「『言葉と言語』で考える」について考える。
言葉と言語の違いは、南郷曰く、「言葉は日常的用語で言語は学問的用語」。
また、南郷氏曰くは、「人間は、言葉で考えるではなく、正確には像で考える…」。
何となく…納得していたが、それでも…私には、そこから先の認識(像)へは進めない。
そこで、今回は、ネット検索してみた!
>「げん‐ご【言語】 音声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現・伝達する、または受け入れ、理解するための約束・規則。 また、その記号の体系。」
>「一方、言葉は、頭の中にある感覚的なものを言葉や文字として表出させるものです。言葉には、相手に訴え、相手を動かす機能や、内外の環境世界を解釈し、描写し、記録する機能などがあります。」
>「言語は、文化を構成する要素であり、その文化をユニークで固有のものにしています。言語と文化について議論されるとき、「言語は文化であり、文化は言語である」という言葉がよく出てきますが、それはこの2つが常に絡み合っているからです。」
>」言語がその言語を使う人の思考の仕方に影響を与えると考えられています。そのため、異なる言語を学ぶことは、異なる文化を学ぶということにつながります」
>「言語とは、音声や文字によって人の意志や思想、感情などの情報を表現・伝達したり、受け入れたり、理解するための約束や規則、またその記号の体系です。」
上の引用のように~
生成AIの「言語」の解説は、四つもあるのに…「言葉」の解説は一つ…。
この事実と…また、言語と言葉の解説・意味から…
言葉とは、上記の記述の中の「頭の中…感覚的なもの…相手…解釈…描写…」から「日常的(認識・映像)が得られる。
言語とは、<「…文化を構成する要素…理解するための約束や規則、またその記号の体系…。」
また特に>「言語は文化であり、文化は言語である」という言葉が出てきます…<
このような事からも、「言語は文化(学問レベル)」、それを「それを「いう」のは言葉(日常レベル)…という事だろう。
人が人に伝えたモノは言葉。その言葉の内容が文化的ならば言語。
または、「言葉」そのモノは、世界に多くの言葉・言語が、あるように、人類の文化が「言葉」を生んだ。
なので、言葉の内容とは別に、言葉は文化的…
言葉の内容が「文化的」・言葉そのものが「文化」。
誰が発しても「語彙・言葉=文化言語」であるが…
その発した言葉の内容が「文化レベル言語」とは限らない。
言葉というモノは文化的モノ言語、その意味・内容は非文化的…
誰が何を言っても、そのように言葉で言う・話す事は、文化的…
でも、その内容が文化的or非文化的かは、別物…
以上のように~
初めに、<「『言葉と言語』で考える」について考える>のに、
ネット検索した言語・記述(語彙・文字の映像)から始めた…
しかし、それら文字・語彙から更に、その考えを進めるには…
その記述を私的経験から得た認識像にした。これが「思い・思う」像。
それは、私の認識内にある「文字・語彙・意味・内容」像・映像・感情像の想起。
例えば~
ここに世界の果てから、初めて日本にやって来て、日本語を学んでいる者がいる。
その者が、「ひらがな」を覚えたとしよう。
そこで「いぬ」という平仮名を見せられて…
何を考えるだろうか?どのような像があり得るだろう。
「いぬ」とは、「あ・い・う・え・お」の『い』と「な・に・ぬ・ね・の」の『ぬ』…だろう。
決して、その者は、存在している動物の「いぬ」を思えないだろう。
また、「犬」という漢字を見せられて…
読書好きで動物図鑑に詳しい児童なら、実際に「犬」を飼った事がなくても…犬について語れるだろう」…
人間が、言葉で考える時、先ずは、その「言葉・言語」から、自分の想像可能な「像・映像」を描く。
そして、その像・映像を、言葉・言語内容に合わせて、変化させる。
だから…南郷氏は、「言葉で考えるのではなく、正確には像で考える」と言ったのだろう。
本物の「いぬ」を知っていても、「いぬ」という言葉の意味は知らない外国人…
それでも「平仮名」は知っていたなら、「い」と「ぬ」が平仮名という像は描ける…
「いぬ」とは、「あいうえお」の「い」と「なにんぬねの」の「ぬ」、
その国の文化を知っていて、且その国の言葉・言語に達者なら…
相手の何気ない…その言葉に「言語レベル」の像を描ける事だろう。
ある「いぬ」の外観的な実体的・(空間的)知識は、一目でおよそ得られる。
でも、その「いぬ」の機能的な実態的な(時間的)知識は、関わり育てる必要があろう。
言葉と言語の違いは、南郷曰く、「言葉は日常的用語で言語は学問的用語」。
また、南郷氏曰くは、「人間は、言葉で考えるではなく、正確には像で考える…」。
何となく…納得していたが、それでも…私には、そこから先の認識(像)へは進めない。
そこで、今回は、ネット検索してみた!
