとされていたが、近年はフランス学派の学者たちを中心に道家と道教の連続性を認める傾向が多くなってきている。
『中庸』では「誠者天之道也 誠之者人之道也」と「天之道」、「人之道」が「誠」であるとし、それに基づき孟子も「是故 誠者天之道也 思誠者人之道也」(『孟子』 離婁 上)と「天之道」、「人之道」と「誠」に言及している。
『菜根譚』には、「道を守って生きれば孤立する。だがそれは一時のことだ。権力にへつらえば居心地はよかろう。だが、そののちに来るのは永遠の孤独だ。めざめた人は、現世の栄達に迷わされず、はるかな理想に生きるのだ」[1]と記し、洪自誠の主張として、一時の孤立を恐れ、永遠の孤独を招くのではなく、道を守る事が肝心と説く。
現代に存在する「道」から、
普通に考えるなら、
それは、人が「道」と認識してモノ。
「道」は、事実・実体としてはない。
あるのは、泥・砂利・土…等である。
しかも、初めにあるのは、
獣たちが通った後である「獣道」であろう…
では、人間は、何故にそれを「道」と認識したのか?
漢字としての「道」の語源・概念とは?
【道】の漢字の成り立ちを教えてください。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1264020672
には、以下のよう書かれている。
シンニョウ(辶)は道の交差路の一部と、歩行を進める足の形。そして、首の形が合わさって、「道」。
古代中国の周時代に作られた、らくし卣(ゆう)という酒器に鋳込まれた金文の中に、「道」の字があります。小篆よりも、もっと古い時代の形ですよ。その形は、交差路と首の形。
首の形が入っているのに、首とはまるで関係ないということなどあるはずはありません。字の成り立ちをさぐるには、古代人の残した文字と、その時代の文物をしっかり知る必要があります。
周時代の家が出土しています。もちろんつぶれた状態で土の中にあったわけですけれど、その家の四方には、髑髏(どくろ)が転がっていました。つまりその家は四方に首を下げていたのです。邪霊、悪しき霊を家に寄せ付けないために、首を下げたのです。こういった文物を知った上で大昔の漢字の成り立ちを追わねばなりません。
敵の長を殺した時には、首を切ったのです。馘首(かくしゅ)といいます。力が強かった、敵の長の首には、死んだ後にも強いエネルギーはあったと考えた。その首を下げることで圧倒できると。
「道」といっても、今の道を思ってはいけません。漢字が出来たのは今から3000年以上昔なのですから。
敵がいつ出てくるかもわからない、保護してくれる神のいないところ、邪霊のうようよする道、そんな道を歩く時は、怖くて恐ろしくて仕方なかったと思うのです。
そこで、首の登場です。以前殺した敵の長の首を、ちょうちんのように、回しながら歩いたのでしょうか。乾燥した髑髏です。
塩をまいてお祓いしながら歩くといった感覚と同じです。
古代漢字書道家 安東麟
ここから言える事は、
初めに「道」はなく、恐れながら、
歩き通る・通ったモノを「道」とした…
では、何の為にその「道」を歩き通るのか?
それは、目的地に到着する為である。
「散歩道」というモノがある。
散歩では、目的地がない。
そこにある目的は「散歩」であり、
それは「歩く事」となろう。
そう「道」を考える時、
目的地・到達点と始まり・開始点を考える必要があろう。
人生を道に例えて「人生道」とするなら、
その始まりは「生」であり、
その到達点は「死」となる。
ならば、
生まれた目的は死ぬ事と考えてよいのだろうか?
否!
生れた目的は「生きる」事であり、
かつ「生き通す」事と言える。
「散歩道」の目的が、
歩く事であり、
歩き続ける事と同様に…
ならば…、
「人生道」での「生と死」の関係は?
「生」に対しての「死」とは何か?
人間以外の動物で、死を恐れるモノはいるのだろうか?
