本日は三連投である。
ここは勢いに乗って四連投といきたい。
流石に、四連続は疲れたので、この記事は軽く!
観念論も唯物論も、その働きは人間の頭脳内であり、
両方とは、その人物の認識・観念がしているモノである。
ならば、観念論と唯物論の違いは?
それは、その人の観念を変化・運動させている原動力の違い!
ならば、その力のとは何か?
それは、己の観念を変化・運動させている観念である。
観念論も唯物論も、対象について論じるモノである以上、
そには、己の観念を対象に即して変化・運動させる必要があろう。
対象を静止像も観念なら
対象の運動像も観念であり、
その静止像を運動像へ・運動像を静止像へ
動かしているのも、その人の観念である。
観念論的とは、静止像・運動像・動かす力像のどれかが、対象に合致していないモノ。
唯物論的とは、上記の三つ全てが、現段階では対象と合致しているモノ。
この合致とは、事実的合致ではなく、論理的合致である。
成犬は、小型犬、大型犬によって姿形は時に大きく異なっている。
しかし、それでも、全ての犬に共通な成犬像の形成・像化は可能である。
この像が、犬の論理的な成犬像と言いえる。
端的には、
自己の観念を動かしている観念が、観念(自分)的であれば、観念論的、
自己の観念を動かしている観念が、唯物(対象)的であれば、唯物論的、
言葉で対象に即して変化・運動と言えても書けても、
その「対象に即そうとしている」動的な観念が自己の体験・経験的なら、
それは唯物論と思い込んでいる観念論=唯物論的な観念論に過ぎないモノ。
それだから…
南郷継正は、「弁証法!」「弁証法!」と叫び続け、
心に青雲氏は、「弁証法を自己の魂レベルに!」と書き続けたのだろう。
弁証法の魂化こそが、自己の動的観念の唯物・論化であろう。