新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「禅」について…

2021-07-04 13:19:17 | 禅問答・公案
「禅」について…

この暫く、「禅」の事が知りたくて「公案」・「禅問答」について勉強している。

公案・禅問答の正解は、
その問題文に対する解答でなく、
言葉で書かれた問題の本質への、瞬間的な己の体現・反応である。

解答が、その者の体現である以上…
同じ体現・解答であっても、人が違えば不正解となり得る。


知識を問う問題なら、他人と全く同じ言葉でも正解である。
でも禅問答の正解では、公案に書かれている「僧の行動・言葉」そのままでは不正解。

禅問答の正解とは、
個性的な体現ではあるが、そこに「禅」の本質が体現されているモノ。

禅の本質とは何か?

それは世界の本質。世界の全ては「仏性」である。

人間が己の「仏性」を持った言動を常に如何なる時・状態でも
誰もが「仏性」と感じ得る形で体現し得た時「成仏」となり得る。

本来の禅の本質とは、上記のように言葉では表現でき得ないモノ。
それは日々の生活の中で体現し続けられて初めて本質足り得るモノ。

敢えてそれを更に言葉で書くなら、
日々の中で己が「仏」として生活できた時、
それが「禅」(正解)である。

生きた人間が「仏」として生活するのは至難であろうに…
もっとも…仏と成る「成仏」とは、「目覚めた者」という意味であるが…


仮に「目覚めた者」になり得ても、人間には睡眠が不可欠である。
睡眠すなわち「眠り」である。
だから「成仏」とは、眠っている時でも、目覚めていられる者とも言い得る。


人間は誰もが、起きている時「成仏」である。
ならば、禅の求めるモノは、眠っていても目覚めていられるモノ。


「成仏」・「目覚めた者」とは、常に「目覚めていられる者」となろう。
眠っている時にも目覚めていて、目覚めていられる時には眠っていられるモノ。

ここでも問題は、
何が眠っている時に、何が目覚めているか?
何が目覚めている時に、何が眠っているのか?
であろう。

二つのモノが同時に目覚めていたり、起きていたりする事はあるのだろうか?

大きいのに小さい。
広いのに狭い。
好きなのに嫌い。
長いのに短い。

矛盾なのに矛盾ではない。
私なのに私ではない。

あるモノを「大きい」と言葉にした瞬間に、それは間違いになり得る。
何故なら、「大きい」とは、「小さいモノ」より大きいであるのだから…

ヒントは、
認識は像で、一枚の一枚を積み重ねた像で、ある。




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「先入観に囚われるな」は無理! | トップ | 敢えて「禅」というモノを言... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

禅問答・公案」カテゴリの最新記事