>「げん‐ご【言語】 音声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現・伝達する、または受け入れ、理解するための約束・規則。 また、その記号の体系。」
>「一方、言葉は、頭の中にある感覚的なものを言葉や文字として表出させるものです。言葉には、相手に訴え、相手を動かす機能や、内外の環境世界を解釈し、描写し、記録する機能などがあります。」
>「言語は、文化を構成する要素であり、その文化をユニークで固有のものにしています。言語と文化について議論されるとき、「言語は文化であり、文化は言語である」という言葉がよく出てきますが、それはこの2つが常に絡み合っているからです。」
>」言語がその言語を使う人の思考の仕方に影響を与えると考えられています。そのため、異なる言語を学ぶことは、異なる文化を学ぶということにつながります」
>「言語とは、音声や文字によって人の意志や思想、感情などの情報を表現・伝達したり、受け入れたり、理解するための約束や規則、またその記号の体系です。」
上の引用のように~
生成AIの「言語」の解説は、四つもあるのに…「言葉」の解説は一つ…。
この事実と…また、言語と言葉の解説・意味から…
言葉とは、上記の記述の中の「頭の中…感覚的なもの…相手…解釈…描写…」から「日常的(認識・映像)が得られる。
言語とは、<「…文化を構成する要素…理解するための約束や規則、またその記号の体系…。」
また特に>「言語は文化であり、文化は言語である」という言葉が出てきます…<
このような事からも、「言語は文化(学問レベル)」、それを「それを「いう」のは言葉(日常レベル)…という事だろう。
人が人に伝えたモノは言葉。その言葉の内容が文化的ならば言語。
または、「言葉」そのモノは、世界に多くの言葉・言語が、あるように、人類の文化が「言葉」を生んだ。
なので、言葉の内容とは別に、言葉は文化的…
言葉の内容が「文化的」・言葉そのものが「文化」。
誰が発しても「語彙・言葉=文化言語」であるが…
その発した言葉の内容が「文化レベル言語」とは限らない。
言葉というモノは文化的モノ言語、その意味・内容は非文化的…
誰が何を言っても、そのように言葉で言う・話す事は、文化的…
でも、その内容が文化的or非文化的かは、別物…
以上のように~
初めに、<「『言葉と言語』で考える」について考える>のに、
ネット検索した言語・記述(語彙・文字の映像)から始めた…
しかし、それら文字・語彙から更に、その考えを進めるには…
その記述を私的経験から得た認識像にした。これが「思い・思う」像。
それは、私の認識内にある「文字・語彙・意味・内容」像・映像・感情像の想起。
例えば~
ここに世界の果てから、初めて日本にやって来て、日本語を学んでいる者がいる。
その者が、「ひらがな」を覚えたとしよう。
そこで「いぬ」という平仮名を見せられて…
何を考えるだろうか?どのような像があり得るだろう。
「いぬ」とは、「あ・い・う・え・お」の『い』と「な・に・ぬ・ね・の」の『ぬ』…だろう。
決して、その者は、存在している動物の「いぬ」を思えないだろう。
また、「犬」という漢字を見せられて…
読書好きで動物図鑑に詳しい児童なら、実際に「犬」を飼った事がなくても…犬について語れるだろう」…
人間が、言葉で考える時、先ずは、その「言葉・言語」から、自分の想像可能な「像・映像」を描く。
そして、その像・映像を、言葉・言語内容に合わせて、変化させる。
だから…南郷氏は、「言葉で考えるのではなく、正確には像で考える」と言ったのだろう。
本物の「いぬ」を知っていても、「いぬ」という言葉の意味は知らない外国人…
それでも「平仮名」は知っていたなら、「い」と「ぬ」が平仮名という像は描ける…
「いぬ」とは、「あいうえお」の「い」と「なにんぬねの」の「ぬ」、
その国の文化を知っていて、且その国の言葉・言語に達者なら…
相手の何気ない…その言葉に「言語レベル」の像を描ける事だろう。
ある「いぬ」の外観的な実体的・(空間的)知識は、一目でおよそ得られる。
でも、その「いぬ」の機能的な実態的な(時間的)知識は、関わり育てる必要があろう。
>弥勒
>・コメント
>自由びと氏のここでの目的意識とは何ですか?
