主観と客観の話
「主観」とは、自分の観念。
「客観」とは、他人の観念。
「主観と客観の話」は、観念の話。
観念は認識だから認識の話。
「主観と客観の話」は認識に関わる話」。
自分の主観を自分の主観から話すのは無理。
そこで、主観を客観的に語ろう。
今ここで、「主観を主人の観念」・「客観を客人の観念」と「概念規定」する。
この概念規定とは、私の主観の中で同様な概念とする。
「規定とは、物事の仕方や手続き、また概念などを、それに基づいて行為や議論ができるように、はっきり定めること。またそのさだめ。」
何故なら、「主人と客人」の話なら、私の主観では、客観的な「主人と客人の話」だから…
さて、上記の私の主観的な考え方の内容に了解し得た訪問者・客人・読者は続きをどうぞ!
納得でき難い読者は、どうぞ退席下さい!
さて、納得できた読者なら、「主観と客観の話」と「主人と客人の話」という「対立物の統一」が可能であろう。
なので、ここからは、
「主観と客観の話」を「主人と客人の話」に置き換えた「弁証法を用いた話」例え話。
客人とは、他人の家に訪問した人間の事。
主人とは、その家の主・所帯主。
家とは、人間・家族・ペット…の生活・空間。
その家が持ち家or借家は、全く無関係。
また、肉親・家族は、主人ではないが客人でもない。
主人が世帯主、その家の家族・親族は「同一世帯」者で客人ではない。
ブログへの訪問者とブログ主の関係は「客人と主人」。
私は、ブログ・仮想空間・非現実的・観念的空間…内で存在・生活不能。
でも、自由びと的認識は、生活・活動可能。
だから、ここでの私は自由びと的存在である。
「自由びと⇒私の認識」、
自由びと的な認識=ここに書かれている言葉・記述・認識…
私の主観にとっては、「自由びと」という客観…と考えられる。
こう考えるなら、主観は頭脳の中の認識。言葉・記述…は客観(主観の客観的表現)
言葉・言語…=主観であっても、主観≠言語・言葉…
人は、自分の主観を、全てを言葉・言語で表現する事不能。
主観を語る時、態度・表情・動作…その身体の全てが、その人の主観の表現になり得る。
もっとも…無感情・無言・不動…あえて主観の表現になり得る…
自宅で、親族・家族同士の喧嘩・殴り合いはあり得る。
しかし、客人との殴り合い・喧嘩は、よほど親しい友達・親友…出ない限りあり得ない。
従って、他人の家で、暴言・乱暴…する者は、そく追放or110番となり得る。
それでも、自宅で、友人・客人…の議論・討論…最中の過激な感情的表現はあり得る。
それらを、認める・認めないは、主人・世帯主・ブログ主の認識・主観が決定するモノ。
ここまでの言葉・記述・内容が理解でき信じられる客人なら分かる~
このブログ内での、雲海お宅の数々言説・記述…の何が、社会的に問題であるか…理解可能であろう。
私が、雲海お宅の言葉・記述・コメントを拒否しないのは~
私にとって、主観の暗黒面を客観的に観る事ができるから…
まあ…雲海お宅へコメントへの不満…は多々あるが…
彼の主観的コメントを、自由びとが受け入れ、私の主観に取り言えられる事は、私の主観が少し客観性を帯びた…と言う事になり得る。
それは、私の暗黒面・闇に他人の闇が追加…
と同時に他人の光輝面も追加…可能であろう。
長々書いたが、結論的には、
主人が客人の振る舞いを許し・認めてなら、その家では客人にとって過ごしやすい家となり、多くの人達が訪問してくる明るい・暗い・面白い・悲しい・苦しい・愉快…とても広く・豊かな・賑やかな家となり得よう。
それでも、主も認められない非社会的な客人…
最低限のマナーの心得のない客人…
主人が許しても、客人としては絶対にやってはいけない事をやる客人…
それは、自分の「客人としての立場」が分からない馬鹿。
客人なのに、主人を止められる客人。
「常識外れ」と「常識を超えた」の違い…
「はずれ」とは、「当たりに対して外れ」、「当たり」たいのに「外れた」。
私は彼の「常識外れ」を「非常識=常識外れ」と認識しようとしている・
「常識外れは」、無意識。
「常識を超え」は、意識的(良い・悪いに関係なく)
私に向けられて「悪意」を、彼の中の悪意・暗黒面…として…
「私事」ではなく、「他人事」と捉えている。
彼の悪意・他人の認識を識る事で、自分の中の暗黒面を識り、それを他人にみせない努力をする事。
これが、できた時、
客人の暴言・悪意・暗黒面・賞賛・善意・光輝面…を私のモノ・主観にする…
この時、主観は客観性を帯びた主観となり得る。
弁証法的に、言い得返るから~
対象との、「滅ぼし合う対立物の統一」過程で、
己の主観が客観性を帯びの事が可能であり、
多くの対象との「対立物の統一」が続けられれば、
己の中の古い客観性が、外からの新たな客観性と「相互浸透」を起こし、
更には「量質転化」化をして、「旧主観」とは「新主観」へ止揚されえる…
どうですか?如何でしたか?
