雲海お宅へ告ぐ!
や~い!や~い!
こ~い!こ~い!
ついに…「ぐう」の音も出なくなった?
ついに~連続投稿もできなくなったな!
所詮それが、お宅の実力の限界、
専門的知識の総括の限界だろう。
知識は、現実の事物・事象…中で、読み解き・確認…
でなければ、ただの「絵に描いた餅」に過ぎないモノ。
どうだ!悔しかったら「ぐう」とでも書いたら、いかが…
もしかして…
ない頭を使い過ぎて脳溢血で
病院へ担ぎ込まれて書けないかも?!
♫♫♫ご愁傷様です♪♪♪
や~い!や~い!
こ~い!こ~い!
ついに…「ぐう」の音も出なくなった?
ついに~連続投稿もできなくなったな!
所詮それが、お宅の実力の限界、
専門的知識の総括の限界だろう。
知識は、現実の事物・事象…中で、読み解き・確認…
でなければ、ただの「絵に描いた餅」に過ぎないモノ。
どうだ!悔しかったら「ぐう」とでも書いたら、いかが…
もしかして…
ない頭を使い過ぎて脳溢血で
病院へ担ぎ込まれて書けないかも?!
♫♫♫ご愁傷様です♪♪♪
おそらくお宅にとって私の投稿には面白味があるのでしょうね。
そう思われるのは嬉しいところがあります。昔々、南郷さんからも私が書いたものを「それなりに」評価されて嬉しい気持ちになったのを思い出しましたよ。
ですが、お宅の書いたものは正直、退屈に過ぎて私にはつまらないんです。お宅には思考していく過程がありません。誰かが書いた結論だけ暗記して突然に文字化しているような感じです。
そんなお宅に専門知識も非専門知識もありませんよ。お宅から直接に得られるものは何も有りません。
ですけど、お宅が義務教育の教員(補助?)だったということは私が新しいことを学ぶキッカケになりました。
大学には総合大学と単科大学とがありますけど、小学校や中学校は全て総合小学校ですし、総合中学校で単科小学校や単科中学校は有りませんよね?
いま、そんな辺りを調べています。昨日はお友だちが哲学の学会で発表するので見たかったのですが、仕事が入って見れませんでした。
私はお宅が玄◯の獨協大学関係者だと想像しています。あそこは大学卒業してから教員になる人が多いですからね。私からの投稿を要求する前に借地権の話しを誰が読んでも理解できるように説き直してごらんなさい。
お宅は私から話しを聞き出して思考が枯渇している南郷さんがデカルトを評価していただとかの後づけの「南郷さんの思考がまだ働いている」かの嘘物語りをつくりたいのでしょうけど、学派としての玄◯は南郷さん一代で終わりですよ。
でも大学空手部としては確固たる歴史を築いていますから、今後も残っていくでしょう。
仮にも大学教授という立場ある人ですから、私のような素浪人と違って書いたものの評価というのは仕事や収入に関わりますし、私は他人の職業を奪うような真似はしませんからね。
・コメントが届いた記事
雲海お宅へ告ぐ
・コメントを書いた人
雲海
・コメント
>お宅が私からの投稿を待っているのは理解しました。
おそらくお宅にとって私の投稿には面白味があるのでしょうね。
↑~
「待っていた」のは事実でも…
それは、お宅の物珍しい珍種「認識」の表現・言葉・記述に興味・関心があるからです。
また、憎き喧嘩相手でも、喧嘩してれば、退屈しません。
確か、南郷氏が、「観念論者でも、叩き合い・言い合い、できる事は…
この世界で、一人だけの淋しさ、よりマシである…」といった内容な事を書いていましたね。
>そう思われるのは嬉しいところがあります。昔々、南郷さんからも私が書いたものを「それなりに」評価されて嬉しい気持ちになったのを思い出しましたよ。
↑
まあ~お宅が「嬉しい」と思うなら、私も「嬉しい」ですね…
しかし…私のお宅の評価は、「退屈しのぎになる・愉快な記述」です。
>ですが、お宅の書いたものは正直、退屈に過ぎて私にはつまらないんです。お宅には思考していく過程がありません。誰かが書いた結論だけ暗記して突然に文字化しているような感じです。
↑
いいね!この記述内容!
雲海お宅の、自由びと記述像!自由びと像そのモノの表現で…
まあ~お宅の感想という事であり、
敢えてここでは直接に否定も肯定もしません。
>そんなお宅に専門知識も非専門知識もありませんよ。
お宅から直接に得られるものは何も有りません。
↑~
なら質問?
何でコメント寄越すの?
お宅にとっては…全くの時間・労力の無駄遣いになるのでは?
>ですけど、お宅が義務教育の教員(補助?)だったということは私が新しいことを学ぶキッカケになりました。
大学には総合大学と単科大学とがありますけど、小学校や中学校は全て総合小学校ですし、総合中学校で単科小学校や単科中学校は有りませんよね?
↑
それって…>「新しい事を学ぶキッカケ」を得られた事になるのでは?