↑今の私にはピッタリの「質問」です。
弥勒お宅殿へ
お久しぶりですね♪♪♪弥勒さ~ん!何日ぶりでしょうか…
弥勒お宅のコメントが読めなくて少々手持ち無沙汰な感もありましたが…
それでも…
先日も、玄和会所属時代の仲間(入会時「後輩」から「空手の先輩」化知り合い)からのメールがあり…
そこで、私は「何故?私はこのブログを始めたのか!」…に再考したばかりです。
「旧・悟りを求めて…」ブログでは、たまに「何故?私はブログを?」的に思い事はありましたが…
最近は、「悟りたい!」、「悟りを知りたい!」、「悟りを開きたい!」…な思いばかりが先行して…いました。
それに、ここ数日の「大発見を書きたい!」という思いの先走り~
その大発見は、弥勒お宅の記述、確か…?⁉「社会は関係概念だから実体はない」からでした。
この言葉から~言語の概念の二重性?に気付かせて頂きました。
言語の概念とは、「ある対象」を表現した言語の場合、
例えば、「イヌ」という言葉の概念とは、モノ・生物・動物・哺乳類・犬類・日本犬・柴犬・私の愛犬マロン…
と色々なレベルの概念が「イヌ」という言葉に含められていまい。
しかし…その全てのレベルの概念=概ね観念を、全ての人間が描ける訳ではありません。
その人には、その人的な「イヌ」の概念レベルがある…という事です。
社会的、学問的な「イヌ」概念・個人的な「イヌ」概念。
当然に<「社会的・学問的」な「概念」という言葉の概念>・<「個人的な」「概念」という言葉の概念>
別言するなら、言語には、対象の実体表現と機能表現・本質と現象の表現。
「言語」が現象なら、「言語の意味・内容」が本質。
言語が実体なら意味は機能。
「イヌ」(言語)の概念には、特定の実体はありません。
その概念の実体・実態は、人間に観念的な認識⇒言うなれば「観念的な実態・実体」なので
ただし、イヌには、イヌの機能・概観的共通性のある生き物として自然界に存在しています。
一方「社会」(言語)とは、
自然界での自然な存在ではなく、自然界に誕生した人類・人間界で、
ある「人間の集団」に「ある関係性(社会関係)が生じた」時の表現・言語。
「社会とは関係性概念」とはを、今の私は上記のように理解しました。
当初の、社会の関係性は、家族内の関係、家族と家族の関係、村と村の関係、都市と都市、社員と社員…
それは、家族社会、村社会、都会社会、会社社会、国家社会、世界(国連)社会…地球社会?世界?…
弥勒お宅殿の御指摘の通り、「人類の社会の概念」が、変われば、その社会の実態・実体も変わっていく…
それでも、その概念の大元である観念・認識という観念的な実態・実体は変わらない。
観念論では観念的実態・実体である!と同時に唯物論では「頭脳活動」と言う、頭脳(実体)の機能。
以上の記述を書き続ける事、それを日記にではなく、ブログで書く事。
私が日記に文字を書き綴る時…慌てて書きまくる(文字が崩れる)ので、後で自分が何を書いているか分からない…
でも、パソコンは、慌ててキーボードを押しても、押し間違いのイライラは生じても、最終的には、後でも読める字体に変換されている…
さて、上記の質問「自由びと氏のここでの目的意識とは何ですか?」
当初は、「書く事は考える事」だから「書く」…
(初めの頃は日記に書いていた…文字を綺麗に書こうすると…書こうしとしていた事を忘れる・見失う)
途中で、「考えながら書く」…
(それだと…途中で脱線してしまい…何を書いていたか見失う)
そこで今は~
「私の自由な思考活動の為に書く」。
「私の分からない事を、私が分かるよう(なる為に)に書く」。
「私の分からない事をネット検索で、私の分かるように解説している言葉を元に考えて書く」
「上記のように書いて・考え、考え書いた事の結果もまた書く」
長々……
「書く事は考える事の実践」という目的意識。
「自由な思考活動の獲得の為に考える」という目的意識。
「考えた事を書く⇒自身の認識を言語化して再確認」という目的意識。
「その自己の書いた結果から更に考えて書く」
「読者のコメントを参考に再考して書く事で自己の認識に変化・運動を~」という目的意識。
「その書いた結果から考えて書く」…
端的な目的意識は、「悟り・悟りを開き・悟得する為」ですかね…
「悟り」とは、モノコトの本質。(現象レベル技(技未満))。
「悟る」とは、モノコトの本質を識。(技レベルの時々技・現象)。
「悟りを開く」とは、モノコトの本質を体得する事(基本技の技化)。
「悟得」とは、体得したモノコトの本質を元に生活可能(基本技の駆使の技化)
まあ~
「自由な思考・発想の獲得」・「自由な生活様式の獲得」が目的意識ですかね…
最後に…本当に今日、弥勒お宅様・様・様あてに、記事を書こうとして、パソコンを開いたのですよ!