以上が、現在の私の主観で書く・表現する語る事が可能な
現時点での「認識を弁証法的に考える」、「認識論を弁証法的に考える」道程・過程」でした。
「主観」とは、自分の観念。
「客観」とは、他人の観念。
「主観と客観の話」は、観念の話。
観念は認識だから認識の話。
「主観と客観の話」は認識に関わる話」。
自分の主観を自分の主観から話すのは無理。
そこで、主観を客観的に語ろう。
今ここで、「主観を主人の観念」・「客観を客人の観念」と「概念規定」する。
この概念規定とは、私の主観の中で同様な概念とする。
「規定とは、物事の仕方や手続き、また概念などを、それに基づいて行為や議論ができるように、はっきり定めること。またそのさだめ。」
何故なら、「主人と客人」の話なら、私の主観では、客観的な「主人と客人の話」だから…
さて、上記の私の主観的な考え方の内容に了解し得た訪問者・客人・読者は続きをどうぞ!
納得でき難い読者は、どうぞ退席下さい!
さて、納得できた読者なら、「主観と客観の話」と「主人と客人の話」という「対立物の統一」が可能であろう。
なので、ここからは、
「主観と客観の話」を「主人と客人の話」に置き換えた「弁証法を用いた話」例え話。
客人とは、他人の家に訪問した人間の事。
主人とは、その家の主・所帯主。
家とは、人間・家族・ペット…の生活・空間。
その家が持ち家or借家は、全く無関係。
また、肉親・家族は、主人ではないが客人でもない。
主人が世帯主、その家の家族・親族は「同一世帯」者で客人ではない。
ブログへの訪問者とブログ主の関係は「客人と主人」。
私は、ブログ・仮想空間・非現実的・観念的空間…内で存在・生活不能。
でも、自由びと的認識は、生活・活動可能。
だから、ここでの私は自由びと的存在である。
「自由びと⇒私の認識」、
自由びと的な認識=ここに書かれている言葉・記述・認識…
私の主観にとっては、「自由びと」という客観…と考えられる。
こう考えるなら、主観は頭脳の中の認識。言葉・記述…は客観(主観の客観的表現)
言葉・言語…=主観であっても、主観≠言語・言葉…
人は、自分の主観を、全てを言葉・言語で表現する事不能。
主観を語る時、態度・表情・動作…その身体の全てが、その人の主観の表現になり得る。
もっとも…無感情・無言・不動…あえて主観の表現になり得る…
自宅で、親族・家族同士の喧嘩・殴り合いはあり得る。
しかし、客人との殴り合い・喧嘩は、よほど親しい友達・親友…出ない限りあり得ない。
従って、他人の家で、暴言・乱暴…する者は、そく追放or110番となり得る。
それでも、自宅で、友人・客人…の議論・討論…最中の過激な感情的表現はあり得る。
それらを、認める・認めないは、主人・世帯主・ブログ主の認識・主観が決定するモノ。
ここまでの言葉・記述・内容が理解でき信じられる客人なら分かる~
このブログ内での、雲海お宅の数々言説・記述…の何が、社会的に問題であるか…理解可能であろう。
私が、雲海お宅の言葉・記述・コメントを拒否しないのは~
私にとって、主観の暗黒面を客観的に観る事ができるから…
まあ…雲海お宅へコメントへの不満…は多々あるが…
彼の主観的コメントを、自由びとが受け入れ、私の主観に取り言えられる事は、私の主観が少し客観性を帯びた…と言う事になり得る。
それは、私の暗黒面・闇に他人の闇が追加…
と同時に他人の光輝面も追加…可能であろう。
長々書いたが、結論的には、
主人が客人の振る舞いを許し・認めてなら、その家では客人にとって過ごしやすい家となり、多くの人達が訪問してくる明るい・暗い・面白い・悲しい・苦しい・愉快…とても広く・豊かな・賑やかな家となり得よう。
それでも、主も認められない非社会的な客人…
最低限のマナーの心得のない客人…
主人が許しても、客人としては絶対にやってはいけない事をやる客人…
それは、自分の「客人としての立場」が分からない馬鹿。
客人なのに、主人を止められる客人。
「常識外れ」と「常識を超えた」の違い…