それなのに…>「直接に得られるものは何も有りません」とは矛盾ですよ。
もっとも…確かに「直接」に「やって見ろ!ではないのかもしれません。
でそれも、「学ぶキッカケ」が「私の記述をお宅が、人から聞くのではなく、自分で読んで」得られたモノなら…
それは、お宅が直接・自分で読んで得られたキッカケ」になり得ます。
え!小学校に専門教科はなくても、教師の中には、
ある教科を専門的に勉強している者もいます。
また、総合であっても…教科は、算数・国語・社会…
その個々の専門教科ごとに広く浅く学んでいます。
以前、総合教科・学科して、生活科がありましたが…
私は、その時々の個別の児童達の様子・概観・言葉…から、
児童心理学的な専門的角度から、
彼らとの関わり方を学び取ろうとしています。
>いま、そんな辺りを調べています。昨日はお友だちが哲学の学会で発表するので見たかったのですが、仕事が入って見れませんでした。
↑~
これが事実か、お宅の妄想・想像・幻想…かの判断は私には不可能です。
で…お宅の成長の為に、それらが、事実である事を心から祈っていますよ。
>私はお宅が玄◯の獨協大学関係者だと想像しています。あそこは大学卒業してから教員になる人が多いですからね。私からの投稿を要求する前に借地権の話しを誰が読んでも理解できるように説き直してごらんなさい。
↑
「借地権」の話は、不動産屋に話しても「??」分かり難かったようです。
なにしろ、土地と建物が自分の所有で、その土地の借地権は他人…あり得ない…と言っていました。
しかし、税務署は、「借地権」と解釈していました。
そこで、私は、それは、借地権ではなく、借家の自由使用の権利のような、
借地権ではなく、建物使用権と解釈したのです。
あの「借地権の話」は、親子間の売買であり、
私が免税・節税の為に、偶然そうなった事で、
「このような事は稀」のようです。
▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
雲海お宅へ告ぐ
・コメントを書いた人
雲海
・コメント
>玄◯の獨協関係者で黒澤さんという学校の先生がいましてね。私が昔、青空塾にいたときの少し先輩に当たる人ですが、誠実な人柄の良い人でしたよ。
>お宅は私から話しを聞き出して思考が枯渇している南郷さんがデカルトを評価していただとかの後づけの「南郷さんの思考がまだ働いている」かの嘘物語りをつくりたいのでしょうけど、学派としての玄◯は南郷さん一代で終わりですよ。
>でも大学空手部としては確固たる歴史を築いていますから、今後も残っていくでしょう。
↑
そのような見解もありですかね…
これが、お宅ひとりだけの幻想でない事を祈っています。
・
▼ コメント ────
・コメントが届いた記事
雲海お宅へ告ぐ
・コメントを書いた人
雲海
・コメント
>それから、自由びとさんに紹介された神庭さんの本も読んだんですが、余り詳細な書評など書かないほうが宜しいだろうと考えました。
↑
これば、お宅の単なる書けない言い訳でない…といいですね。
おボロが出てお宅の無能がばれる事を恐れての逃げ口上でない…といいですね。
>仮にも大学教授という立場ある人ですから、私のような素浪人と違って書いたものの評価というのは仕事や収入に関わりますし、私は他人の職業を奪うような真似はしませんからね。
↑
自信過剰の妄想狂ですね!
こんな個人ブログのストーお宅カコメントを
誰がまともに評価しようしますか?しないしょ!
そのせいか、二度と繰り返して読む気が起きず、場合によってはお宅の文章を深く理解することも出来ずに文章を書いている可能性も無くはありません。
ですが、
この後の言葉を綴る気持ちにもなれないほど、私はお宅の文章に価値や魅力を感じない空虚なものだと感じています。
先日も私の専門分野で「相手にどうしたらやってもらうモチベーションを持たせられるか?」というテーマでの討論がありましたが、お宅の文章は私から発言のモチベーションを奪うに十分な力を持っていて、神庭さんのように看護が専門で患者のモチベーションを引き出さねばならない人間の発言とは異質だと感じずにはいませんね。
私の嫁さんは専門が分子生物学なんですが、偉い人になっちゃったから組織の統括的な重役もこなしているんです。
私が思うに南郷さんの『武道と弁証法の理論』が出版された頃、奥方の薄井さんは千葉大の教授から宮崎の単科大学の学長になるべく大学の構成を考えていたのだと思います。
南郷さんが自著で「学苑アテナ・ミネルバ」とブチ上げたとき、薄井さんは県立大の「普遍科目、専門基礎科目、専門科目」の大学構想を考えていた。
夫婦の語らいって、そういうものだと思いますね。
武道家が何の脈絡もなく「学苑アテナ・ミネルバ」なんて学園構想を説くはずもなく、それはパートナーが国家的な活動としての様々な人の関わりから成る大学設立の話しを夫である南郷さんに話していたからなのだ、と。
そうした「入れ知恵」が無くなったなら、南郷さんの頭の中には空っぽの空洞が残るのだ、と。
・コメントが届いた記事
雲海お宅へ告ぐ
・コメントを書いた人
>雲海
・コメント
>私はお宅の文字表現に全く魅力を感じていません。
そのせいか、二度と繰り返して読む気が起きず、場合によってはお宅の文章を深く理解することも出来ずに文章を書いている可能性も無くはありません。
↑
今のお宅の行為、「全く魅力を感じられない」「二度繰り返し読む気が起きず」、
お宅にとって全く無駄な文章に対する感想をコメントで存続投稿してくる、
その行為って⇒ムダ!無駄!と無駄な叫びをあげている!全く無駄な行為・言動である。
何故なら、私にとってブログ記述は有益・有用なので、止める気はない皆無!
