新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「対立物の統一」と「直接的同一性」について…

2023-07-29 11:52:47 | …弁証法…
「対立物の統一」と「直接的同一性」について…

空海お宅が、コメント欄へ「動くと止まるは対立物の統一」ただと書いて寄越した。
でも…違和感を生じた私は、「違う!直接的同一性」だと書き込んだ。

しかし…考えていくうちに、「動く」と「止まる」とは何か?という疑問が生じ…

「動く」とは、何かが「動く」。または、何かが「動く状態にある」。
動くモノがある。動く状態のモノがある。



「動くと止まる」を「対立物の統一」的に捉えるなら、
「あるモノの動く・動いている」状態と「そのモノの止まる・止まっている」状態の統一であろう。
「子供が走っている」と「大人が止まっている」との統一ならば、「人間の走る・止まるの統一」。
子供と大人が異質でも、人間一般としては同質となるのだから…

でも、走っている人が止まった時なら、どうなる?
これは、「走るから止まる」の状態変化という事になろう。

これは、全身が「走れる状態から止まれる」状態へ変化した結果、止まれた。
この場合の対立物とは「走ると止まる」ではなく、
その時々の全身状態になり、その統一、となろう

走るも止まるも同じ個体での事なら、現象的には対立している、ようでが…
現実には、同じ個体が、ある瞬間に「走ると止まる」を同時にする事は不可能。
このどちらも一つの個体の変化・運動状態という事で「直接的同一性」となろう…
現象的には、別物でも、身体的な状態としては、同じモノ。

師範が、「空手と弁証法を、対立物の統一ではなく、相互浸透的に学んだ」と書いている。
この意味を私なりに考えてみた。


空手と弁証法は、自分の外にある。
これが、「空手というモノ」と「弁証法というモノ」なら、二つの統一も可能だろう。
でも、空手も弁証法も実体のないモノ…
それでも、双方を知っている者なら、その者の認識の中で、空手と弁証法の統一が可能だろう。

南郷師範は、己が「空手を識る」とも「弁証法を識る」とも思えなかった。
そこで、空手を空手として学び、弁証法を弁証法として学びつつ、
空手を弁証法的に考え、弁証法を空手的に考え続けた…

これが、可能だった理由は、空手は個別的であり、弁証法は一般的…だから?…
う~ん…?

空手は実体的な技・弁証法は認識・観念的な技…このままでは無理があろう…
そこで、空手を武道空手と位置づけたなら、武道は認識・観念的技…

空手を武道空手として、武道(観念技)を弁証法(観念技)として相互浸透。
ここで問題が…個々の技は、身体的技であり、観念技でもある。
武道技として観念技の創出は可能でも、
突き・蹴り…の身体的実技技は如何にすれば?

そこで、登場したのが「弁証法の三法則」となろう。
武道空手の突き技ではない・初心者の人間的な突きを如何に上達させるか?

師範が、空手と弁証法を相互浸透的に学習可能だった理由は以下であろう。

師範は、空手も弁証法も素人・零レベルで始められたから…
「零空手vs零弁証法」では、対立物統一…なんて不可能であろうから…
「零と零の統一⇒零」にしか過ぎない…

未体験事・無知事と弁証法の学びの両立・並行学習が大切なのだろうか…


さてさて…ここで「直接的同一性」で考えるなら、
空手の学びは、弁証法の学び。
弁証法の学びは、空手の学び。

言葉で書けても、認識としては如何に?
弁証法とは、変化・運動の一般法則。

空手の変化・運動とは?
零空手から武道空手への上達・運動の一般法則化。
白帯⇒紫帯⇒緑帯⇒茶帯⇒黒帯⇒武道達人技への上達・運動の一般法則化。








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54 コメント

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Unknown (雲海)
2023-07-30 00:53:03
この記事も大して中身は有りませんが、自由びとという人物の思考過程を辿ることが出来て興味深いところはありますね。

タイトルの「対立物の統一ではなくて相互浸透」というのも、それなりに興味を覚えます。

それは、南郷学派が、南郷先生が、三浦つとむさんの「相互浸透、量質転化、否定の否定という弁証法の三法則を統括・総括する上位概念が対立物の統一だ」という考えから離れたということでしょうからね。

そこに自由びとの言う「南郷弁証法」というものの独自性というか、師から離れた守破離の「離」があるのでしょう。

『武道と弁証法の理論』あたりまでは「三法則の上位概念が対立物の統一」だと書いてましたけど、その後の『学城』の流れの中で「対立物の統一」という考えを棄てることに至ったのでしょう。
確か「三法則から直接に対立物の統一へは行けない」とか書いていた記憶がありますが、文献を丹念に追って行かないと即断は出来ません。でも、「対立物の統一」ということはレーニンが述べたことですから、「哲学のレーニン的段階」を否定する勢いに乗ってそのまま「対立物の統一」も否定し捨て去った可能性はありますね。