確かに動物は、死に直面した時、必ず死の回避行動をしている。
それは、死を予想してのモノではなく、
本能によるモノであり、他の行動と何ら変わりないモノだろう。
それに対して、人間が死に直面した時、
厳密には、『このままだと死ぬだろう』と予想・確信した時、
普通の人なら、その場合に日頃と同様な行動はでき難いのだろう。
動物にとっての「死」とは、
生命体からただの物体への変化であり、
それは、単なる物体の始まりに過ぎない。
しかし、その人間にとっての「死」は、
その自分の終わりだと思えてしまう…。
確かに個体としての「死」とは、
その個体の終了であり終わりとも考えられる。
しかし、考え方を替えるなら~
「死」とは、確かに
その個体・肉体としは終了であるが、
その人の認識・精神は、
その人が関わった多くの人達の中で、
その多くの人達の自覚・無自覚に関わらず、
必ず、彼らの認識・精神の中で生き続け、
そこにあり続けるモノとも言える。
人間にとっての個体・肉体の死・終わりは。
人類精神の一部としての生・新たな始まり。
だから、人生道では、
個体としての自分自身の幸せを求める為に、
また人類精神の見事な一部となり得る為に、
今を、より幸福に、より見事に生き抜くのだろう。
ここで問題は、
「幸福」とは?を
「見事」とは?を
どのように考えたらよいか!
であろう。
今回のこの記事は中々に興味深い、思索のたたき台と出来そうですが、自由びとさんが宜しければ自由な対話をしませんか?
ただし、互いに敬意をもって、誹謗中傷はしないというルールを守ってという条件で。
葉月お宅へ
玄和会大嫌いお宅が、
元会員の自由びとに、
「敬意をもって」が、て゜きるとは思えません。
「誹謗中傷はしない」も、
「ルールを守ってという条件」も
最後までお宅が貫けるとも思えません。
そもそも…
お宅の思っている「敬意」と私の「敬意」が同じという保証もありません。
また、私にとっての「誹謗中傷」と感じる書き込みも、
お宅に言わせると、
「それらは誹謗でも中傷でもない紛れもない事実」…
てな事も起こり得ますからね…
まあ~
それでも、ここにコメントを書き込むなら、
それはそれで、お宅の自由勝手だろうし、
私自由びとも、特に拒絶はしませんが…
それは困りましたね。私は玄和会という空手団体に「大嫌い」といった感情を持ってはおりません。むしろ「好きの反対は嫌いでなく無関心」といいますが、あまり関心が無いというのが正直なところです。
私は今回の自由びとさんのテーマ「道」というのに興味を覚えてその点に限って対話ができるだろうか?と思って話を持ちかけたのですが、自由びとさんに憎悪の念があるのでしたら余り良い結果は期待でしませんから止めといたほうがいいかも知れませんね。
ちなみに、自由びとさんの琴線に触れる発言ではないかも知れませんが、自由びとさんも不特定多数の児童と関わる義務教育の現場にいらっしゃる方ですから、いわゆる「大人のマナー、エチケット」だとされている「社会人として相手と良好な関係を作りたいと望むならば、政治・宗教・スポーツチームの贔屓は話題にするな!」という金言も一緒に考えてみませんか?とも思ったわけです。
自分が自民党支持の立場だとしても相手が民主党支持だったり公明党支持だったりすることやノンポリの場合も考えられますでしょう?そのときに相手に自分が支持する政党に対してお世辞だとかお追従だとかを述べることを望み求めるのか、それとも自分に支持する政党があるが如くに相手にも支持する別の政党があることを理解し話題にすることを避けるのか、といったことなんですね。
私は自由びとさんがどちらの政党を支持しているかを知りませんし、それを問うこともありません。それは、それが自由びとさんが自由に選択できる自由びとさんの権利だと思うからですし、当然に私にも他の方々にもそれぞれの意中の政党があって構わないしその権利を他者が侵害することはあってはならないと思うのです。
自由びとさんが「元玄和会」という空手団体への帰属を主張し、私がそれについて好悪いづれの感情を持っているかを問い質そうとすることを、義務教育の教師として将来社会人として巣立っていく児童を指導する人間として自由びとさんは如何に考えますか?
それは避けるべき話題だとは考えませんか?それとも自分と関わり合う以上は自分が好むものは相手も好きであるべきだと考えますか?
>…玄和会という空手団体…あまり関心が無いというのが正直なところです。
これが本心ならば、ここには触れずにスルーであろう。
無関心なら、「玄和会」なんて文字は見えていても心に残らないモノ。
なのに…このような長文でも説明・解説・弁明・言い訳…
とは、嘘つきでなければ、矛盾の現れである。
また、以下の言葉~
>それは避けるべき話題だとは考えませんか?
お宅が、このように考えているなら、
今回のお宅のコメントは、全く無意味で矛盾した内容となろう。
>それとも自分と関わり合う以上は自分が好むものは相手も好きであるべきだと考えますか?
