弁証法的に考える「運 (幸運・不運)・(幸せ・不幸)」…
「考える」の二重化
一つ、自分の観念世界の中で思考する。
一つ、具体的な現実世界から思惟する。
前回は、「チコちゃんに叱られる」の以下の言葉を元に「運」とは何かを考えた。
質問~「何で運がいい人悪い日があるの?」
運はタイミング次第で誰にでもいい方向に進められる。
チャンスをつかむことができます。
「運がいい」は、事前の準備・経験で運がつかめている状態。
反対に「運が悪いは、準備ができていない為、運を逃がしている状態。
…という捉え方ができる、ということです。
そして、今回は、現実的事例から思惟する。
例えば、ジャンボ宝くじの一等賞に当たる事は「運がいい」と言える。
しかし、空から落ちてきた鳥の糞に当たるのは「運が悪い」と言える。
この場合の「運」とは、現実的な事実・事件・事柄に偶然に出会う事。
「運」・出会い・チャンスは、誰にでもある。
問題は、その「運」の使い方・役立て方、なのだろう。
その方法如何で、運が、幸運or不運になり得る。
この事例の双方ともに「運が巡って来た」とも言える。
この場合の「運が巡る」とは、今回は当たっても、次回は他人が当たる(他人に巡る)という事。
現実に、同じ人物が、二回・三回も連続で「宝くじ一等」や「鳥の糞」当たる事は、普通にはあり得ない。
普通なかなか出会えないような出来事に出会う事が「運」とも言える。
宝くじ一等が、幸運なのは、賞金を欲して宝くじを買い当選した(欲するモノの偶然の獲得)。
鳥の糞が、不運なのは、鳥の糞など欲していないのに偶然に落とされたから。
鳥の糞などは、あと数センチ違う位置にいたなら、当たらないモノである。
少しの違いで、もらえないモノなのに、もらえたから「運」とも言える。
さて、宝くじの当選は「幸運」であり、そして大金の獲得は幸福である。
しかし、その当選・大金獲得を当人は隠していたのに…
何らかの偶然で周囲に知られてしまい、親戚・友人一同から借金の要望で大変になったなら、それは「不幸」
そして、偶然に周囲に知られてしまった事件は「不運」。
幸運の結果獲得したモノが、必ず「幸福」に繋がるとは限らない。
またゴルフで「ホールインワン」をした場合。
ゴルフの上級者の「ホールインワン」は、実力+運であり、純粋に「運」とは言い難い。
しかし、初心者の「ホールインワン」は、殆ど「運」であろう。
上級者のホールインワンは、求めた結果なので「幸運」…
では、初心者のホールインワンは?
特に求めても、狙ってもないのに得たものなので「幸運」とは言い難い。
それでも「数万分の1の確率」なら、運は運である。
ネット情報
「それどころか、「ホールインワン」を達成した人は、周囲にお祝いする」という暗黙の了解がある。
ゴーファーなら一度は夢見るホールインワン。数万分の1の確率とも言われて一生の自慢になります。」
初心者が、狙って求めた訳でもないのに、訳も分からずに「ホールインワン」して…
多額の祝賀会・記念品…その他の多額の出費は、「不幸」となり得る。
上級者から「ホールインワン」は歓喜であり「幸運」
その祝賀会…の費用も、その多いなる歓喜に比べれば「不幸」になり得ない。
そんな初心者にとっての「ホールインワン」は、「ホールインワン」は「幸運」で、多額の出費は「不幸」。
ある出来事の出会いが「幸運」でも、その出来事の先の結果が「不幸」になり得る。
そして、「不幸」な結果になったので…
入った瞬間は「幸運」だった筈の「ホールインワン」も、結果からみれば「不幸」・「不運」になってしまう。
しかし…ここで「ホールインワン保険」に加入してれば、「多額の出費」という不幸は回避可能であろう。
↑
この「ホールインワン保険に加入」とは、チコちゃんの以下の言葉が活かされる、だろう。
>「運がいい」は、事前の準備・経験で運がつかめている状態。