同時に『武道と弁証法の理論』では「アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的」というマルクスが『経済学批判』で述べた枠組みを壊すな!と説いていたのに、新しい『夢哲学原論』では現代の西洋史学の枠組みを踏襲してマルクスの枠組みに乗っていた滝村先生を非難するようなこと書いてます。

それが南郷先生の三浦・滝村の両恩師から守破離の「離」に至った独立宣言なのかも知れませんねぇ。

私はレーニンの国家に対する考えだとかソ連という国に対する是非は兎も角も「対立物の統一unity of opposites」という理解は認識論上の極めて重要なものだと今でも考えていますから、後々、あー10代の時に影響を受けた南郷先生とは此処で道を分かったのだなと想起される時が来るでしょう。
返信する
Unknown (雲海)
2023-07-30 01:07:40
あー、私が述べた「自由びとの思考過程」というところを述べていませんでしたね。

三浦の弁証法の体系からすれば「対立物の統一」には直接的統一と媒介的統一というそれ自体が対立関係の理論的構造があるとされています。

そこからすれば「動くと止まる」という対立関係は「直接的統一」と「媒介的統一」とが有ることになりますし、その具体例はいくらでも上げることが出来ます。

では、どうして自由びとは「動くと止まるの媒介的統一ではなく直接的統一たる直接的同一性を問題にしたい」と問題提起するのではなく、唐突に「動くと止まるの関係は直接的同一」だなどと述べたのでしょうか?

それは私が現代物理学における「運動の中に静止をみる、慣性」について述べたからです。

私が示した知見について「成程、それは動くと止まるとを直接的同一において考える視点だね」とは言えずに「相手が示した知見を素知らぬ形で自分が発した見解であるかにすり替えようとした盗っ人根性」なんでしょう。

スリというのは幼い頃からの育ちの関係で無意識的に他人の懐に手を入れる習慣があるそうですから、無意識の人格というところに、その人間(自由びと)の本質があるということなんでしょう。
返信する
「雲」もいいけど…「空」の方が好きかな (自由ひと)
2023-07-30 11:24:48
>・コメントを書いた人
>雲海


え!う~?

「雲海」お宅と「空海」お宅って、別人なの?
それとも、同一人物…面白い謎ですね♪♪

以前に「流雲」というHNがお気に入りでしたが…
今は「空」が好きですから「空海」が気に入っていますね。

空虚、空腹、空前、空気、空事、空言、空事、空想、空間…
「空っぽ」だから、大量に入れられるモノですね!

空理空論…あるある…空理空論の対立物から実理実論ですかね…



>・コメント
>この記事も大して中身は有りませんが、自由びとという人物の思考過程を辿ることが出来て興味深いところはありますね。
>タイトルの「対立物の統一ではなくて相互浸透」というのも、それなりに興味を覚えます。



「ものを考えよう」
「ものは考えよう」ですからね。


>それは、南郷学派が、南郷先生が、三浦つとむさんの「相互浸透、量質転化、否定の否定という弁証法の三法則を統括・総括する上位概念が対立物の統一だ」という考えから離れたということでしょうからね。


う~…
「対立物の統一」における。

「対立する観念体の統一」と「対立する実体の統一」の「統一」です、かね。

例えは、
相手と自分の対話での「統一の場合」、
今眼前の相手の一挙一動と言葉から、
「相手の言い分・感情」を認識・像化して、
現実的条件や私の考え・想い…統一して過程的結論を出す。

しかし、南郷氏が空手と弁証法を相互浸透的に学習した場合では、
当時の彼にとって、空手も弁証法も零レベルで、
「零と零の統一」からは、何も生まれない零だったから…

言うなれば、「対立物の統一」以前なのでした。

例えば、新入学の一年生が、学校・教室・学級・教師との相互浸透をせず、
初めから、「教師と自分の対立物の統一」をしたら…
学校の勉強ができる、ようになり得ますか?



>そこに自由びとの言う「南郷弁証法」というものの独自性というか、師から離れた守破離の「離」があるのでしょう。


「離」ではありません。
「南郷弁証法への道」です。



>『武道と弁証法の理論』あたりまでは「三法則の上位概念が対立物の統一」だと書いてましたけど、その後の『学城』の流れの中で「対立物の統一」という考えを棄てることに至ったのでしょう。
確か「三法則から直接に対立物の統一へは行けない」とか書いていた記憶がありますが、文献を丹念に追って行かないと即断は出来ません。でも、「対立物の統一」ということはレーニンが述べたことですから、「哲学のレーニン的段階」を否定する勢いに乗ってそのまま「対立物の統一」も否定し捨て去った可能性はありますね。


『学城』では、未開の分野・学問への道ですから…
論文の展開としての「対立物の統一」はないのでしょうね。
それでも、現実的・事実的な実践過程での具体レベルの「対立物の統一」はしているでしょうね。




>同時に『武道と弁証法の理論』では「アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的」というマルクスが『経済学批判』で述べた枠組みを壊すな!と説いていたのに、新しい『夢哲学原論』では現代の西洋史学の枠組みを踏襲してマルクスの枠組みに乗っていた滝村先生を非難するようなこと書いてます。


「温故知新」ですかね。
過去の枠組みを踏まえて、新たな展開を求めての事なのでは?