「はずれ」とは、「当たりに対して外れ」、「当たり」たいのに「外れた」。
私は彼の「常識外れ」を「非常識=常識外れ」と認識しようとしている・
「常識外れは」、無意識。
「常識を超え」は、意識的(良い・悪いに関係なく)
私に向けられて「悪意」を、彼の中の悪意・暗黒面…として…
「私事」ではなく、「他人事」と捉えている。
彼の悪意・他人の認識を識る事で、自分の中の暗黒面を識り、それを他人にみせない努力をする事。
これが、できた時、
客人の暴言・悪意・暗黒面・賞賛・善意・光輝面…を私のモノ・主観にする…
この時、主観は客観性を帯びた主観となり得る。
弁証法的に、言い得返るから~
対象との、「滅ぼし合う対立物の統一」過程で、
己の主観が客観性を帯びの事が可能であり、
多くの対象との「対立物の統一」が続けられれば、
己の中の古い客観性が、外からの新たな客観性と「相互浸透」を起こし、
更には「量質転化」化をして、「旧主観」とは「新主観」へ止揚されえる…
どうですか?如何でしたか?
以上が、現在の私の主観で書く・表現する語る事が可能な
現時点での「認識を弁証法的に考える」、「認識論を弁証法的に考える」道程・過程」でした。
コメント投稿気持ちは、今届きました。
ありがとうございました♪♪♪
でも「3月28日の深夜にコメント」は、
今だに届いていません。
お手数をおかけしますが……
再度の投稿を御願いします。
奥様のご逝去を悼み 謹んでお悔やみ申し上げます。いろいろと大変だったかと思います。自由びとさんの そのお人柄から 奥様も生前はお幸せでいらしたかと思います。今後とも 元気でブログを続けてくださいね。
ヘーゲルのミネルバのフクロウについて 一言。 南郷先生のお話 もっともだと思います。現実はどんどん先に行ってしまいます。そのたびに哲学や科学はそれを追いかけなければ なりません。ただ 本質的にとらえる 抽象の世界ではあまり 細かいことは問題にならないでしょう。 ミネルバのフクロウとは棺をおおいて事定まる。人間の解剖は猿の解剖のための鍵である。と同じ意味であり、最終的にまとめるのが哲学であり 成熟した事象を対象化することが科学的認識としても大切であること、先行しなければいけないことを示しています。
最後は学歴コンプレックスについてです。南郷先生がどういう形で言っているのかは わかりませんが 劣等感はそんなに悪いものではありません。これこそが南郷武道論・南郷教育論の核心・魅力です。裏返せば 主体性の確立です。 武道シリーズのルサンチマンにならない 現実的な方法論の提示。 南郷先生の文学的感性の凄さといえますが 文章にこめられた力。主体性を確立させる気になりますね。そんな気概をもって 人生を生きようじゃないですか。(2023年3月28日夜 2月9日のブログに対してです。)
本当に、お久しぶりですね♬♬♬
滅茶滅茶嬉しいですよ♪♪♪
実は、数日前?数週間前?数ヶ月前?…かは不明ですが… Tadaさんに私が考えた「概念の弁証法」について、tadaさんの感想を頂きたく 「tadaさんへ」という手紙形式で書きたいと思っていたのですが… ふと「tada」のハンドルネームの表記を忘れていたのに気付き…それでも「tada」という音声は忘れていませんでした。それが ひらがなorカタカナor漢字…or「ROMAGI」表記か悩んで 過去のコメントから探せねば…と思っていた所だったので 本当にビックリですよ。Tadaさん本人からメールを頂けるなんて…
なんか…とてもお忙しい ようですね。
でも、「地区の行政区長」という 現実社会の仕事の中でこそ弁証法の弁証法的適応が 可能なのでしょうね♪♪♪
>奥様のご逝去を悼み 謹んでお悔やみ申し上げます。<
↑という…とても素敵な言葉づかい…私には真似できない言い回しですね。
私には「真似できない」・「発せられない言葉」です。そもそも…よく「ご愁傷様です」という定型句がありますが…
