新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

一気呵成の弁証法化

2023-07-23 12:57:36 | ~ものは考えよう~
一気呵成の弁証法化

三日ぶりにパソコンを開いたら、
相変わらずの空海お宅コメントが三本、
そして何と超・嬉しい事にtada氏からもコメントが届いていた。

早く読みたいtadaさんコメント!
ジックリゆっくり反論を書きたい空海コメント!

でも…忘れないうちに・今の私の認識が変化して、
今書いておきたい事が、書けなくなる前に、今日の記事を書く事にした。


ここ暫く「旧・悟りを求めて…」ブログを再アップしていた。
旧ブログの2013年・10年前の記事を読んでいて私は痛感した!

あの頃は、「書きたい!」、「書くのが楽しい♪」、「書けない事さえ理由に書けていた!」
そんな10年前の私認識と浸透させる中で…私に急激な変化が起こり得た。
もっとも…今の私の変化・状態は「家内を亡くした孤独の中で私認識の変化・運動」状態も大きく関係するが…

私は勝手に確信している。
「これは、弁証法の急激な量質転化であろう」(と信じたい・信じている・確信した・確信している)


そんな中一つ気付いた事は、「野球ボールが止まって見える」事の論理構造である。

それは、同じスピードで横並びに入っている自動車では、乗車者は互いに止まって見えている原理。

野球ボールが、視界に入った瞬間から、
バッターは、視ているボール像の一瞬・一瞬の視覚像を脳内で認識可能に像化している。
これを南郷氏の例えから考えるなら、
「認識が超薄いパンに一切れ」とするなら、
「普通の人は一切れが薄すぎて味わえない(数枚、人によっては数十枚で初めて味を感じ得る)
しかし、訓練・修業・修行の結果、超薄い一切れ、一切れを味わえる実力を養成したなら、普通と違ってくる。

認識像の場合、超スピードで変化している「ボール位置」の一つ一つが薄いパン片。
ボールが止まっている認識像とは、脳内でそのパン片が味わえる・一つ一つの位置を見て取れている事。
それは、昔の八ミリ映画なら、その動画を映画ではなく、一枚一枚のフィルムとして認識可能レベル、だろう。

師範曰く、
止めた像なら、当然また動かせる。
認識内の像を停める事が「思う」なら、像を動かす事が「考える」。
問題は、停めた思う像を、如何に目的意識的に動かすか…である。


仮にバッターが「ボールを止めて」見えたとても、
問題はバッティングが、その変化スビートに付いていけるか…であろう。

大谷翔平の凄い理由は、空手に例えるなら、一流の攻撃技・防御技を両備しているから、
一流・最高のスピードボールと一流・ホームラン可能なバッティングを持ち得ている二刀流だから。
もっとも…「二刀流」は分りやすい例えであるが…

確かにピッチャーにとって、スピード・変化ボールは、相手を倒す武器。
また、バッターにとって、バッティングは、投手を倒す武器。
なので、二刀流は、攻撃・武器が二つ。

それでも…
空手の突きが、相手に当てる・当てればよい(当てるだけの一重)。
空手の受けは、攻撃技に当てて、その技を無効にする(当てて無効化の二重)。

投手は、ボールを投げたら終わり(投げるだけの一重)の攻撃技。
打者は、ボールに当てて飛ばしヒット・ホームラン(当てて飛ばす二重)の防御技。


他に…今日の朝の柴犬マロン散歩で、道端で2023年の手帳とGATSBYを拾った。
「交番に届けようか?」、「でもたかが手帳やめようか?」そんな迷いの中で、
過去の私の拾得物対応の数々を想い出した。
その中で、道で幼稚園・保育園・小学生がする名札?(名前・住所もあった)を拾った事を思い出した。
その時、相手が子供だと分かったので、わざわざ封筒に入れて送った。
そこに敢えて、私の住所氏名も書き込んで。
すると数日後、丁寧な感謝の手紙を頂いた。


そんな想いの中で、今回の手帳は、文字からして大人だろう事は確か…
失礼な事を承知で中身を見たら、「Personal Data」を発見したので…
今回も郵送つるつもりで…
帰宅して封筒を見たら「長形3号/定型内最大」には、「GATSBY」は入らない事が判明した。
そこで…手帳だけを送る事にした…