>それが南郷先生の三浦・滝村の両恩師から守破離の「離」に至った独立宣言なのかも知れませんねぇ。

>私はレーニンの国家に対する考えだとかソ連という国に対する是非は兎も角も「対立物の統一unity of opposites」という理解は認識論上の極めて重要なものだと今でも考えていますから、後々、あー10代の時に影響を受けた南郷先生とは此処で道を分かったのだなと想起される時が来るでしょう。


サルから進化して人間になっても、結局は「サル(動物的)から離れられない」のが人間ですよ。
「守」・「破」・「離」とは、現象的モノだと私は解釈しています。

型・形を正確に「守る」レベルから、
型・形の本質を「守り」かつ自分なりに崩す「型・形を破る」レベルへ、
そして、型・形の本質を保持しつつ型・形に拘らない「離れる」レベルですかね。

外見・型・形・言葉・文章・表現(変化・運動の結果)…としては別物でも、
その認識像の本質(実体・実態)は同一ですね。
返信する
私より年上お宅!? (自由びと)
2023-07-30 12:03:51
・コメントを書いた人
>雲海

>・コメント


>あー、私が述べた「自由びとの思考過程」というところを述べていませんでしたね。



本当に「自由びとの思考過程」の理解なの?
もしかして、いつもの「雲海お宅の分ったつもりの分っていない」では!



>三浦の弁証法の体系からすれば「対立物の統一」には直接的統一と媒介的統一というそれ自体が対立関係の理論的構造があるとされています。

これは分かるけど…


>そこからすれば「動くと止まる」という対立関係は「直接的統一」と「媒介的統一」とが有ることになりますし、その具体例はいくらでも上げることが出来ます。



そもそも…
先ずは「動く・止まる」という事実はあるのかorないか、が問題です。
現実では、「自動車」が「動く・止まる」であり、「動く・止まる」そのモノはありません。

更に、弁証法で扱う「変化・運動」とは、
例えば、サルならば、サルの変化・運動性(本能)が、
「動く・変わる」というレベルが弁証法の動く・変化するレベルなのです。

サルの本能の変化は、当時の地球環境の変化が、サルの生活を変えた。
サルは直接に本能を変えようとしたのではなく、
そのような生活をし続けた結果、サルの(固定・静止)本能が動き始めた、変化・運動を始めた。
それが、「?」的な問い掛け的な反映…

>では、どうして自由びとは「動くと止まるの媒介的統一ではなく直接的統一たる直接的同一性を問題にしたい」と問題提起するのではなく、唐突に「動くと止まるの関係は直接的同一」だなどと述べたのでしょうか?


その理由は明確です。
お宅の記述には、明確な「動く・止まる」像が、なかったので、
私が自分的にその認識像を創出した結果なのです。


>それは私が現代物理学における「運動の中に静止をみる、慣性」について述べたからです。


え?
そんな事を書いていましたか?
「運動の中に静止をみる、慣性」って何?

そもそも…何のどんな運動の問題?

自然物の落下運動?
ロケットの宇宙への上昇運動?
ボールの斜面の転がり運動?

動こうとする性質・力に対しての「摩擦力」?


>私が示した知見について「成程、それは動くと止まるとを直接的同一において考える視点だね」とは言えずに「相手が示した知見を素知らぬ形で自分が発した見解であるかにすり替えようとした盗っ人根性」なんでしょう。


お宅と全く異なった思考過程をしている私へ向かって「盗っ人根性」とは、
雲海も空海の「雲と海」は違っていても、同一人物なのですね!
でなければ、双子の兄弟かな…

こんな人物が二人もいたら、世も末ですよ!

