弁証法レベルの運動とは、
前回の記事で弁証法レベルの「対立物の統一」について考えた。
その「対立物の統一」の結果、
人間は眼前の現実を変化・運動だと認識している…と。
さて今、私の周囲の視野・視界の中で、変化してするモノは、パソコンとテレビ画面。
パソコン画面の変化は確りと見えているが、テレビ画面は、横から入っている光の変化しか分からない。
また、テレビの音声の変化、パソコンキーボードと私の指…指先の感触、口の中の唾液の量…今動かした私の手足…
以上のように~
弁証法レベルの対立物とは、
自分の五感で感覚全ての可能な範囲内にある全てのモノの、今少し前と今、そして次の瞬間の統一である。
そして、それらの結果を「対立物として「統一」したのが「弁証法レベル」の「変化・運動」である。
人間以外の動物なら、それら全を、その動物特有の本能で瞬間的に統一してしまっている。
でも、同じ動物の仲間でも人間は、本能ではなく、生後につくりつくられて来た個性的な「認識で統一」している。
一人一人の感覚・認識には、好き・嫌い、得意・不得意、見える・見えていない、感じる・感じていない、匂う・匂っていない…があり得る。
人間は周囲の世界を変化・運動だと認識できるが…
個々の変化・運動の捉え方・認識像は一人一人異なっていて個性的である。
社会生活が必然である人間には、
その特定の社会で、今その瞬間に感覚・認識すべきモノ・コトを、そこにいる他人から学ぶ必要がある。
社会的に必要なのに、今の自分には認識不能な事を、他人を介して認識しようとする努力・取り組み…これが学習。
社会生活には、社会的な共通理解が必要である。
学校では、一年生に学校で必要な認識を教育する。
その認識の基本は、
他人を介して自己の感覚・認識不能・至難なモノを感覚し、認識しえる能力の養成である。
感覚と感情の区別と連関…
感覚とは、この瞬間に感じ得たモノ。
感情とは、その感覚の連続の結果、量質転化化し得たその感覚に対する心情。
前回の記事で弁証法レベルの「対立物の統一」について考えた。
その「対立物の統一」の結果、
人間は眼前の現実を変化・運動だと認識している…と。
さて今、私の周囲の視野・視界の中で、変化してするモノは、パソコンとテレビ画面。
パソコン画面の変化は確りと見えているが、テレビ画面は、横から入っている光の変化しか分からない。
また、テレビの音声の変化、パソコンキーボードと私の指…指先の感触、口の中の唾液の量…今動かした私の手足…
以上のように~
弁証法レベルの対立物とは、
自分の五感で感覚全ての可能な範囲内にある全てのモノの、今少し前と今、そして次の瞬間の統一である。
そして、それらの結果を「対立物として「統一」したのが「弁証法レベル」の「変化・運動」である。
人間以外の動物なら、それら全を、その動物特有の本能で瞬間的に統一してしまっている。
でも、同じ動物の仲間でも人間は、本能ではなく、生後につくりつくられて来た個性的な「認識で統一」している。
一人一人の感覚・認識には、好き・嫌い、得意・不得意、見える・見えていない、感じる・感じていない、匂う・匂っていない…があり得る。
人間は周囲の世界を変化・運動だと認識できるが…
個々の変化・運動の捉え方・認識像は一人一人異なっていて個性的である。
社会生活が必然である人間には、
その特定の社会で、今その瞬間に感覚・認識すべきモノ・コトを、そこにいる他人から学ぶ必要がある。
社会的に必要なのに、今の自分には認識不能な事を、他人を介して認識しようとする努力・取り組み…これが学習。
社会生活には、社会的な共通理解が必要である。
学校では、一年生に学校で必要な認識を教育する。
その認識の基本は、
他人を介して自己の感覚・認識不能・至難なモノを感覚し、認識しえる能力の養成である。
感覚と感情の区別と連関…
感覚とは、この瞬間に感じ得たモノ。
感情とは、その感覚の連続の結果、量質転化化し得たその感覚に対する心情。
お宅はこのように思考するのですね。
私とは随分と違っていますね。
人間は人それぞれで考えが違いますから、違ってはいけないということは有りませんから、違っていて結構です。
ふーん、という感じですね。