この他、今回の取得物体験から、過去の私の拾得物体験の数々が想起された…
初めての拾得物は、一、二年生の頃、自宅近くの道端で拾った「使い古した櫛」だった。
見つけて拾った事?が嬉しくて母に見せたら「汚いから捨てなさい!」だった。
嬉しい私は、一瞬で不愉快…だったのだろうか…

また二、三年生頃、学生寮近くの道端で財布を拾ったら20円入っていたので、寮長先生に届けた事…

まだまだ想い出が湧いてきた。
それは、正に「私の拾得物の弁証法性」

師範が「風」という文字を見たら、無風・微風…強風・台風…」と
無限に想起するのが弁証法性、といった事を書いている。


私には現実界の自然・風体験が少ない事からか…「風」での想起はでき難い。
しかし、今回の「拾得物体験」からは、まだまだ、

今の自宅近くの公園前の道路で6万円入りの財布、
パチンコ屋で千円札二枚、一枚を一緒だった後輩に上げた、
一万円チャージ済のスイカー裏にディズニーシールが貼ってあった、
道路の真ん中に落ちていた車の修理器具一式入ったバック、
スーパーで拾ったクレジットカード、
電車の棚に忘れた通勤バック、
電車の中の雨傘…
横浜元町のチーミングセールの福引補助券、
福引の外れの10円金券、

当然に私の落とし物体験もある。

過去最大の落し物は、クレジット数枚と現金の入った財布、
最大に困った落し物は、自宅の二階マンションの鍵である。

40代の頃~
「鍵」で困った理由は、塾のバイト前に、公園トレーニングへ、その時に紛失。
必死に探しても見つけられず、息子は学校、家内は仕事。
仕方ないので、マンションの裏から、壁伝いで二階のベランダへ登った。
窓を開けようとしたら…なんと鍵がかかっていたダメ!
絶体絶命…塾バイトに遅刻!と焦ったが…
よく見ると…鍵のかけ方が浅い~
そこで、窓枠をグラグラしたら…何とラッキーな事に鍵が外れた。


その日の夜、家内に話したら「警察へ行ってみたら!」
正直、私は、鍵を交番に届けた事はなかった。
で…なんと警察に届けられていた。

そうそう財布の翌日、交番で尋ねたら、届けられていた。
内心、「クレジットカードの停止しなければ…」と悔しい想いが…゜

確かに、私は、鍵もよく拾った、でも、その時は、落ちていた傍に目立つように置いていた。

カギの紛失~
そう数年前、コロナ全盛の頃、柴犬マロン散歩でカギを落とした。
帰宅して気付いて、慌てて自転車で探しに行ったら、
なんとグッドタイミング、道で、どこかのおばさんが、落ちている私の鍵をみていた。
慌てて拾った私に、おばさん曰く、「触るのが怖くて、拾おうか・どうしようか…考えていた」。

そう当時はコロナで、モノを触る事はNG。
そんなこんな…まだまだ…あるが、今日はここまでにしよう



そうそう思い出しました!
急速な量質転化化=「一気呵成」の弁証法化、でしたね。
今やっと思い出しました。
「一気呵成」を想い出せなかった。表題は、今書きました。











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6 コメント

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Unknown (空海)
2023-08-15 05:26:36
ちょっと場所を移して、気分を変えてコメントします。

台風が近づいてきていますから自由びとさんもお気をつけになって。

私の住んでいる地域では昨日も結構強く雨が降っていました。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-15 07:54:42
今回、自由びとさんのブログで般若心経について学ぶキッカケが得られたのは私にとっては運が良かったと思います。

それも上座部仏教でなく大乗たる般若心経を取り上げたことに自由びとさんの隠れた意向が現れているのだと想像したんですね。

この般若心経における「空」というのは、勉強した結果、「変化」の捉え方の問題で、「変化が空」なのではなく「変化は無自性であるが故に不可得だ」と理解するところがポイントだと理解しました。

大乗の考えですと修行した羅漢よりも主勢を救う菩薩のほうを高く置くようですから、飛翔隊よりも馬場さんだとかを高い地位に置くのでしょうね。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-15 13:07:48
自由びとさんが発見してきた『子どもにおくる般若心経』なんですがね、やはり過去の仏教の歴史を振り返る必要があると私は考えるんです。

いや、もちろん「こだわるな!執着するな!」でブッダが悟ってからの歴史なんか関係ないだろという考えもあるかも知れませんけど、私は大きな歴史の縮図として小さな歴史を見ることで見えてくるものもあると思うんですよね。