私には この言葉にもなんか違和感がずっとありました。 しかし 今回の家内の死という体験から 今後 「ご愁傷様です」と他人に言う ような状況になったら 「家内の死」の感情を思い出し その感情を込めて「ご愁傷様です」が使えそうな気がします。そうなんです。 言葉には その人の感情が込められている筈なのです。 他人の言葉には その人の感情がこめられている筈なのですが…しかし現代教育では その言葉の感情・概念を確り定着させる指導よりも より多くの言葉を教える事が優先されているように私は感じています。以下に転写した歌詞読んでみて下さい。
命の別名 歌詞
歌:中島みゆき
作詞:中島みゆき
作曲:中島みゆき
発売:2005-09-22 12:47:02
知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある
何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えて行く
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい
石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
僕と生きてくれ
繰り返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも
たやすく涙を流せるならば
たやすく痛みもわかるだろう
けれども人には
笑顔のままで泣いてる時もある
石よ樹よ水よ 僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ
繰り返すあやまちを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも
石よ樹よ水よ 僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ
くり返すあやまちを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも
現代社会では、「最後まで覚えられない言葉」は、ないでしょうね。
でも、「最後まで感情を込められない言葉は、きっとある」でしょう。
ここでは「言葉=命の別名」とかかれていますね。 言葉⇒認識⇒頭脳活動⇒人間の脳細胞活動⇒動物である人間の脳細胞活動⇒生命活動⇒「いのち」
>ヘーゲルのミネルバのフクロウについて 一言。 南郷先生のお話 もっともだと思います。現実はどんどん先に行ってしまいます。そのたびに哲学や科学はそれを追いかけなければ なりません。ただ 本質的にとらえる 抽象の世界ではあまり 細かいことは問題にならないでしょう。 ミネルバのフクロウとは棺をおおいて事定まる。人間の解剖は猿の解剖のための鍵である。と同じ意味であり、最終的にまとめるのが哲学であり 成熟した事象を対象化することが科学的認識としても大切であること、先行しなければいけないことを示しています。<
上記の記述に感動です♪♪♪
その本質を捉えたら それを一次関数的にとらえられたら延長線上にアバウトな未来像が予想可能…「成熟した事象を対象化することが科学的認識」とは、眼前の事実・現象を それ自体・専門的に捉える言語化する事?
>劣等感はそんなに悪いものではありません。これこそが南郷武道論・南郷教育論の核心・魅力です。裏返せば 主体性の確立です。 武道シリーズのルサンチマンにならない 現実的な方法論の提示。
↑
俺は俺!劣等感は俺の個性!なんか文句あるか!?
俺は俺!他人言うことなど聞きて従いたくない…
でも 強くなる為に他人の方法論に従って頑張る!
>南郷先生の文学的感性の凄さといえますが 文章にこめられた力。主体性を確立させる気になりますね。そんな気概をもって 人生を生きようじゃないですか。
↑
同感!張・超・長・蝶・同感です♪♪♪♪
コメントを読む前以上に元気になりました!