初めは、全くメールなし!で『超ガッカリ…』でもそれは、室内のWi-Fiが問題で…
再度、「…全ての送受信…」をクイックしたら…
「弥勒コメント」を発見!
そして一言自由びと氏のここでの目的意識とは何ですか?」
この質問は今の私のココロ状態に響きましたね
そう因みに、「自由学藝」の「弁証法・認識論から説く認知行動療法入門」・若井貴史(一)から再読しました。
弥勒氏の「世界歴史…」という言葉が、私的に理解できました。
彼は…「人類・人間の不安とは…」、「その不安の解消法とは…」…を「弁証法・認識論から~」
人類の始まりから歴史的に…解こう・説こう…としています。
彼の記述は、とても分かり易いですね♪♪♪
旧・自由びとブログでも記事にした南郷氏の「宗教・禅と学問」にも触れていて…
お宅が、自由びとを彼?だと間違えてしまう事も、何となく私的には理解できましたが…
たぶん…その点を、弥勒さんは
「世界歴史…触れている?」でしょうかね…
<合社会的・現実的な自由な発想・自由な思考の獲得!>かな…てん
揚げ足取るつもりは全くありませんけど空手でも何でも先輩か後輩かは先に始めたか後から始めたかで決まるものだと通常は社会認識されているのではないかと思います。
その後輩が先に昇段したとか、もっと上位の高段者となったとかの事態は会社で後輩に先に昇進されてしまったとかと一緒で、自分は平社員で後輩が部長であったなら後輩は上司になりますけど先輩になったわけじゃないのでは?
自分が初段で後輩が参段だからって後輩は後輩のままで、単に自分にとっての指導者となり自分が被指導者になっただけでは?
まあ、そういう後輩が上司になったみたいな関係が嫌で決裂するなんてのは極◯みたいに良くある普通の話しですけど、自由びと氏は平気ですか?他の空手なら「さん」付けでしょうけど玄◯だと呼び捨てですからね、下になると。
残念ながら「イヌの概念」以降の記述は何を言ってらっしゃるのか全然理解できません。実体概念とか機能概念とか????ですよ。単に自由びと氏が崇拝している南郷先生の本に「実体と機能」という言葉が出てくるから持ち出したのだなと思うばかりです。それでも悪いことではないのでしょうけれどね。
>認知行動療法入門
>人類の始まりから歴史的に…解こう・説こう…としています。
それは全然気がつきませんでした。一度ざっと読んだはずですが、帰宅したら再読してみます。
>彼の記述は、とても分かり易いですね
そうでしたか?う〜ん、帰ったら読み直してみます。凄い実力者なのは承知していますが、分かりやすかったかな?
宜しければ、自由びと氏はどこがどのように分かりやすかったかを教えていただけますか?
>・コメント
>>入会時「後輩」から「空手の先輩」化知り合い
>揚げ足取るつもりは全くありませんけど空手でも何でも先輩か後輩かは先に始めたか後から始めたかで決まるものだと通常は社会認識されているのではないかと思います。
↑
十分に、私のアップした記述⇒「揚げ足」、突っ込み・払い⇒「取る」=「揚げた足を取っている」ですね。
まあ~これも、自由びと的な解釈なので、「足からず…」。
>その後輩が先に昇段したとか、もっと上位の高段者となったとかの事態は会社で後輩に先に昇進されてしまったとかと一緒で、自分は平社員で後輩が部長であったなら後輩は上司になりますけど先輩になったわけじゃないのでは?
自分が初段で後輩が参段だからって後輩は後輩のままで、単に自分にとっての指導者となり自分が被指導者になっただけでは?