そうそう「地球沸騰」…ニュースで言っていました。
また、地球温暖化は、人類にとって害悪でも、
地球にとっては特に問題ない、そうですよ。

ただ…息子が、外国では北海道と同じ面積の火事が発生している…
だから、植物にとっても、「地球沸騰」は害悪?と言っていました(成る程ね♪)


>スリというのは幼い頃からの育ちの関係で無意識的に他人の懐に手を入れる習慣があるそうですから、無意識の人格というところに、その人間(自由びと)の本質があるということなんでしょう。


ほらほら…雲海お宅の思考そのものが、間違っている可能性を考えずに、
自由びとも本質を自分勝手に…想像しているダメダメ見本ですね。

この雲海お宅って、私より年寄なのかも…
今どきに「スリ…育ち」なんて、誰も語りませんし、
「スリ」という言葉をニュースで聞く事も殆どありませんね。
返信する
Unknown (空海)
2023-07-30 18:58:01
別にコテハンを変えるつもりは無かったのですが、他の件で色々とサイトを見ているうちに間違えて雲海と書いてしまったようですね。

空海というコテハンも大して意味があって付けたわけでもありませんが「日本思想史」に大きな足跡を残している空海については何時か本格的に研究したいものですね。

おそらく「空海」の「空」は般若心経・大乗仏教の空に由来するのでしょうが、私が「空海」なんてコテハンを付けているから自由びとが『子どもにおくる般若心経』なんて本を私に寄せて書いた、なんて可能性はありませんね(笑)。

もしかしたなら自由びとは在家の僧侶で悟り=仏教思想に関心がある人物なのかも知れませんが、今回たまたま『子どもにおくる般若心経』を読んだのがキッカケで南郷先生が「悟りとは何か」で説いている「後者(宗教)は周囲にわずらわされなければ、何らの不安もないことを知ってココロの安定をはかってきたのが禅宗だった」だとか「宗教は阿片である」とか「慣れの問題」だとかが帰納的に得心できるものがあるのを理解しました。

禅宗と般若心経とは同じ仏教でも多少流派が違うかも知れませんけど、『子どもにおくる般若心経』に説かれている「色即是空」の「空(くう)」とか「無(む)」というのは
つまりは「意味ないよ」ということで、

哲学だとかの「有(ゆう)」というのは、つまりは「意味あるよ」ということでしょうね。

「問題にしなければ問題にならない」という、正しく南郷先生の書いていた通りの内実があるのでしょう。唯、般若心経というのは仏教の一部でしかありませんから、仏教の全体が空だとか無だと言ったら違うのだと思いますね。

その「無」だとか「空」の「意味ないよ」と問題外のことに出来ないのが「自分の命を守る」という問題だとしたのが南郷先生の武道論シリーズで、「非常心」という「惰性の活動」「慣れの連続」ではなく徹底的に意識した修練をすべきだという「自分の命」という「掛け替えの無いもな」「取り返しのつかないもの」を「危機感をもって死守する」という
それは動物としての人間が本能的に備えている能力ですから、水に顔をつけられて呼吸が出来なければ苦しいから必死に逃れようとするし、棒で叩かれたら痛いから必死に逃れようとする。
そのことを他のことに二重化できたなら、学校の成績が悪ければ棒で叩かれる恐怖から必死に逃れようとする如くに必死に勉強するだとか、そうした人格・人間性が養われるということなんでしょうね。

それが「恐さが無くなったなら駄目だ」という南郷先生の発言でもあるのでしょう。ですが、自由びとのように、今の私もそうですが、平和な日常に慣れてしまって「取り返しのつかないこと」なんか無いと平気でいられる。

ある意味、日本の国家を他国に奪われたなら死活問題だ!などと必死に考えるなんてのは幻想なわけですから、そうした幻想で命がけで活動できる明治維新の志士のような人間であるためには育ちというのが決め手なんでしょう。

自由びとは「運動は存在しない」なんて問題を考えたいようですから、その自分の問題を追いかけて成果をブログに綴りたまえ。

他人である私に答えさせようと企んでいるのでなければね。私にも思い当たることはあるが、ここで書くべきことでは無いでしょうね。
返信する
Unknown (空海)
2023-07-30 19:26:06
慣性が分からぬはずはないでしょう、たしか自由びとは電子工学を専攻していたのだと書いていましたから、電子工学を学ぶのに物理学が分からぬはずはありませんからね。

もっとも物理学を専攻している誰かに二重化するために電子工学を学んだなどと嘘の戦略を言った可能性はありますが。

自由びとが書いていたように「メリットとデメリット」を考えて他者と関わるのでしょうから、私の在籍している団体が玄◯とコラボするメリットは何一つないですよ。

電子工学を専攻していた理系の人間ならば物理学の基礎は当然に知っているはずですし、等速直線運動だと私が書いたことで言ってることは明確に理解できたはずですよ。何故なら「物理学的な運動」という個別科学の話しなのであってその運動法則はリンゴでもミカンでも野球やサッカーのボールでも普遍的に当てはまるものですから。

ただ、ここで「物理学の運動法則」とは言わないで単に「運動」といったなら日本語では「物理学的なガリレオやニュートンの運動法則」ばかりでなく「人間の政治的な活動」さえも「運動」と言うわけですから、それに対しては「明確に何の運動かを述べて貰いたい」となるでしょう。

そして「運動と静止は直接的同一」だと言うそのモデルが「コンクリートの壁は止まっていても原子は振動(運動)している」というものならば、
「物体として動いているもの(例えばジェットコースター)を構成している原子」という関係を省みたならば「運動と運動が直接的同一」ということになります。