tadaさんの御言葉に、私心からの感謝の言葉を
感謝感激雨霰…すみません…なんか冗談ぽくなりましたね。
それは、tadaさんのコメントで冗談が言える・書ける程に元気を頂いたという事ですね。
そうそう誰か(青雲さん?)が 「元気を頂いた」は、おかしいと書いていた記憶がありますが…「(私が更に元気になれるような励ましの感情が込められた)元気(と言う言葉)を頂いた」と考えれば「おかしく」ないですよね。 言葉の不思議ですが 初めは「感情・言葉」の筈が 変質・劣化して 無感情の「言葉」と変化してしまうのでしょうね…
「命の別名」>けれど最後まで覚えられない言葉もきっとある<
>武道シリーズのルサンチマンにならない 現実的な方法論の提示。
↑
この言葉から 強者への「憤り・怨恨・憎悪・非難」ではなく、強者に憧れを抱いて彼らに負けない現実を創る為に、その現実な方法論に従って真面目な努力を続ける…
疲れたので、自由忍法「ありがとうございました」です。
tada 忍法ドローン 憧れます コメントには感謝です。
おやすみなさい
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/ac2b96f1b1a69b73fd00424bd00c1e39
・コメントを書いた人
雲海
・コメント
中島みゆきに「命の別名」という歌があるのは知りませんでした。勉強になりましたね。
↑
生前の家内は、中島みゆきのファンで、私もよくCDを借りて聞いていました。 tada氏の 「奥様のご逝去を悼み 謹んでお悔やみ申し上げます。」という御言葉から <「けれど最後まで覚えられない」「言葉もきっとある」> 歌詞を思い出たのですが 曲名を覚えてなく、この言葉からネット検索してやっと見つけました。 現代のスマフォは 非常に便利ですね。いくら台詞・言葉でも 辞書で調べる事は無理ですね。
>実際、この歌が発表されたのは2005年ではないにも関わらず、2005年とついているのは自由びとさんが故意に何かを示唆するために書いたのかと思いきや、このように書いてあるサイトがあるのですね。
↑
いや~感謝です。 全く「2005年」には気づきませんでした。
これは、「歌は、その時代の社会精神の表現」と言う事ですね♪
歌詞の部分だけのコピーは面倒だったので、全部コピーしました。
>歌と言えば、一時期長渕剛の「RUN」を弁証法の唄と狂ったように聞きまくりました。家内から「キチガイになるから、もうやめて!と言われていました」。 最近は、中島みゆきand吉田拓郎の「永遠の嘘をついてくれ」と吉田拓郎「流星」に嵌っています。その理由は、これらが現在の私の認識・感情にしっくり きている、から。
>詞を読解して色々と感じることがありました。
2005年は自殺者が物凄く多く、自殺の割合が高学歴者よりも低学歴者のほうが多かったというのもデータを取っている専門家に聞かなければ知り得ないことです。
↑
確かに、データは必要でしょうが…
何が高学歴で、何が低学歴かは、決めるのは難しいでしょう…
当時の日本社会で 高学歴者を求め始めた時期だったのでしょうか?。
そう言えば、知人が言っていましたが、「企業が高学歴者を求めるのは、
その人物の努力・能力度=「難関大学卒業力」と考えている…と言うような事。
>「覚えられない言葉」というのは中卒止まり、高卒止まり、大卒止まりといった学歴を示唆しており、それが不景気の際に自ら命を断つことに繋がるというのは知識を共有しておくべきでしょう。
↑
成る程…おっしゃる通りですね♬♬♬
>中島さんは自分の歌詞を解説されるのがお嫌いだと言ってましたから、私のような解釈は好まれないかも知れませんけどね。
↑
作者は好まなくても、その歌詞の解釈は 聞き手側の自由です。
その歌曲誕生と当時の社会状況の対比・統一は、とても重要だとおもいます。
詩は歌にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である。ヘルマン・ヘッセ
人は幸せだから歌うのではない。歌うから幸せなのだ。
雲海さんへ
実は私、最近 お宅に感謝を感じているのです。2チャンネル玄和スレッドの「ドラGON拳ちゃん」⇒「ドラゴン」・「拳ちゃん」・「ちゃん」⇒自由びと⇒悟りびと⇒悟得びと⇒自由びと⇒継正自由びと・自由継正びと⇒???まで、長々と付き合って頂いて感謝です。
この過程は、私にとっては「ネット界常駐の滅ぼし合う対立物の統一」でした。
そうそう…「ヘーゲル哲学の道」蔦屋に取り寄せ頼みました。
貴重な情報を感謝なのです。
ここからは、お宅の得意技⇒妄想・幻想・想像ですが…
私の知っている「お宅」は、多重人格的なHDと感じています。
彼・彼ら?は、玄和会批判を私のブログで繰り返し続けています。
また、彼・彼ら?は 論研の話をしています。
そんな事から私は 考えました 妄想・幻想・想像です。
これは、お宅達は 論研の幹部で ネット界で 私を手助けしてくれて 私の南郷弁証法体得の為の援助…
または、私の認識が体系化され、私自身が 過去の体験を体系的に 一つにまとめようしている。
確かに実感しています。体がゴムのようにしなやか 走る感覚が元気に走れた 以前の感覚。
身体感覚の相違は、整体へいった成果かも知れませんが…
息子も言っていました「パパ変わった…でも春だからしょうがないよ」
私も感じています。確かに、大きく変わっていると…
㈠ 過去 教職について一週間での変化。
㈡ 母が亡くなった時の変化。
㈢ 家内との婚約破棄を、その母親から、突然手紙で知らされた時。
私の私へ出した「人生の課題」です。
お宅が誰であろう…と、私はお宅とのやりとりで、大きく変化・成長出来て来たのは、私の主観的な事実です。
この後、4月11日からの仕事が楽しみです。
今後の実社会・小学校での私は、どうなのでしようか?