なので、私にとっては反省の材料として無駄ではなくても、
お宅にとって上記のお宅の記述は、キーボード打ち・労力全く無駄使いであろう。
端的には、お宅の無駄な努力の結果のコメントは、
私には有益・有用…という「二重性」・弁証法性の学びである。
お宅の「可能性も無くはありません」など…私にとっては、どうでもよい事。
しかし、そのお宅のコメントは投稿は、私の「対立物統一」法則の深化の可能性がある。
>ですが、
>この後の言葉を綴る気持ちにもなれないほど、私はお宅の文章に価値や魅力を感じない空虚なものだと感じています。
↑
お宅には、このお宅の矛盾がみえますか?みえていないしょ!
お宅には「この後の言葉を綴る気持ちにもなれないほど」の認識があるのに、
何とお宅はその、気持ちの感想を「空虚なモノ…」と綴っている。
こ
れは、喧嘩相手に「お前なんかと『口もききたくない!』と叫んでいる―口を開いている」矛盾。
「うるさい!」と大きな怒鳴り声をあげて、周囲が迷惑している」姿。
「うるさい自分はOK」なのに「うるさい他人はダメ」…そんな矛盾です。
対立物の統一⇒止揚がない「永遠・絶対的対立」―お宅の弁証法ですね。
これは、お宅にとっての「お宅と自由びとの統一」です。
しかし、私は「自由びとvsお宅」の統一⇒止揚⇒弁証法の多重化への過程
全く持って~この、お宅の言葉と行動の不一致は、矛盾そのモノである。とてもいい勉強になる。
>先日も私の専門分野で「相手にどうしたらやってもらうモチベーションを持たせられるか?」というテーマでの討論がありましたが、お宅の文章は私から発言のモチベーションを奪うに十分な力を持っていて、神庭さんのように看護が専門で患者のモチベーションを引き出さねばならない人間の発言とは異質だと感じずにはいませんね。
↑~
それは当たり前!
神庭氏と私の目的が異なっています。
例えば、神庭氏の著書を「看護に全く興味を持たない者」が読んで、
モチベーションが、上がりますか?
普通は上がりません。でも、私は「看護「ではなく、
「南郷弁証法」に興味があったから読んで感動してのです。
私にも、南郷弁証法にも、全く興味もなく、
私の記述を「空虚」なんて理解しているお宅にモチベーション…を語れるとは驚異・驚愕ですよ。
また、そもそも先生立場なら生徒のモチベーションを上げる事も考慮して書きます・話します。
でも…ここでは自由びとの自由な記述です。
お宅のモチベーションなんて…上がろうが下がろうが、どうでもいい事です。
それでも…この記述は、私のモチベーション・アップですね。
「異質」とは、当然です。
二人の人間の目的意識が異なっていれば、
行動・言動は、異質にありえます。
無益な労力は使わずに「合わないな」ということで終了ですね。
雲海お宅へ告ぐ
・コメントを書いた人
雲海
・コメント
>一つ一つ指摘してコミュニケーションを図る気にもなれないお宅のコメントですね。
>無益な労力は使わずに「合わないな」ということで終了ですね。
↑
それ!それ!
また!また!
でた!でた!
「言動の完全不一致」の絶対的矛盾の実例にお目にかかれた!
「コミュニケーションを図る気にもなれないお宅(自由びとブログ主のコメント」なら
何故に「自由びと」コメント欄に、コメントを書き込むのですか…
普通のブログ主から、そんな意味のないコメントは返しませんよ。
それは、普通でない自由びとのコメントを期待しての言葉ですか?
「コミュニケーションを図る気にもなれない」なら、
私の記事へのコメントならともかく…
私の「お宅へコメント」に対して、「お宅の感想コメントを寄越す事は、
これって…否定の気持ちを書いているので…コミュニケーション↓ですよ。
「コミュニケーション(英: communication )とは、社会生活を営む人間の間で行われる知覚や感情、思考の伝達 [1]」
ヤッパリ矛盾ですね…
お宅は、上記の意味で「コミュニケーション」を概念化していませんね!
だから、お宅は、言葉の意味の示す対象「コミュニケーション」概念を「社会的概念」ではなく、お宅的「個人的概念」で分かってしまっているのでしようね。
それは、言葉を辞書の意味の理解不足か、辞書の誤読・誤解…ですかね。
それとも、お宅の持っている辞書には、「社会生活を営む人間の間で行われる知覚や感情、思考の伝達」とは書かれてなかった?