それで何か意味が有るのか?ですよね。仮にそれを「全体と部分」という概念で捉えたとしたならば、「全体は静止しているが部分は運動している」という関係もあれば「全体が運動していて部分も運動している」という関係もある。

それを「運動と静止の直接的同一」と「運動と運動の直接的同一」とするのか?そうすることに有用な意味が生じるのか?だと考えます。

まー、こんな回りくどいこと書いたけど、実際には私が瀬江千史の「科学と技術」を批判したコメントを覚えていて悟りきれなくて反撃に出たのだと理解していますけどね。
返信する
Unknown (空海)
2023-07-31 03:36:51
自由びとが述べている「空手と弁証法の相互浸透」ということは、私が理解している「三浦つとむの弁証法の体系」からするならば「対立物の相互浸透」なわけです。

その「対立物」というのは「自己と他者」という対立関係で、「自己と他者」というのがどうして対立関係なのか?といったなら「教える側と教わる側」というそれ自体が一対(いっつい)のセットになっている関係で、その「教える側と教わる側」という関係が「自己と他者」との間で入れ替わり立ち替わりするわけです。

空手を学ぶときも「空手というもの」が空中に浮かんでいるわけではなく「空手を身に付けている誰か」から教わるわけで、南郷先生の場合は最初は埼玉大学の空手部初代師範であった松濤館流の佐々木武さんから、後に玄制流の祝嶺正献さんからだと分かっています。そうした空手の先達と「師弟関係」を結んで「立ち方はどうする、突き方はどうする、蹴りは、型は、組み手は」と教え与えて貰うのが空手の習得過程ですから「空手を知らない時」が零だとしたならば先生に会って入門した時点で10とか20とか100とか与えて貰って、決して比例函数のような線形の学びをするわけではありませんね。

弁証法の場合も自ら編み出すわけではなく、歴史的に継承されてきたものを先達について学ぶわけで、南郷先生の場合は最初は柳田謙十郎の本で、その後は三浦つとむの本に私淑したということになっていますね。その「師と弟子」「教える側と教わる側」という対立関係(セット関係)の中で「自分の中に分身を作る」という「自分という人間の中の超人(スーパーマン)」が「学び写し取った先生、佐々木武師範や祝嶺正献師範、そして自分の中の三浦つとむ」だという観念的二重化が「同じ一人の南郷先生という個人の身体・脳の中でのことだという直接的同一性による融合・混じり合いという相互浸透の「対立物の」という根拠ですけどね。

まあ、もう引退されてるし過去の関係ない話しですけどね。
返信する
私記述に反映したお宅認識! (自由びと)
2023-08-01 11:35:28
>空海

>・コメント

>別にコテハンを変えるつもりは無かったのですが、他の件で色々とサイトを見ているうちに間違えて雲海と書いてしまったようですね。


お宅は、頻繁にコテハン変えているから、そんなミスするのです。
その点、私はいつでも自由にかられる「自由びと」だから安心ですね♪



>空海というコテハンも大して意味があって付けたわけでもありませんが「日本思想史」に大きな足跡を残している空海については何時か本格的に研究したいものですね。


それが、意味あって付けたという事。
意味の大or小…なんて大差ありませんよ。
その意味を自覚できている事に大いなる意味ある!と私は思っていますが…



>おそらく「空海」の「空」は般若心経・大乗仏教の空に由来するのでしょうが、私が「空海」なんてコテハンを付けているから自由びとが『子どもにおくる般若心経』なんて本を私に寄せて書いた、なんて可能性はありませんね(笑)。


私が「般若心経」に興味を抱いたのは、tada氏の言葉から~
「…釈迦は弁証法的…」から仏教に関心を抱いたから…
また、たまたま今勤務している小学校の図書室で、「こどもにおくる般若心経」が目に入ったから…



>もしかしたなら自由びとは在家の僧侶で悟り=仏教思想に関心がある人物なのかも知れませんが、今回たまたま『子どもにおくる般若心経』を読んだのがキッカケで南郷先生が「悟りとは何か」で説いている「後者(宗教)は周囲にわずらわされなければ、何らの不安もないことを知ってココロの安定をはかってきたのが禅宗だった」だとか「宗教は阿片である」とか「慣れの問題」だとかが帰納的に得心できるものがあるのを理解しました。


これは、空海お宅の自分勝手な妄想ですね…
相変わらずの「対象の運動性に反する想像」=非弁証法的変化・運動ですね!