それで、ブッダが悟ったばかりの仏教って上座部仏教で、厳しい戒律を守って修行した者だけが仏になれる、みたいな考えだったのが、
700年ぐらい経って大乗仏教が出てきたのは厳しく修行する者たちだけでは生活していけないという経済的な理由じゃないかと思うんです。

それで、戒律を厳しく守らなくても念仏唱えれば仏になれるとかいう考えは、衆生からのお布施や寄進を得るためだと考えますね。

マルクスの考えに似てるかも知れませんけど、ヨーロッパでキリスト教が免罪符をお金で売ったのと同じようなことですよね。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-16 06:46:53
自由びとさんとは無関係に私は今、思索がどんどんと進んでいます。

でも、それは自由びとさんが出した「般若心経」というのがキッカケになっているのは確かです。

私は般若心経に説かれた「空」の思想の根幹が「変化は無自性であるが故に不可得」だということを知って、それがヘラクレイトスの「同じ川には2度と入れない」という思想と類似のものだと感じました。

自由びとさんの唐突なる?「同じ時代のものを比べなければいけない」という考えでいけば、紀元前5世紀ぐらいのヘラクレイトスと紀元後600年ぐらいの般若心経とを比べるのはオカシイと感じるかも知れませんけど、私はこの「時代の違い」というのは内容と相対的に独立した事柄で、時代を取っ払って内容の類似や相異を検討して然るべき弁証法的な関係性がここにもあると帰納的に確認・発見できました。

ヘラクレイトスの「同じ川には2度と入れない」という思想は般若心経の「無自性であるが故に不可得」という考えと似ています。同じだと言ってもいい。

それで、ヨーロッパの場合はヘラクレイトスの後にパルメニデスという人が登場するんです。「有るものは唯一・不動・不変である」という理性的な思考の。

私はこのパルメニデスの「不動の思想」が後々のスピノザの汎神論や諸科学の発見に繋がったと、まあ人間(私)の考えることですから繋がりたい所に性急に飛躍するわけで、あらすじを描けたなら地道な調査が必要なわけですけど。

ヨーロッパの「自由の思想」と般若心経の(仏教の?)「無自性ゆえに不可得」という思想とは弁証法的な対立物の統一として把握するべきものだと私には思えました。

つまりは事象を偶然とだけ理解する立場と、偶然の中に必然性を見出していこうとする立場との。

因みに「対立物の統一でなくて」と自由びとさんが述べたのは仏教の教義に「対立するな」という教えがあるからで、自由びとさんが仏教徒であるからだと私には理解されましたけど。
返信する
Unknown (空海)
2023-08-16 07:19:35
自由びとさんは般若心経の「空」を変化だと言った。
確かにそうなんですが、その変化を「無自性ゆえに不可得」だと理解する所に特徴があります。

「刹那」というのは仏教用語らしいのですが、そうした「刹那の連続」、一過性の連続が「無常」という理解であり、仏教の無常観をテーマにしている「方丈記」や「平家物語」もそうした「変化の理解」です。

けれどパルメニデスのような理性的な思考では「変化の中に不変を見ようと」します。
まあ、理性的思考といきなり行かないでも日常生活の中でも「変わらない、同じことの繰り返し」はいくらもあって、その代表が太陽や月の動き、変化で、その繰り返しに基づいて「暦(こよみ)」というものが作られています。

ですので、タレスが日食を予言したとかハレーが彗星を予言したとかいうのも、その「同じことの繰り返し」「変わらない」という理解に基づくもので、それは現代科学における「再現性」にまで繋がっていることだと考えますね。
返信する
一気呵成に纏めてコメント (自由びと)
2023-08-16 11:20:03
>▼ コメント ────

>・コメントが届いた記事
>一気呵成の弁証法化

・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/6bd5e2a63de2ecb1d94893826098c493

>・コメントを書いた人
>空海

・コメント
>ちょっと場所を移して、気分を変えてコメントします。
>台風が近づいてきていますから自由びとさんもお気をつけになって。
>私の住んでいる地域では昨日も結構強く雨が降っていました。


有難い事です。
「気分転換」は、脳細胞の休息・活性化になり得ますね♪♪♪
私の住まいの近辺では、晴れ⇔大雨で困ったくらい、ですね。




>コメントが届いた記事
一気呵成の弁証法化

>・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/6bd5e2a63de2ecb1d94893826098c493