まあ、そういう後輩が上司になったみたいな関係が嫌で決裂するなんてのは極◯みたいに良くある普通の話しですけど、自由びと氏は平気ですか?他の空手なら「さん」付けでしょうけど玄◯だと呼び捨てですからね、下になると。
↑
考え方の相違ですね!
空手…より正確には「空手道」、そま「道」ですよ!
入会が先の私は、空手道の道程が彼より先です。だから「先輩」=道の先ゆく輩でした。
でも…私は初段のまま…彼は二段へ昇段…
そう、私は彼に追い抜かれ、それからは彼の背中を私は見続けています。
だから、「初めは後輩、途中から先輩…ですので…
当然に、私は彼を「○○さん!」と呼び~彼は私を「××!」と呼び捨てです。
もっとも…稽古・練習中以外では、年下の彼は、年上の私を「××さん」と呼んでいますか。
どうです…どうやら…お宅は私の「揚げ足」を「取れて」てない…ようですね!
>残念ながら「イヌの概念」以降の記述は何を言ってらっしゃるのか全然理解できません。実体概念とか機能概念とか????ですよ。単に自由びと氏が崇拝している南郷先生の本に「実体と機能」という言葉が出てくるから持ち出したのだなと思うばかりです。それでも悪いことではないのでしょうけれどね。
↑
分からない…
イヌ・犬類の共通の外観…が「実体」。
イヌ・犬類の習性・本能性…が「機能」。
どう~これでも「全然理解できません」ですか?
>>認知行動療法入門
>>人類の始まりから歴史的に…解こう・説こう…としています。
人類独特の「不安」の始まりから、その解決の方法の歴史的変化・進化…
>それは全然気がつきませんでした。一度ざっと読んだはずですが、帰宅したら再読してみます。
>彼の記述は、とても分かり易いですね
>そうでしたか?う~ん、帰ったら読み直してみます。凄い実力者なのは承知していますが、分かりやすかったかな?
宜しければ、自由びと氏はどこがどのように分かりやすかったかを教えていただけますか?
↑
初めの(一)での、弁証法の解説と彼の論説・展開が弁証法的である記述。
また、認識論の解説と論説が認識論的である理由・解説。弁証法・認識論の必要性…
「分かり易い」とは、使用している語彙が、私には分かり易かった。
(二)・(三)では、私の知らない専門用語が多く、また展開も専門的になってきて…
今回だけ?(前回の記憶がない…)の読みでは、まだまだ…よく理解できていません。
退会して玄◯の道場から遠ざかっているというのが嘘だったというのも理解しました。
自分が昇段したからといって退会ないし休会している先輩を段位の下の者としてメールで呼び捨てにするなど社会人としても日本人としてもキチガイすぎますから、そんなことは無いのでしょう。
実際には玄◯を退会したという自由びとの発言がオレオレ詐欺のように何かを企んで他人をどうこうしようという下衆な発想からくる「おバカ→訂正、真の馬鹿者」というだけで、
南郷先生が率いる玄◯空手という団体は「気高き武人つくらん!」という意気貢献な人間集団だったはずですが、お宅のいう「イヌ」というのは相手の情報をスパイしようとする「間者」=お宅そのもので、昔日の武士が己を忍び(間者)と一緒にされることを嫌ったのとは似ても似つかぬ泥棒根性の人間そのものでしょうね。
お宅の「分かり易かった」の説明は私には全く分からない、分かりにくいもので、学城で本田克也が南郷先生に対して「これほどヘーゲルを分かり易く説ける人はいない」みたいに絶賛していた、その「分かり易い」というのを一つの価値として丸暗記した人間がパブロフの犬がヨダレを流すように「分かり易い」と発言する動物的・犬的な言葉でしょうね。
南郷先生も書いていたように記憶するためだけに使い続けられた脳ミソは覚えた記憶を繰り返すことしか出来ないのでしょうね。
>使用している語彙が、私には分かり易かった。
そうですか?私は全然そうではありませんでしたよ。
>初めの(一)での、弁証法の解説と彼の論説・展開が弁証法的である記述
「弁証法」「論説」「展開」「記述」ですか、実際には読んでないのではないかな?というくらい内容に分け入ることの無い空虚な文言ですね。
私は門外漢であることもあり、(一)の冒頭の「社会的コスト」から躓いて厚生労働省の報告書を読み直したぐらいです。
ドン才的というか、まあ私はそうしたタイプですから仕方ありませんけどね。
自由びと氏のいう「弁証法や認識論の説明」までは読めてなくて「社会的コストから認知行動療法へ」というあたりなんですけどね。
ここには「社会的コスト(社会負担)と自己コスト(自己負担)」という対立関係があるのだと思いますし、「保険診療と自由診療」という対立関係があるのだと思います。
それが彼が数年前から病院での診療以外に開業して自由診療を始めた理論的背景でもあるのだろうと理解していますね。
>弥勒
>・コメント
>取り敢えず、現在のところ自由びとは玄◯の道場に通っていて後輩に呼び捨てにされているという事実は分かりました。
↑
へ~一応…「事実」と信じるのですか…
なんか…私の記述で、お宅の都合のよい部分は信じるのですね…ふ・し・ぎ…
お宅自身の都合で、自由びとの記述の内容を事実と承認したりしなかったり…で~
まあ~それが「あ・た・く」の特性ですかね…
>退会して玄◯の道場から遠ざかっているというのが嘘だったというのも理解しました。
↑
え!いつ私が「…遠ざかっている」と書きましたか?