>禅宗と般若心経とは同じ仏教でも多少流派が違うかも知れませんけど、『子どもにおくる般若心経』に説かれている「色即是空」の「空(くう)」とか「無(む)」というのは
つまりは「意味ないよ」ということで、


違います!
著者・彼の解釈・説いている「空」については以下です。


以下にP13~引用

第三章 色即是空  P13~

…「この世は、二つのものから成りたっている。目に見える形あるものと、目には見えない形なきものだ。」

…この世に存在する形あるものは全て、空。すなわち、変化する。変化したらどうなるか?亡びる。亡びて無にかえる。この事を色即是空と言う。

…色即是空とは何か?この世に存在する形あるものは全て、変化したけっか亡びる。亡びて無にかえる。

第四章 空即是色  P19~

…「この世に存在する形あるものは全て、空、すなわち、変化する。変化したけっか、亡びる。亡びて無にかえる。無にかえるだが、ここで終わりではない。その先があるのだ。無もまた空、空を免れない。…

すなわち、無もまた刻々と変化したけっか、そこから様々なものが生まれてくる。このことを空即是色と言う。…
引用終了

彼の説く、「空」とは、変化する事。
「有」が変化した「空」⇒色即是空。
「空」が変化して「有」⇒空即是色。

彼は、変化が「空」なら、変化して結果も「空」









>哲学だとかの「有(ゆう)」というのは、つまりは「意味あるよ」ということでしょうね。
にならない」という、正しく南郷先生の書いていた通りの内実があるのでしょう。唯、般若心経というのは仏教の一部でしかありませんから、仏教の全体が空だとか無だと言ったら違うのだと思いますね。



「意味が有るか?無いか?」は、人間だけの判断であり価値観ですよ。
「仏教全体が空」てはなく、その思考法が「全ては空。全ては変化する。」…と私は理解しましたが…


>その「無」だとか「空」の「意味ないよ」と問題外のことに出来ないのが「自分の命を守る」という問題だとしたのが南郷先生の武道論シリーズで、「非常心」という「惰性の活動」「慣れの連続」ではなく徹底的に意識した修練をすべきだという「自分の命」という「掛け替えの無いもな」「取り返しのつかないもの」を「危機感をもって死守する」という
それは動物としての人間が本能的に備えている能力ですから、水に顔をつけられて呼吸が出来なければ苦しいから必死に逃れようとするし、棒で叩かれたら痛いから必死に逃れようとする。
そのことを他のことに二重化できたなら、学校の成績が悪ければ棒で叩かれる恐怖から必死に逃れようとする如くに必死に勉強するだとか、そうした人格・人間性が養われるということなんでしょうね。


動物は本能的だから、叩かれて飼い主の言う事イヤイヤを聞いたとしても、飼い主を嫌う事はない。

しかし、児童が先生に叩かれ続けた結果、勉強が出来るようになったとしても…

その副作用で、先生大嫌い、勉強大嫌い…そんな認識も形成されてしまうのが人間。

だから、現代社会で、特にスポーツ界、学校で、「体罰厳禁」になってしまっている。
本来は、「教師は、傷つけたくない弟子・教え子に、自らの心を痛めてまで、強制的な体罰で、「自分がやりたくない事且やるべき事」を頑張る・努力する事を教育していたのでしょうね。」


>それが「恐さが無くなったなら駄目だ」という南郷先生の発言でもあるのでしょう。ですが、自由びとのように、今の私もそうですが、平和な日常に慣れてしまって「取り返しのつかないこと」なんか無いと平気でいられる。


空海お宅の「南郷師範」の「恐さが無くなったら駄目だ」の理解・解釈は間違っています。

師範の空手は武道です。
武道空手の技は、
『相手の技があたれば、自分は大怪我・死ぬ』、
『自分技が当たれば、相手は大怪我・死ぬ』…
そんな恐怖感・非日常的な認識」の元で、駆使・使えなければ…
それは、スポーツ空手。ダンス空手であり、非武道的空手になり得てしまう…からです。

どんなに恐怖で手も足もでない状態でも、
それに反して、意志で必死に技を出せる認識・精神の創出ですね。

恐怖で動けない自分を、強制的に動かす自己の創出ですね。

人間的な自己と武道空手的自己の二重化てすかよ。



>ある意味、日本の国家を他国に奪われたなら死活問題だ!などと必死に考えるなんてのは幻想なわけですから、そうした幻想で命がけで活動できる明治維新の志士のような人間であるためには育ちというのが決め手なんでしょう。


う~ん…
「育ち」は、運動能力・感性力が全人的に豊かに、
幻想は「目的意識的に…」ですかね…


>自由びとは「運動は存在しない」なんて問題を考えたいようですから、その自分の問題を追いかけて成果をブログに綴りたまえ。


自由びとの主張は、
現実的なモノ・コトを離れた「変化・運動」は、ありません。
それでも、現実を離れて空想・想像可能なので人間の認識なのです。

だから、自分が「変化・運動」そのものを見て・想い・考え想像している時、

その空想・想像している「変化・運動」の元になっている現実的な「モノ・コトの変化・運動」を自覚・意識する必要がある、なのです。




>他人である私に答えさせようと企んでいるのでなければね。私にも思い当たることはあるが、ここで書くべきことでは無いでしょうね。


「…答えさせよう…」なんて、
それは、お宅自身の感情・想い・思考が、私の言動に投影されている認識ですよ。
私は、お宅の答えを求めていません。
私が、求めているのは、お宅のトンデモコメントです。