>反対に「運が悪いは、準備ができていない為、運を逃がしている状態。
>…という捉え方ができる、ということです。
「考える」の二重化
一つ、自分の観念世界の中で思考する。
一つ、具体的な現実世界から思惟する。
前回は、「チコちゃんに叱られる」の以下の言葉を元に「運」とは何かを考えた。
質問~「何で運がいい人悪い日があるの?」
運はタイミング次第で誰にでもいい方向に進められる。
チャンスをつかむことができます。
「運がいい」は、事前の準備・経験で運がつかめている状態。
反対に「運が悪いは、準備ができていない為、運を逃がしている状態。
…という捉え方ができる、ということです。
そして、今回は、現実的事例から思惟する。
例えば、ジャンボ宝くじの一等賞に当たる事は「運がいい」と言える。
しかし、空から落ちてきた鳥の糞に当たるのは「運が悪い」と言える。
この場合の「運」とは、現実的な事実・事件・事柄に偶然に出会う事。
「運」・出会い・チャンスは、誰にでもある。
問題は、その「運」の使い方・役立て方、なのだろう。
その方法如何で、運が、幸運or不運になり得る。
この事例の双方ともに「運が巡って来た」とも言える。
この場合の「運が巡る」とは、今回は当たっても、次回は他人が当たる(他人に巡る)という事。
現実に、同じ人物が、二回・三回も連続で「宝くじ一等」や「鳥の糞」当たる事は、普通にはあり得ない。
普通なかなか出会えないような出来事に出会う事が「運」とも言える。
宝くじ一等が、幸運なのは、賞金を欲して宝くじを買い当選した(欲するモノの偶然の獲得)。
鳥の糞が、不運なのは、鳥の糞など欲していないのに偶然に落とされたから。
鳥の糞などは、あと数センチ違う位置にいたなら、当たらないモノである。
少しの違いで、もらえないモノなのに、もらえたから「運」とも言える。
さて、宝くじの当選は「幸運」であり、そして大金の獲得は幸福である。
しかし、その当選・大金獲得を当人は隠していたのに…
何らかの偶然で周囲に知られてしまい、親戚・友人一同から借金の要望で大変になったなら、それは「不幸」
そして、偶然に周囲に知られてしまった事件は「不運」。
幸運の結果獲得したモノが、必ず「幸福」に繋がるとは限らない。
またゴルフで「ホールインワン」をした場合。
ゴルフの上級者の「ホールインワン」は、実力+運であり、純粋に「運」とは言い難い。
しかし、初心者の「ホールインワン」は、殆ど「運」であろう。
上級者のホールインワンは、求めた結果なので「幸運」…
では、初心者のホールインワンは?
特に求めても、狙ってもないのに得たものなので「幸運」とは言い難い。
それでも「数万分の1の確率」なら、運は運である。
ネット情報
「それどころか、「ホールインワン」を達成した人は、周囲にお祝いする」という暗黙の了解がある。
ゴーファーなら一度は夢見るホールインワン。数万分の1の確率とも言われて一生の自慢になります。」
初心者が、狙って求めた訳でもないのに、訳も分からずに「ホールインワン」して…
多額の祝賀会・記念品…その他の多額の出費は、「不幸」となり得る。
上級者から「ホールインワン」は歓喜であり「幸運」
その祝賀会…の費用も、その多いなる歓喜に比べれば「不幸」になり得ない。
そんな初心者にとっての「ホールインワン」は、「ホールインワン」は「幸運」で、多額の出費は「不幸」。
ある出来事の出会いが「幸運」でも、その出来事の先の結果が「不幸」になり得る。
そして、「不幸」な結果になったので…
入った瞬間は「幸運」だった筈の「ホールインワン」も、結果からみれば「不幸」・「不運」になってしまう。
しかし…ここで「ホールインワン保険」に加入してれば、「多額の出費」という不幸は回避可能であろう。
↑
この「ホールインワン保険に加入」とは、チコちゃんの以下の言葉が活かされる、だろう。
