思いの言語化
この思いの始まりは、「全ては疑いうる」だった。
そして、その到達点は、「我思う故に我あり」。
そこから「我思う故に我あり」は、人間が生きる事であり、
それこそが哲学の始まりである、という思いが始まる…
「我思う故に我あり」に至る過程とは、
「全ては疑いうる」という思いで、
「全ては疑いうる」という思いを疑う事になり…
何が何だか…収集不能になっている事態の解決の為に、
全てを疑っている己の思いが、今ここに存在している事は、
「疑いもない事実」=「我思う故に我あり」となった。
「我思う故に我あり」が哲学の始まりとしたのか?
そもそも…確かに、この記事の始まりは「全ては疑いうる」だったが…
この始まりの前には、疑うも信じる認識できない状態が長く続いたのであろう。
しかし、それは、その状態を自覚でき難い状態でもある。
幼子・子供は、大人の言う事が正しいモノと認識して生きている。
それは、「信じる」という自覚なく、その通りだと思っている。
より正確には、「本当だと思う事も思っていない・思えない」で
「その通り」問題なく進める認識・状態。
そんな無自覚に大人の言葉を本当だと思える時代が続いて、
だんだん、本当とは、言葉と現実・事実の一致だと思えるようになっていく。
そして、その言葉と事実・現実の一致の確認へと進めるようになっていける。
しかし…そこに問題が~
例えば~
ある人・Aが「幽霊を見た!」と言ったとする。
でも、幽霊の存在を信じない人・Bなら、
「それは嘘!」と決めつけBの言葉を信じないだろう。
しかし、Aが幽霊を見たと信じて思っている事は事実である。
それは、Bからすれば幽霊とは思えない「何かをAが見た」、という事実である。
「全ては疑いうる」が、同時に
「全ては信じうる」でもある。
全ての言葉は、
その言葉を発している当人には「信じうる」モノ、
それでも、他人からすれば「疑いうる」モノ。
全てを疑ってしまう人間が、
疑いなく信じられる全てを
求めている過程が哲学なのだろう。
疑いを抱かずに、
確信可能な~全てとは?疑うとは?信じるとは?本当とは?虚偽とは?自分とは?他人とは?
この思いの始まりは、「全ては疑いうる」だった。
そして、その到達点は、「我思う故に我あり」。
そこから「我思う故に我あり」は、人間が生きる事であり、
それこそが哲学の始まりである、という思いが始まる…
「我思う故に我あり」に至る過程とは、
「全ては疑いうる」という思いで、
「全ては疑いうる」という思いを疑う事になり…
何が何だか…収集不能になっている事態の解決の為に、
全てを疑っている己の思いが、今ここに存在している事は、
「疑いもない事実」=「我思う故に我あり」となった。
「我思う故に我あり」が哲学の始まりとしたのか?
そもそも…確かに、この記事の始まりは「全ては疑いうる」だったが…
この始まりの前には、疑うも信じる認識できない状態が長く続いたのであろう。
しかし、それは、その状態を自覚でき難い状態でもある。
幼子・子供は、大人の言う事が正しいモノと認識して生きている。
それは、「信じる」という自覚なく、その通りだと思っている。
より正確には、「本当だと思う事も思っていない・思えない」で
「その通り」問題なく進める認識・状態。
そんな無自覚に大人の言葉を本当だと思える時代が続いて、
だんだん、本当とは、言葉と現実・事実の一致だと思えるようになっていく。
そして、その言葉と事実・現実の一致の確認へと進めるようになっていける。
しかし…そこに問題が~
例えば~
ある人・Aが「幽霊を見た!」と言ったとする。
でも、幽霊の存在を信じない人・Bなら、
「それは嘘!」と決めつけBの言葉を信じないだろう。
しかし、Aが幽霊を見たと信じて思っている事は事実である。
それは、Bからすれば幽霊とは思えない「何かをAが見た」、という事実である。
「全ては疑いうる」が、同時に
「全ては信じうる」でもある。
全ての言葉は、
その言葉を発している当人には「信じうる」モノ、
それでも、他人からすれば「疑いうる」モノ。
全てを疑ってしまう人間が、
疑いなく信じられる全てを
求めている過程が哲学なのだろう。
疑いを抱かずに、
確信可能な~全てとは?疑うとは?信じるとは?本当とは?虚偽とは?自分とは?他人とは?