お宅は、お宅の自由で書く事をお勧めします。
私が、お宅に解答を求めている…なんてお宅の妄想です。

それでも、弁証法的に捉えるなら、誤答・無関係な言動…
全ては、全体の一部であり、
「部分的な不正解」が故に「全体的な正解」
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万物流転 (自由びと)
2023-08-01 12:10:30
>・コメントを書いた人
>空海

>・コメント
>慣性が分からぬはずはないでしょう、たしか自由びとは電子工学を専攻していたのだと書いていましたから、電子工学を学ぶのに物理学が分からぬはずはありませんからね。



そんな40年以上の前の知識なんて忘れましたよ。


>もっとも物理学を専攻している誰かに二重化するために電子工学を学んだなどと嘘の戦略を言った可能性はありますが。


バカですね!
私は、そんな嘘はつきません。
また、こんな些細な事で嘘を吐く必要性も感じませんね。

それって…空海お宅が、嘘つき常習犯だと自白しているようなモノですね。!

>自由びとが書いていたように「メリットとデメリット」を考えて他者と関わるのでしょうから、私の在籍している団体が玄◯とコラボするメリットは何一つないですよ。


この「考えて他人と関わる」のは、空海お宅の認識です。
私の場合は、、関わった結果の「メリット・デメリット」を考えていますが…


>電子工学を専攻していた理系の人間ならば物理学の基礎は当然に知っているはずですし、等速直線運動だと私が書いたことで言ってることは明確に理解できたはずですよ。何故なら「物理学的な運動」という個別科学の話しなのであってその運動法則はリンゴでもミカンでも野球やサッカーのボールでも普遍的に当てはまるものですから。


知っている事・豊富な知識でも、使わないでいると…忘れる・消失していく…のが人間ですよ。
空海お宅って、人間・人間性の理解・知識は、大いに不足していますね!




>ただ、ここで「物理学の運動法則」とは言わないで単に「運動」といったなら日本語では「物理学的なガリレオやニュートンの運動法則」ばかりでなく「人間の政治的な活動」さえも「運動」と言うわけですから、それに対しては「明確に何の運動かを述べて貰いたい」となるでしょう。

>そして「運動と静止は直接的同一」だと言うそのモデルが「コンクリートの壁は止まっていても原子は振動(運動)している」というものならば、
「物体として動いているもの(例えばジェットコースター)を構成している原子」という関係を省みたならば「運動と運動が直接的同一」ということになります。

>それで何か意味が有るのか?ですよね。仮にそれを「全体と部分」という概念で捉えたとしたならば、「全体は静止しているが部分は運動している」という関係もあれば「全体が運動していて部分も運動している」という関係もある。

>それを「運動と静止の直接的同一」と「運動と運動の直接的同一」とするのか?そうすることに有用な意味が生じるのか?だと考えます。

>まー、こんな回りくどいこと書いたけど、実際には私が瀬江千史の「科学と技術」を批判したコメントを覚えていて悟りきれなくて反撃に出たのだと理解していますけどね。


言いたい事は理解しました…
でも、私なら、「全体的の変化・運動と部分的な変化・運動」は、「変化・運動として直接的同一性」
…と考えましたが…


でも、弁証法は、全ては変化・運動していると考えるから、全ては変化・運動しとしては、直接的同一性。

今、目の前にテーブルの上に置かれた「コーヒーカップ」が見える。
この「カップ」は静止しているように見える。
それでも表面温度は変化している。
また、窓から風に吹かれて、マイクロレベルのズレ・移動があるかも…

それでも、私が手に取って「カップ」持ち上げれば、カップは上に移動・運動する。
でも、これは、カップの運動ではなく、私の手の運動の結果のカップの運動である。

この場合の対立物は、「静止状態のカップと動かした私の手」、これから「対立物の統一」

では、直接的同一性は、「静止カップとカップを見ている私の眼球の静止」…てすかね。

カップに、力学・エネルギーが加えられない限り、カップは動かない。
それで、熱エネルギー、風力エネルギー、光エネルギー…で、
カップは肉眼で観測不能なマイクロレベルで一瞬毎に変化している。



だから「万物流転」ですね♪♪♪
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言うは易し、行うは難し… (自由びと)
2023-08-01 12:55:35
>空海

>・コメント
>自由びとが述べている「空手と弁証法の相互浸透」ということは、私が理解している「三浦つとむの弁証法の体系」からするならば「対立物の相互浸透」なわけです。