>・コメントを書いた人
>空海

>・コメント
>今回、自由びとさんのブログで般若心経について学ぶキッカケが得られたのは私にとっては運が良かったと思います。


それは良かった♪♪♪
もっとも…私も同感ですが…♪♪♪


>それも上座部仏教でなく大乗たる般若心経を取り上げたことに自由びとさんの隠れた意向が現れているのだと想像したんですね。


これは深みですね。
私は単純にtadaさんの「…釈迦は弁証法的…」から仏教を連想して、
たまたま、学校の図書室で、「子どもにおくる般若心経をみつけて読んだだけです。
そうそう、市の図書館で「自由訳 般若心経」も借りて読みました。
内容は大きく変わっていませんでしたが、「…般若心経との再会」エピソードを知りました。


>この般若心経における「空」というのは、勉強した結果、「変化」の捉え方の問題で、「変化が空」なのではなく「変化は無自性であるが故に不可得だ」と理解するところがポイントだと理解しました。
>大乗の考えですと修行した羅漢よりも主勢を救う菩薩のほうを高く置くようですから、飛翔隊よりも馬場さんだとかを高い地位に置くのでしょうね。


「空」について…宅の「空虚な言葉」という言葉を思い出し…気付いた事があります。

「言葉とは認識の表現」だそうです。
でも、よくよく考えるなら、これは一般レベルの言葉です。
事実レベルでは、「その言葉は、その人の認識表現」となり得ます。


例えば、「子どもにおくる般若心経」という本の記述・文字は、「新井満」氏の認識表現である。
だから、他の人が「般若心経」という言葉を聞いたり・見たり…しても、その「般若心経」(文字)中身は、当然に異なっています。
また、「般若心経」を全く無知・知らない者にとっては、中身のない空っぽな「言葉」なのです。

お宅が、以前に自由びとの言葉を「空虚」と表現していましたが…
それは、お宅が自由びとの言葉(器)の中身が見えない・分からない…だけ…
このように言葉が「空」とは、同じ言葉でも、人によって、その中身(概念・意味・事実)が変化する。という事でもあります。







>コメントが届いた記事
>一気呵成の弁証法化

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>・コメントを書いた人
>空海

>・コメント
>自由びとさんが発見してきた『子どもにおくる般若心経』なんですがね、やはり過去の仏教の歴史を振り返る必要があると私は考えるんです。


それは、空海お宅の目的です。
私は、「空」の概念が、非常に弁証法的で、弁証法の学びに使える…と痛感して興味・関心を抱いただけです。
なので、「仏教の歴史を振り返る必要」は私にはありません。



>いや、もちろん「こだわるな!執着するな!」でブッダが悟ってからの歴史なんか関係ないだろという考えもあるかも知れませんけど、私は大きな歴史の縮図として小さな歴史を見ることで見えてくるものもあると思うんですよね。


「歴史の関係性」は、「拘り」の問題ではなく、当人の目的意識の問題です。
そもそも…現代社会では、「仏教の歴史」くらいは、それ程の苦労なく学びえるモノ。

「般若心経」レベルの拘りとは、過ぎ去ってしまって取り戻せないモノ・コトや、
やがては、消えていくモノ・コトを「そのままでいて欲しい」と強く願い続ける「拘り」。

>それで、ブッダが悟ったばかりの仏教って上座部仏教で、厳しい戒律を守って修行した者だけが仏になれる、みたいな考えだったのが、
>700年ぐらい経って大乗仏教が出てきたのは厳しく修行する者たちだけでは生活していけないという経済的な理由じゃないかと思うんです。
>それで、戒律を厳しく守らなくても念仏唱えれば仏になれるとかいう考えは、衆生からのお布施や寄進を得るためだと考えますね。
>マルクスの考えに似てるかも知れませんけど、ヨーロッパでキリスト教が免罪符をお金で売ったのと同じようなことですよね。


時代が変わり、その時代の仏教の人々も変わっていった…という事でしょうね。




>・コメントを書いた人
>空海




>コメント
>自由びとさんとは無関係に私は今、思索がどんどんと進んでいます。
>でも、それは自由びとさんが出した「般若心経」というのがキッカケになっているのは確かです。


仮に「キッカケ」は、このブログでも、その内容がここに無関係なら、
それを空海お宅の個人ブログで展開するのが常識だと…私は考えますが…

私の考え通りに、「以下省略」させて頂きますよ!
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