そうそう~私は2000年から今は無き「小学館ホームパル」で数学の塾講師を初めて、やっと軌道に乗り始めた時期。
中島みゆきさんの歌 ありがとうございます。命の名前は心なんですね。心はそのままでは見えない、わからないものです。それは とらえどころのない、最後まで覚えられない言葉なのでしょうか。人間の業(ごう)や性(さが)・人間社会の不条理性を強く感じます。
PS ヘルマン・ヘッセの詩と歌の定義 同感です。コロナ禍 私が聞いていたのは 若いときから聞いていた 大貫妙子のアルバム「サンシャワー」 サマーコネクションと都会が好きです。特に今回は くすりをたくさん が気になって聞き返していました。狂っているのはあなただけじゃな。アレンジは坂本龍一。
またのコメントをありがとうございます。
とても嬉しいです。
▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
主観と客観の話
・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/ac2b96f1b1a69b73fd00424bd00c1e39
・コメントを書いた人
tada
>「コメント
4月3日に送付したのですが 届いていないようなのでもう一度送ります。「成熟した事象を対象化することが科学的認識」とは、眼前の事実・現象を それ自体・専門的に捉える言語化する事? ここでは成熟した事象が問題になります。歴史で言えば 歴史の始まりから探求するのではなく 歴史が一番隆盛な時から探求していくことです。人間を考察するのに 赤ちゃんを考察し始めるのではなく成人の考察から始めるということです。認識論でも同じ。もちろん始原をないがしろにするわけではないですよ。そのあとには両方から考察していくことになります。」<
↑
詳しい解説をありがとうございます。 私のやった事は、言うなれば 「公式を使って問題を解いた」事なのですね。 師範は「自分で公式を創れ・実力を養成しろ…」でしたね。なのに… 自分の実力だと勘違いしていました。自分勝手に「公式を使える自分にキョウガイして…」少々恥ずかしいです。でも…それとなく自覚はあったのです。ここでの「公式=生命の歴史の物語」の論理ですね。私のこのような行為は 師範の夢講義の「第五編 第二節 心理学科学生からの手紙」に学んでのものなのでしょう。でも私には その自覚は全くありませんでした。
昔、武道哲学 第一巻 第三編 を読んで 『なんで…この修行者が私ではないのか、おかしい…』と師範にお手紙を書いた事を思いだしました。ここ最近 「夢講義」を第一巻から六週目の再読を始めました。そんな中で、私の始まり(?)は「武道講義」からだと痛感しました。そこで、過去の「私の歴史の日記・歴史」から始めよう・ブログに書こうと思いました…でもまだ書けていません。
↑
私の事。私の事実の羅列。ですね。これって雲海お宅と一緒ですね。
ただ私と彼の相違は、私には私の人生は事実です。
でも、雲海お宅にとっては、私の人生を事実として確認不能です。
だから「張?」と、聞いてきました。…最近は時々思っていました。
彼が師範なのでは?師範が私の指導為に?