当時の南郷氏にとって空手と弁証法の相互浸透」では、ありません。
その理由は、まず、「空手と弁証法」を相互浸透させるには、
「空手」と「弁証法」を「相互浸透させ得る」だけり「知識」が必要です。
空手を知っているモノ、弁証法を知っているモノなら、二つの相互浸透は可能です。

また、空手(弁証法)を知識的に知っていても、空手(弁証法)は実技なので、それだけでは「相互浸透」には不足。

だから、「空手と南郷氏の相互浸透」と「弁証法と南郷氏の相互浸透」を実践。
その実践過程で、
「弁証法が浸透した認識で南郷氏は身体・実技的空手を学び」
「空手が浸透した身体で弁証法の理論ではなく実践を学んだ」

これば、南郷氏の「相互浸透」でしょうね…




>その「対立物」というのは「自己と他者」という対立関係で、「自己と他者」というのがどうして対立関係なのか?といったなら「教える側と教わる側」というそれ自体が一対(いっつい)のセットになっている関係で、その「教える側と教わる側」という関係が「自己と他者」との間で入れ替わり立ち替わりするわけです。


「自己と他者」なら、
「南郷氏と彼の空手の先生」、「南郷氏と三浦つとむ」ですね。

当時の南郷氏の「空手」も「弁証法」…対立物的な状態になり得ない低レベルだった…とう事でしょうか…

どんにに頑張って掛け算しても、
「零×零=零」だし…
「0.01×0.01=0.0001」、




>空手を学ぶときも「空手というもの」が空中に浮かんでいるわけではなく「空手を身に付けている誰か」から教わるわけで、南郷先生の場合は最初は埼玉大学の空手部初代師範であった松濤館流の佐々木武さんから、後に玄制流の祝嶺正献さんからだと分かっています。そうした空手の先達と「師弟関係」を結んで「立ち方はどうする、突き方はどうする、蹴りは、型は、組み手は」と教え与えて貰うのが空手の習得過程ですから「空手を知らない時」が零だとしたならば先生に会って入門した時点で10とか20とか100とか与えて貰って、決して比例函数のような線形の学びをするわけではありませんね。



たぶん…南郷氏は、そんな先生達の教えてくれていた空手に満足できなかったのでしょうね…
だから、道場では、教えてくれている先生達と空手の相互浸透をしつつ、
個人的自学・自習の時には、三浦つとむ弁証法と空手の相互浸透…
弁証法の場合は、著書からの自学・自習で、その内容理解の為に空手との相互浸透。

「対立物の統一」には、対立物のなり得るレベルの「対手」が不可欠です。
学校で伸びの一年生は、自我が強烈でなく、
あまり自信なくで、先生・先生…と担任教師を頼ってくる児童です。


例えば、国語の「ひらがなの書き方学習」では、幼稚園や習い事で、
間違った書き順で、覚えたしまった児童は、先生の教える正しい「書き順」で、書こうとしません。

私が「正しい書き順は…」と言っても、全く覚えようとしません。
その児童にとっては、書き順なんて…もうどうでもよく(書ける満足)、読めて書ければOKなのです。

しかし…学校での勉強の第一歩での「社会的に正しいモノ」を学習しよう!
という勉強をしようと出来ない姿は問題です。


ここでも「勉強「とは、「自分に勉めて強いる」です。
やりたくない事・できない事・面倒臭い事でも、必要な事は、
自分で自分に勉めて強いてやろう…が勉強だと、私は考えています。




>弁証法の場合も自ら編み出すわけではなく、歴史的に継承されてきたものを先達について学ぶわけで、南郷先生の場合は最初は柳田謙十郎の本で、その後は三浦つとむの本に私淑したということになっていますね。その「師と弟子」「教える側と教わる側」という対立関係(セット関係)の中で「自分の中に分身を作る」という「自分という人間の中の超人(スーパーマン)」が「学び写し取った先生、佐々木武師範や祝嶺正献師範、そして自分の中の三浦つとむ」だという観念的二重化が「同じ一人の南郷先生という個人の身体・脳の中でのことだという直接的同一性による融合・混じり合いという相互浸透の「対立物の」という根拠ですけどね。


これは、これでいいんじゃない!
それでも、南郷氏の「空手と弁証法の相互浸透」的学習では、ありませんが…

「空手と弁証法の対立物の統一」とは、
南郷氏が納得・満足できる「武道空手」と「弁証法」が、彼の認識・実体で構築できた時からでしょうね。

確か、南郷氏は、「文武・両道」から「文武両道の統一」と…書いていたような、ないような…?


>まあ、もう引退されてるし過去の関係ない話しですけどね。



会社・組織は引退しても、身体・心・精神・認識は、
死ぬまで引退無き現役(でありたい願望)!
否!死んでも現役ですかね♪♪♪
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