私は「元・玄和会」とか、「稽古・練習へ参加しなくなって…自然退会…」とは書いたとおもいますが…
一言も「遠ざかった…」と書いていない筈ですが…。
実際、今の私の右股関節の痛みが解消されたら、「見学・再入会…」も考えていますよ!
でも…ここ数年、整体院と整骨院二か所通っていますが…
なかなか…完治・痛みが消えません…とても困っています…
お宅って、私の記述をお宅の都合に合わせて誤読・誤解していますよ!
>自分が昇段したからといって退会ないし休会している先輩を段位の下の者としてメールで呼び捨てにするなど社会人としても日本人としてもキチガイすぎますから、そんなことは無いのでしょう。
↑
え!
「私は練習中・稽古中と書きましたよね…」
だから、手紙やメールでは、「○○様」ですよ!
>実際には玄◯を退会したという自由びとの発言がオレオレ詐欺のように何かを企んで他人をどうこうしようという下衆な発想からくる「おバカ→訂正、真の馬鹿者」というだけで、
↑
「退会した!」ではなく、「元・玄和会」…「練習・稽古に不参加・欠席が続いて自然退会」ですよ!
>南郷先生が率いる玄◯空手という団体は「気高き武人つくらん!」という意気貢献な人間集団だったはずですが、お宅のいう「イヌ」というのは相手の情報をスパイしようとする「間者」=お宅そのもので、昔日の武士が己を忍び(間者)と一緒にされることを嫌ったのとは似ても似つかぬ泥棒根性の人間そのものでしょうね。
↑
ココロブログ主的な記述が…
こんな記述・内容が…私に、お宅が「ココロブログ主」だと、感じさせて・思わさせ・確信させているのでしょうね…
>お宅の「分かり易かった」の説明は私には全く分からない、分かりにくいもので、学城で本田克也が南郷先生に対して「これほどヘーゲルを分かり易く説ける人はいない」みたいに絶賛していた、その「分かり易い」というのを一つの価値として丸暗記した人間がパブロフの犬がヨダレを流すように「分かり易い」と発言する動物的・犬的な言葉でしょうね。
↑
それは、お宅の理解・使用語彙と私や本田氏の理解・使用が、大きく異なっているから…でしょうね~
>南郷先生も書いていたように記憶するためだけに使い続けられた脳ミソは覚えた記憶を繰り返すことしか出来ないのでしょうね。
↑
「え!?」、そんな事!どこに?を書かれていましたか?
そもそも南郷氏は、「脳ミソ」なんて書きません!
以前は「脳細胞」、その後「頭脳」…
決して「脳ミソ」なんて言語表現は、ありません。
そもそも…人間の頭脳を「記憶する為だけに使う」なんて不可能ですよ!
あり得ません。
記憶だけだと…歩けない・食べられない…日々を生きて行けない!
そんな言語表現だから…お宅が「私には全く分からない、分かりにくいもので…」のも当然ですね…
「能ある鷹は爪を隠す」が、無能なお宅は「大バカ・アホ丸出し」ですかね♪!♪
実に「面白い」!最近のお宅コメント読んでいて、腹の中で笑えていますよ!
もっとも…最近の本音を書けば、そんな「丸出しのバカ・アホ」が、
私には、とても勉強になっている事実もあるのですが…
そんなバカ・アホお宅だから、
私も気兼ねすることなく、本音が書けていますよ!