昔、玄◯会の夏合宿で共に汗したお友だちが今どうしてるかな?と調べたら皆さん会社の社長だとか大学教授だとか弁護士さんだとか病院の院長さんだとか立派になられていて、南郷先生が指し示した「大志」を実現されたのだなと感慨深いものがありました。
そのお一人が何年か前に発表した論稿に「弁証法や認識論についてお話しすると最後に必ず「だからどうしたの?」という恐い反応が返ってくる」と。
残念ながら、私も自由びとさんのこの記事には「だからどうしたの?」と反応してしまいますね(笑)
私は自由びとさんとは異なって「弁証法というのは学的なもの」だと考えていますから、モノが動いているか?変化しているか?を感覚的に捉えるためには必要ないと思います。
「対立物の統一」の物凄く基礎の基礎は「動いている」ということの理解ですけれど、それが「止まっている」という対立物の理解と表裏一体だということだと思います。それは小学校低学年の国語や理科なのか確認してみないと断定できませんけど、
その国語にも算数にも理科にも社会にも関わる素朴な「動いている、止まっている」といった対立関係が本格的な学的姿を現すのは
例えば「物理学」といった専門分野に入ってからで、私は高校生の時の専門が物理学でしたから物理で理解しやすいわけですけど、「物体が位置を変える、動く」という運動・変化の中でも「動く方向、動く速度」という運動・変化の要素が変わらないものを運動の基本として考えますね。
いわゆる「等速直線運動」と呼ばれる運動・変化で、これは「変速曲線運動(こんな言葉や概念は無いかも知れませんけど)」に対立する「位置は変わっていくけど方向や速度は変わらない、動いているけど止まっている」という一種の矛盾した運動ですよ。
そこから「慣性」という「力が加わらなければ同じ状態を維持する」という判断に繋がり、投げたボールが飛び続けないで減速して落下するのは「力が加わっているから」だ、具体的には地球の重力や空気抵抗だとかの各種の摩擦抵抗だ、とかの判断になるのだと思いますよ。
だから、「邪魔する力を無くす」か「飛び続ける力を加え続ける」かすれば「落下することなく飛び続ける」のだと考えられ、実際にそれは実現されているわけです。
こういう「学知」は中学3年くらいから基礎が指導され高校の物理学で本格的な教育が始まるようですが、そうした「専門分野の学的構造」に入っていかないと、弁証法の本格的な姿は見えてこないと思います。
自由びとさんのような「自然・社会・精神の全分野を一つのものとして包括的に語る抽象論」では見えて来ないと私は考えますね。
敢えて言えば南郷先生の「現代教育に欠けたるもの」の「目的意識を目的意識的に捉え返す」という「同じ人間の目的意識的な活動でありながらも、パチンコや競馬に熱気する目的意識からは区別された《学的認識》」という領域にあるのが弁証法だと私は理解していますね。
そういう意味では神庭さんの「弁証法の像」の絵は太古の昔の太陽系の発生なり生命の誕生なりから一直線の一本道で現代まで続いていますよね?
あれが対立物の統一的でもなければ弁証法的でもないと私には感じられて、敢えて言えば「進化の系統樹」のような「魚のほうにも、恐竜や鳥のほうにも行く可能性を孕んでの人間への進化」という対立物を否定的に背中に背負っているのが弁証法的なのだと思いますから、
おそらくは「弁証法云々」とは言ってない現代看護学を仔細に調べたなら意識的もしくは無意識的な弁証法的な学的構造が構築されている可能性が大いにありますね。
京都の寄筆さんがブルーバックスの理科の本を紹介していましたけど、私は雑学的なものよりも専門分野の体系的な本を読むことをお勧めしたいですよ。
人間十人十色で・その人生色々…ですかね♪
>・コメント
なんというか、こういうことを書いていて自由びとさんは楽しいんですかね?嬉しいんですかね?
↑
「書く」のが、楽しいのではなく、「考える」のが楽しい。
>昔、玄◯会の夏合宿で共に汗したお友だちが今どうしてるかな?と調べたら皆さん会社の社長だとか大学教授だとか弁護士さんだとか病院の院長さんだとか立派になられていて、南郷先生が指し示した「大志」を実現されたのだなと感慨深いものがありました。
↑
「大志」は、その人の大志です。
私の「大志」は私が決めます!