確か、「学城」で師範は、一つ一つの論文を添削する。直接or弟子にさせる…と書いていました。
お宅は、一人ではなく、弟子達であり、私の実力に合わせて、同レベルの弟子=取り立て稽古ですね。
だから「梅雨さん」焦ったのですね。私は梅雨さんの中に師範を見ました。
そして、雲海お宅には、反師範を見ました。それらは、私の中の師範なのですね、
私は七歳の柴犬マロンを飼っています。数年前に、散歩のリード繋ぎの時に、唸るので、頭を叩いて睨み付けました。
睨み続けている時に、マロンの目の色・光が変わりました。以前に買っていたゴールデン犬の「マファ」は私が睨むと目を逸らせていまして…
今の私は、tadaさんの中に、師範を見ています。
だから、本来は確りと丁寧な書き方を、だろうでずが…
本当は、後日書こみます」と返答とも思いましたが…
「禅問問答」では、即答です。
禅問答の正解が分かりました。「禅師を納得させる言葉」です。それは「禅師が返答不能」「弁証法・ディベート」…これも師範公式の適応ですね。
ただ…今確信しているのは、私の「悟りへの道としては正しい」でも、まだ公式適応レベル。それでも…現実界の生活は以前より自由、楽になっています。
すみません!肩が凝っています。…今日はここまで、本当にありがとうございます。
私のこのような思考は、昔に読んだ漫画本の影響です。
私と玄和会の出会い、南浦和本部での師範との出会い、私が誰かは師範なら思い出して頂けると思います。そう~昨日、師範が夏合宿で「人間には敗者復活はありえる」、「現在の中国の指導者如何でありえる」と言われていました。それって「中国人の私への御言葉だったのですね」そうです。時々合宿で 初めて師範に質問して思いっきり叱られて事を時々思い出します。他人の専門に首突っ込んでの質問でした。その時、叱られ、足がブルブル震えているのに気付きました。隣の古知屋さんが、見ているのも分かりました。その後師範への質問に苦しみました。色々と浮かぶのですが…「この質問したら…また叱られる」…二回の質問は「私の技が軽いと言われる理由」でした。三回目が、「私は狂いそう…」でした。三回目の後、都築さんから、電話で「あのような他の人にわからない個人的な質問は控えろ!」と くぎを刺されました。そこで私は「それは師範が言ったことですか?と、尋ねたら」、「違う!」と言われ、安心しました。あの時、師範は、人間ないやらしさ…ような事…、葬儀では心が変化する「嫌いなモノがすきになる…」と言った…確か、その前に井上先生に「師範の電話番号を尋ね、師範が忙しいから…」言われ…考えて結果の行動でした(記憶が今一つ)。
現在の私は、知的障害のある児童の特別支援学級の補助員四年、情緒障害児特別支援補助員五年、通常級の補助員三年目…そこで客観的に現実の「教育課程」が、見られます。
私の真の始まりは、「月刊 空手道誌」連載の「武道講義」なのです。
あまりの嬉しさ・興奮で、心のままに書き綴っていますね。
これは、私の心を纏められない、からです。
中島みゆきさんの歌 ありがとうございます。命の名前は心なんですね。心はそのままでは見えない、わからないものです。それは とらえどころのない、最後まで覚えられない言葉なのでしょうか。人間の業(ごう)や性(さが)・人間社会の不条理性を強く感じます。
PS ヘルマン・ヘッセの詩と歌の定義 同感です。コロナ禍 私が聞いていたのは 若いときから聞いていた 大貫妙子のアルバム「サンシャワー」 サマーコネクションと都会が好きです。特に今回は くすりをたくさん が気になって聞き返していました。狂っているのはあなただけじゃな。アレンジは坂本龍一。
↑
心=感情=変幻自在=個性=名前…コロナワクチン一度も打ちませんでした。
家内と息子は打ちました。家内は病院の入浴補助の仕事で強制的。
息子に、聞いたら 「打っておいた方が 都合がよい」と言っていました。
子育ての時に、師範が勧めていた育児書を読んで、息子を抱いて散歩しました。
「サンシャワー」買って聞いてみます。
ありがとうございます…
そして、すみません、でした。
早々…師範からいい事を教える「火傷の話は、神経の話」と、
捉えよ!教わりましたが…まだまだ公式の応用が未熟です。
だから、「三浦氏の弁証法を丸ごと頭脳につめた」ように、
取り敢えずは、南郷継正の著書・言葉を丸ごと頭脳に入れた!
「私は南郷継正だ!」と叫んだ当時の思い込み・心の叫びの実現を目指して~