「運がいい」とは?
本日のNHK番組「チコちゃんに叱られる!」で「運がいい」について以下のような事を言っていた。
運は誰にでも巡ってくるモノ。
運がいいとは、準備がしっかりできていて、巡ってきた運を手に入れられた状態。
運が悪いとは、準備が出来てなく、巡って来た運を手に入れられず、逃がしてしまった状態。
上記のような「運」についての表現に、今の私は観念論的だと感じた。
その理由は、初めから「運」というモノがある、という前提で説いているから…である。
本来、唯物論的に説くなら、先ずは「運とは何か?」から始めるのが正しいのだろう…
もっとも…NHK・チコちゃんの説明に、
「なる程~」と納得してしまった私がいたから、この記事を書けている、のも事実であるが…
では、「運とは何か?」から始めよう!
抽象的には、「運とは、自分の求める幸せ」。
具体的には、「その時々に自分が欲して求めているモノ」。
言うなれば「現時点での欲求」であろう。
ただ…問題が…ある。
それは、「欲求の二重性」であろう。
一つ、その時点で自身が自覚している、「今必要な欲求・モノ」。
一つ、今は自覚ないが「将来的に必要になり得るモノ(現時点で欲求ではないモノ)」。
「運がいい」と言う自覚がある場合とは、その欲求が簡単には得られなかった欲求・モノが…結果的に得られた状態。
「運がいい」筈なのに、自覚できない場合とは、将来的に「必要となるだろう筈のモノ」が、結果的に得られた状態。
これは、「運がいい」の二重性、自覚ある「運がいい」と自覚ない「運がいい」であろう。
上記のような「自覚ある運」と「無自覚の運」から思惟するなら、
現在の「運がいい」が、将来的に「運が悪かった」と言い得る事。
ここで、一つの気付きに、私は気付いて、それは、「私は間違っていた!」。
ここまで私は、「欲求=モノ」と捉えていた!
しかし、実際は、「欲求」と「欲求を満たしてくるモノ」とは、別モノであろう。
現時点の自分の欲求を満たしたモノが、将来的にも自分の欲求を満たし続けてくれるモノとは限らない…
実際の現実では、ある・そのモノは、比較的長期間ある・そのモノのままであろうが…
人間・自分自身の欲求・感情は、ある・そのモノに比べたら、死ぬまで激しく変化し続けるモノだろうから…
ここで、NHKプラスで再確認した番組で「チコちゃんの言葉」は、以下である。
質問~「何で運がいい人悪い日があるの?」
運はタイミング次第で誰にでもいい方向に進められる。
チャンスをつかむことができます。
「運がいい」は、事前の準備・経験で運がつかめている状態。
反対に「運が悪いは、準備ができていない為、運を逃がしている状態。
…という捉え方ができる、ということです。
自由びとさんのお考えは私から見れば「南郷先生の本のモザイク」なんですけど、「チコちゃんに叱られる」みたいな番組で「運、不運」を取り上げるには裏の事情があるのではないかな?という気がしました。
それで少し調べたらNHKはカルチャーセンターの経営なんかもやっているらしく、そこで「風水」だとかの開運ビジネスもやっているんですね。
そうした「開運」だとか「金運」だとかの「運を開く、運をよくする」といった考えは、占いのように消費者が満足する範囲であるなら立派な経済活動として認知されていることだと考えますね。それが、その範囲を超えて多額のお金を騙し取られたなどと消費者が騒げば問題となるわけで。
「運」というのは良きにつけ悪しきにつけ「運ばれてくるもの」だという「一つの考え方」であり、同じ事象を「運、不運」とは別の考え方で見ることも可能であるということだと思います。
・コメントが届いた記事
「運がいい」とは?
・コメントが届いた記事のURL
>・コメントを書いた人
>空海
>・コメント
>そろそろ「空海」という名前にも飽きてきましたから別のコテハンに変えようかと思っていたときに「チコちゃんに叱られる」の面白い話しを見て感心しています。
↑
「チコちゃんに叱られる!」は、生前の家内と息子が視ていた番組でしたが…
当時の私は、殆ど聞き流していました…
でも…家内が亡くなっても、その録画予約は続いいたので、
暇つぶしに真面目に一度視たら、なかなか面白くとても勉強になる事に気付き…
それから、毎回録画を視るようになりました。
今回の「運」・「不運」は、「万事塞翁が馬」という事です。
その時の「幸運」は、後の「不運」へ、またその「不運」は、後の「幸運」になり得るモノです。
>自由びとさんのお考えは私から見れば「南郷先生の本のモザイク」なんですけど、「チコちゃんに叱られる」みたいな番組で「運、不運」を取り上げるには裏の事情があるのではないかな?という気がしました。
↑
私の記述が「…モザイク…」と、しか反映しないのは、お宅の認識力の問題ですかね。
それは、私の以下のような体験が実証しています。
私が、初めて「武道の理論」を読んだ時、
学城?別の著書…に書かれているような「感激」は全くありませんでした。
それは、当時の私には、「武道の理論」に感激可能な認識力がなかった…という事実です。
それでも…後に読んだ「武道講義」に、とても感激できた記憶は痛烈です。
>それで少し調べたらNHKはカルチャーセンターの経営なんかもやっているらしく、そこで「風水」だとかの開運ビジネスもやっているんですね。
>そうした「開運」だとか「金運」だとかの「運を開く、運をよくする」といった考えは、占いのように消費者が満足する範囲であるなら立派な経済活動として認知されていることだと考えますね。それが、その範囲を超えて多額のお金を騙し取られたなどと消費者が騒げば問題となるわけで。
↑
物事の暗黒面に浸り過ぎ…ですね。
この問題は、「運・不運とは?」で終了だと、私は考えますが…。
>「運」というのは良きにつけ悪しきにつけ「運ばれてくるもの」だという「一つの考え方」であり、同じ事象を「運、不運」とは別の考え方で見ることも可能であるということだと思います。
↑
可能も何も…
運とは事実・物事そのモノではなく、
人間側の事実・物事に対する感情・評価なのですから…
十人十色で千差万別の人々の「幸運・不運」の捉え方も、
その人次第なのは当然です。
そうですね!可能も不可能も、その人の認識力次第ですかね。
さてさて…空海お宅にとって…「悟りを求めて~」ブログとの出会いは、幸運or不運?
それも~空海お宅の認識力の有無の問題ですね♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
正確には、どんな出来事・物事も、自己の人生過程の幸運(有益な肥し)として活用・生かせる弁証的論理能力ですかね…