南郷師範の指示したモノだけが「大志」ではありません。
>そのお一人が何年か前に発表した論稿に「弁証法や認識論についてお話しすると最後に必ず「だからどうしたの?」という恐い反応が返ってくる」と。
>残念ながら、私も自由びとさんのこの記事には「だからどうしたの?」と反応してしまいますね(笑)
↑
私の書いた「論稿」は、結果であり、
学校で小学生達と関わり、自分の人生過程の結果です。
>「だからどうしたの?
だから、「弁証法的に思える、今の人生は面白い・楽しい・苦しい・悲しい…」なのです。
>私は自由びとさんとは異なって「弁証法というのは学的なもの」だと考えていますから、モノが動いているか?変化しているか?を感覚的に捉えるためには必要ないと思います。
↑
「〇〇学」って、どこにあるの?
それは、現実の中、人間一人一人の人生の中に、あるのでしょう。
たから、当初の「無学」から「○○学」の誕生が起こり得たのでしょうね…
>「対立物の統一」の物凄く基礎の基礎は「動いている」ということの理解ですけれど、それが「止まっている」という対立物の理解と表裏一体だということだと思います。それは小学校低学年の国語や理科なのか確認してみないと断定できませんけど、
その国語にも算数にも理科にも社会にも関わる素朴な「動いている、止まっている」といった対立関係が本格的な学的姿を現すのは
例えば「物理学」といった専門分野に入ってからで、私は高校生の時の専門が物理学でしたから物理で理解しやすいわけですけど、「物体が位置を変える、動く」という運動・変化の中でも「動く方向、動く速度」という運動・変化の要素が変わらないものを運動の基本として考えますね。
↑
止まっている物体でも、原子や分子は動いています。
止まっている電車でも、中の乗客は動いています。
「動く」と「止まる」は、対立物ではなく、直接的同一性ですね。
>いわゆる「等速直線運動」と呼ばれる運動・変化で、これは「変速曲線運動(こんな言葉や概念は無いかも知れませんけど)」に対立する「位置は変わっていくけど方向や速度は変わらない、動いているけど止まっている」という一種の矛盾した運動ですよ。
>そこから「慣性」という「力が加わらなければ同じ状態を維持する」という判断に繋がり、投げたボールが飛び続けないで減速して落下するのは「力が加わっているから」だ、具体的には地球の重力や空気抵抗だとかの各種の摩擦抵抗だ、とかの判断になるのだと思いますよ。
>だから、「邪魔する力を無くす」か「飛び続ける力を加え続ける」かすれば「落下することなく飛び続ける」のだと考えられ、実際にそれは実現されているわけです。
↑
「だからどうしたの?」
>こういう「学知」は中学3年くらいから基礎が指導され高校の物理学で本格的な教育が始まるようですが、そうした「専門分野の学的構造」に入っていかないと、弁証法の本格的な姿は見えてこないと思います。
↑
弁証法での「運動・変化」のレベルとは、異なっている「変化・運動」ですね。
>自由びとさんのような「自然・社会・精神の全分野を一つのものとして包括的に語る抽象論」では見えて来ないと私は考えますね。
↑
私って、そんな抽象論書きましたか?
弁証法で扱う「変化・運動」は、空手で例えるなら、
形は全く同じ「突き」なのに、
その内実・質・威力が、白帯レベルから紫レベル…黒帯レベル・更には達人レベルへ上達・変化していった時。
その変化は、どのような修業・修行(運動の結果)か?
自然的な生活・食事・運動は?
社会的な環境・人間関係は如何?
精神的に如何なる認識運動が必要か?
弁証法は、上達の為、眼前の「変化・運動」を変える為のモノ。
本質的・基本的な「変化・運動法則」を用いて、対象の変化・運動性を目的意識的に、変化させる為のモノ。
その反応は意表を突かれました(笑)。もしも自由びとさんが書いているように私よりも古くから玄◯に在籍していて全国の支部が一堂に会した夏合宿に同席していたならば、まずは同じ炎天下の時空を共有していた仲間だったことを喜ぶでしょう。
それが無い理由は、私よりも昔から在籍していたという話しが嘘で夏合宿の思い出を共有できない、菅野幸子さんや朝霧(加藤?)何某、橘某のような現在は幹部であっても私より後輩か、京都の寄筆さんのような本田さんと天寿堂さんの両方から「お試し期間は終了だよ」と宣告された門外漢か、の可能性と
今は社会的にうだつの上がらぬ立場でいるのを内心恥ずかしく思っている私と同類の人間か、でしょうね。
>「◯◯学」って、どこにあるの?