>「運がいい」は、事前の準備・経験で運がつかめている状態。
>反対に「運が悪いは、準備ができていない為、運を逃がしている状態。
>…という捉え方ができる、ということです。
いえ、幸福から不幸へ、不運から幸運へという対立関係で話しを作っているのは理解できるのですが、私が長年親しんできた「弁証法」とは違うような感じがあります。
何となく「風桶屋」みたいな感じで。
それでも私は自由びとさんが以前書いていたようなことを改めて学び直してみようかと何冊か本を書いました。
それは何かを説くのに唯物論だとか観念論だとか、人間とは、なんてことを持ち出して説くやり方ですよ。これはやはり、直接的にはマルクス主義の流れなのだろうな、と。
論理学について調べていくうちに自由びとさんが以前指摘していたtadaさんの「弁証法は論理学である」という考えと同じ考えの論者を見つけたんです。それは京都大学で学位を得たヘーゲルやマルクスの研究者たちで、みな大学の名誉教授という高い地位についた人でした。
大学教授だった人たちですから、学的な論の深みがあるのだろうと本が届くのを楽しみにしています。
それで、自由びとさんが書いていたことが別の形で反映するならば幸いですけどね。
>・コメント
>まったく分かりません。これがどうして弁証法的なのか?
↑
その理由は、お宅の弁証法の概念と私の概念の相違、ですね。
>いえ、幸福から不幸へ、不運から幸運へという対立関係で話しを作っているのは理解できるのですが、私が長年親しんできた「弁証法」とは違うような感じがあります。
↑
対立関係を作り出し、その二つを結び付けようとした時、そこに発生する変化・運動性を捉える事も弁証法です。
>何となく「風桶屋」みたいな感じで。
↑
「風桶屋」の関係性とは、現実的には、殆ど発生し難い偶然の連続的関係です。
その関係性は「思考」観念レベルでは可能でも、「思惟」現実レベルでは、無理があり非現実的、という事。
これが、分かる事も「弁証法」の効用です。
「観念的思考」と「現実的思惟」の関係・運動性。
>それでも私は自由びとさんが以前書いていたようなことを改めて学び直してみようかと何冊か本を書いました。
>それは何かを説くのに唯物論だとか観念論だとか、人間とは、なんてことを持ち出して説くやり方ですよ。これはやはり、直接的にはマルクス主義の流れなのだろうな、と。
>論理学について調べていくうちに自由びとさんが以前指摘していたtadaさんの「弁証法は論理学である」という考えと同じ考えの論者を見つけたんです。それは京都大学で学位を得たヘーゲルやマルクスの研究者たちで、みな大学の名誉教授という高い地位についた人でした。
>大学教授だった人たちですから、学的な論の深みがあるのだろうと本が届くのを楽しみにしています。
それで、自由びとさんが書いていたことが別の形で反映するならば幸いですけどね。
誰が、どう思おうと…
それでも…論理学と弁証法は別物です。
理由は簡単、それらの表現・言葉・漢字が異なっています。
「弁証法は超一般レベルの法則」です。
その弁証法を論理学的に捉えるなら、
具体レベルの弁証法、
具象レベルの弁証法、
抽象レベルの弁証法、
自然(レベル)の弁証法、
社会(レベル)の弁証法、
精神(レベル)の弁証法、
観念論(レベル)弁証法、
唯物論(レベル)弁証法、
絶対精神の自己発展(レベル)の弁証法、
生命の歴史(レベル)の弁証法…
以上です。
「自由びとさんが書いていたことが別の形で反映するならば幸いですけどね。」
↑
そんな「幸い」があれば、「幸運」ですね。
なければ、「骨折り損のくたびれ儲け」で、
そんな「くたびれ儲け」なら、きっと「不運」なのでしょうね…。
もっとも…
私の「不運」は、お宅の「幸運」なので、
お宅の「幸運」は、私の「不運」なので、しょうからね…