私の前回のコメントの記述は以下です。
< 玄和会大嫌いお宅が、
元会員の自由びとに、
『敬意をもって』が、手間る切るとは思えません。
「誹謗中傷はしない」も、
「ルールを守ってと言う条件」も
最後までお宅が貫けるとも思えません。 >
ここでは、「好き・嫌い」が問題なのではなく、
そんなお宅が「ルール」を守れるか否か、が問題なのです。
ならば、お宅は
「…それは自由びとの誤解であり、ルールは絶対に守れる!」
の一言コメントで終了の筈。
私が
「ここにコメントを書き込むなら、
お宅の自由勝手だろうし、
特に拒絶はしません」
と書いていたのだから、
お宅はお宅で「ルール」を守り、
お宅の書きたい「道」に関する事を書けば、よいだけだろう。
この記事では自由びとも「道」について書いているのだから、
自由びとは、お宅がルールを守っていると思える限り、
自由びとも、ルールを守るだろうし…
また、自由びとが、お宅がルールに従っていない、と思えたなら、
その時は、お宅のルールコメントに合わせて書くだけである。
>私は今回の自由びとさんのテーマ「道」というのに興味を覚えてその点に限って対話ができるだろうか?と思って話を持ちかけたのですが、自由びとさんに憎悪の念があるのでしたら余り良い結果は期待でしませんから止めといたほうがいいかも知れませんね。
>止めといたほうがいいかも知れませんね。
↑~このように考えるなら、今回のコメントも不要である。
まお~
毎度の事ながら、コメントの記述内容と、
書き込み行為自体との矛盾が顕著である。
それは、
周囲がザワザワしている所で大声出して、
「うるさい!静かにしろ!」と怒鳴っている、
心と言動が矛盾している馬鹿者の姿であろう。
それは、「静寂」を欲している心を、
「大声」で怒鳴る言動・行為の表現。
これを矛盾と言わず、何と言う?
それは、大嘘つきだろうか?
それとも、己の心を勘違いしている大馬鹿者だろうか?
確かに対話の相手は選ぶべきものですし、ダイヤの原石をゴミで研くべきではありませんね。
しかし、南浦和の望幼稚園で行われていた空手道場は近所の住民が好奇心で入門するものでもなく入会審査として論文提出を課していたはずですが、どうして斯様な阿◯が育成されたのか…。
あなたが入門なさった頃には馬場さんの論文指導などは受けれなかったのでしょうな。
嘗ては「玄和会No.1」だと言われた日本大学空手同好会の面々でさえも流派に泥を塗ってはならぬと対外的に「玄和会」の名を出さぬよう配慮してきたとも聞きますが、下ッ端の◯呆が「玄和会」の安売りをすればするほど団体が安っぽく感じられるものですなぁ。
対話が決裂したのは残念ですが、ちゃぶ台返しをしてきたのは自由びと氏のほうですから悪しからず。
お元気ですか?tadaさん!
私は、週三日午前中だけだった勤務が、
午後三時半まで週四日になりました。
その為、元気は元気ですが…
日々疲れ果てています。
帰宅ソク昼寝の四日間になっています。
いやはやなんとも人間、年には勝てませんね…
Tadaさんのお孫さん二人…なんか羨ましいです。
私の場合は、やっと大学生になった息子に、
孫の期待はまだまだ、無理でしょうね。
さて「真」の概念の昇華…感動モノですね。
霊的な世界、日常世界を超越した「形而上界」と結びつけたりして、
生身の人間が「霊化」したから見える世界が「形而上界」なんてね…
この場合の霊化とは、実体・事実の世界を離れ、
観念的な論理の世界への旅・二重化なのかも…
葉月お宅へ
「いや~、はっきり解りました。」
葉月お宅が如何に恥ずかしがり屋さんの嘘つきさんなのかが…
「玄和会という空手団体に…あまり関心が無いというのが正直なところです」
なんて書いておいて、このコメント記述…
無関心な筈の「玄和会」の事をこんなに書けるなんて…
分かった!
自由びとの関心を引きたくて、
葉月お宅は無関心で知りもしない玄和会なのに…
ウソ並べて玄和会記事コメントを書き込んだのですね。
なんか…そんな葉月お宅のいじらしさ…小学生レベルですね。
でも…小学生レベルでも、ウソは感心しませんね…
「ウソはドロボウの始まり」ですよ!