それぞれの専門分野の先生が歴史的に構築されてきた学知を踏まえて様々な出版社から本を発刊していますよ。個人=孤人の努力で何とかなるものでも有りませんからね。
その「◯◯学」を教え導くことが入学金や授業料を払って学ぶ学校の教授(神庭さん?)の収入になったり、本を売ってる出版社の利益となり著者の印税となるという全体的な経済活動として世の中は動いているわけです。
>止まっている物体でも、原子や分子は動いています。
…「動く」と「止まる」は、対立物ではなく、直接的同一性ですね。
私はこの文言に「像で考えるのと言葉で考えるとの違い」を感じました。
私のような物理学・工学を専攻していた人間からしたならば、この中学生の理科で学ぶ「分子のブラウン運動」の知識は「材料の耐用年数」という実用性の問題に行き着きます。
古い言葉で言ったなら「形あるものは必ず壊れる」ということになるのでしょうが、人間が作った道具には必ず「経年劣化」「耐用年数」というのがあって永遠に使うことは出来ません。
「材料工学」という分野もありますけど、「こういう性能を持たせたい」と材料・材質に人為的に加工するわけです。
ですが、その人為的な性質は時間が経っていくと共に失われていきます。それは分子のブラウン運動によるところもあるでしょうし、モノには寿命があるということも分子のブラウン運動に由来するところがあると思います。
ですが、「哲学者たちは世界を解釈してきたに過ぎないが、問題は世界を変えること」だと説いたマルクスの考えにも通じる「実学たる工学」では分子のブラウン運動によって機体は脆くなっていくにしても「飛行機の寿命は20年〜25年」という限定された範囲の中で使う分には「機体の分子がブラウン運動をしている」ということは「相対的(関係がある)独立(関係がない)」の「独立(関係ない)」と見做して無視しても構わないということになります。
人為的にモノを作って実用するという過程の中の、言わば「家の間取りという構造の中に、「直接的同一性」だとか「相対的独立」だとかはリビングの話しなのか?キッチンの話しなのか?それともトイレ?という《映像》との対応を探していく思考に対して
自由びとさんのような
「動く」と「止まる」(という言葉の関係)は、対立物ではなく、直接的同一性ですね
という「像」ではなく「言葉」を中心とした習慣的な思考が「像で考えるのではなく、言葉で考えている」ことの典型だと判断されましたね。
>雲海
>・コメント
>>私の「大志」は私が決めます
>その反応は意表を突かれました(笑)。もしも自由びとさんが書いているように私よりも古くから玄◯に在籍していて全国の支部が一堂に会した夏合宿に同席していたならば、まずは同じ炎天下の時空を共有していた仲間だったことを喜ぶでしょう。
>それが無い理由は、私よりも昔から在籍していたという話しが嘘で夏合宿の思い出を共有できない、菅野幸子さんや朝霧(加藤?)何某、橘某のような現在は幹部であっても私より後輩か、京都の寄筆さんのような本田さんと天寿堂さんの両方から「お試し期間は終了だよ」と宣告された門外漢か、の可能性と
今は社会的にうだつの上がらぬ立場でいるのを内心恥ずかしく思っている私と同類の人間か、でしょうね。
↑~
「仲間は仲間」でも、殆どの人達が夏合宿だけの空手の仲間。
私の場合は大学支部と違って一般支部であり、共に参加したメンバーも社会人三人?でした。
もし仮に、私が大学支部の大学生としての参加なら、お宅の言うような「喜び」のあり得たでしょうね…
これが、私の「それが無い理由」です。
なので、お宅の思っている「理由」は間違っています。
お宅は、他人の立場で、その他人事を考えずに、
お宅自身の立場から他人事を勝手に妄想するから間違うのですよ。
お宅の勝手な妄想をどんどん広げて…「骨折り損のくたびれ儲け」ですね。
>>「◯◯学」って、どこにあるの?
>それぞれの専門分野の先生が歴史的に構築されてきた学知を踏まえて様々な出版社から本を発刊していますよ。個人=孤人の努力で何とかなるものでも有りませんからね。
その「◯◯学」を教え導くことが入学金や授業料を払って学ぶ学校の教授(神庭さん?)の収入になったり、本を売ってる出版社の利益となり著者の印税となるという全体的な経済活動として世の中は動いているわけです。
↑
へ~ちょっとビックリ!
学術論文ではなく、出版社から本を発刊すれば「学問」ですか?
>>止まっている物体でも、原子や分子は動いています。
>>…「動く」と「止まる」は、対立物ではなく、直接的同一性ですね。
>私はこの文言に「像で考えるのと言葉で考えるとの違い」を感じました。
私のような物理学・工学を専攻していた人間からしたならば、この中学生の理科で学ぶ「分子のブラウン運動」の知識は「材料の耐用年数」という実用性の問題に行き着きます。
古い言葉で言ったなら「形あるものは必ず壊れる」ということになるのでしょうが、人間が作った道具には必ず「経年劣化」「耐用年数」というのがあって永遠に使うことは出来ません。
「材料工学」という分野もありますけど、「こういう性能を持たせたい」と材料・材質に人為的に加工するわけです。
ですが、その人為的な性質は時間が経っていくと共に失われていきます。それは分子のブラウン運動によるところもあるでしょうし、モノには寿命があるということも分子のブラウン運動に由来するところがあると思います。
>ですが、「哲学者たちは世界を解釈してきたに過ぎないが、問題は世界を変えること」だと説いたマルクスの考えにも通じる「実学たる工学」では分子のブラウン運動によって機体は脆くなっていくにしても「飛行機の寿命は20年~25年」という限定された範囲の中で使う分には「機体の分子がブラウン運動をしている」ということは「相対的(関係がある)独立(関係がない)」の「独立(関係ない)」と見做して無視しても構わないということになります。
↑
なんか…噛み合いませんね。
弁証法で扱う「変化・運動」とは、一般的な・全体的な変化・運動です。
例えば、人間が「走る・止まる」という運動・変化を考える時、
事実的には、「足が動く・全身が移動する」・「足が止まる全身が停止」。
ここで、弁証法的に考えるなら、人間の足が動く事は、全身体の筋肉・血液・内臓…全てが走る為の変化・運動する」
次に、足が止まる・事は、身体中の全ての器官が、足を停止する為の変化・運動する。
ここで、足の「動く」と「止まる」だけを対立物の統一と捉えるのは、弁証法的ではありません。
お宅の言葉は、事実的な「動く・止まる」を弁証法の「対立物の統一」で捉える事になり、それは間違った使い方ですね。
>空海
>・コメント
>「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだが、問題なのは世界を変えること」というマルクスの考えにも通じる「実学としての物理学・工学」を専攻していた私からすると
↑
更なる問題は、「どのレベルで世界を変えるか」ですね。
現象レベルで変えるか?
構造レベルで変えるか?
本質レベルで変えるか?
物理的状態変化レベル的に変えるか?
化学反応的レベル的に変えるか?
>人為的にモノを作って実用するという過程の中の、言わば「家の間取りという構造の中に、「直接的同一性」だとか「相対的独立」だとかはリビングの話しなのか?キッチンの話しなのか?それともトイレ?という《映像》との対応を探していく思考に対して
>自由びとさんのような
「動く」と「止まる」(という言葉の関係)は、対立物ではなく、直接的同一性ですね
↑
>という「像」ではなく「言葉」を中心とした習慣的な思考が「像で考えるのではなく、言葉で考えている」ことの典型だと判断されましたね。
お宅は、私の指摘だけでは気付けませんね。
私は、私の言葉から、今気付きました。
「動く」は言葉として「ある」が事実的にはありません。
そもそも、現実・事実的には「動く・止まるは絶対なく」、
あるのは、「○○が、動く・止まる」なのですよ。
このように「動く・止まる」だけの像などありえませんよ。
と言うことは、「「像で考えるのではなく、言葉で考えている」のは、お宅のようですよ!
自動車が動く時には、
エンジン・スタート・ブレーキOFF。
自動車が止まる時には、
ブレーキON、ギヤー・エンジンOFF。
動く為にブレーキを止める。
止まる為にブレーキを動かす。
動く為に止める。
停める為に動かす。
ほれほれ…
ヤッパリ「動く・止まる」は、直接的同一性ですよ。
もっとも、つまらんと感じているのは私のみで、他の誰かには刺激的で抜群に面白い話しだと映っていないとは限りませんから、そういう読者からのコメントを待つことでしょうな。
それじゃー、機会があったらまた。